第三十七話:実印
「擬似SRAM」を完成させた忠夫は、四時間の仮眠をとり重い瞼をこすりながら登校した。
一限目の数学。教師が黒板に記す二次関数の数式を眺めながら、忠夫の右手は別の論理を構築していた。
(……昨夜の回路図、アドレスデコーダの遅延をあと3ナノ秒詰めれば、新型DRAMにもタイミングを合わせ切れるはずだ)
ノートの端に、計算式ではなく「特許請求の範囲クレーム」の構成案を書き連ねる。現代の判例知識を逆算し、競合他社がどう逃げても網に掛かるような論理の檻を編み上げていく。
放課後のチャイムが鳴るまで、忠夫にとって学校はもはや思考を整理するための場所だった。
⸻
夜。
夕食を終えた父・和雄が、茶を啜っていた。その横で、母・佳子が息子がテーブルに置いた「異様な塊」を見つめている。
「……忠夫。学校へ行きながら、夜な夜なこんなものを作っていたのか」
和雄が指差したのは、食卓の中央に置かれた、銀メッキ線が血管のように這う「擬似SRAM」の基板だった。
「……父さん。母さん」
「この基板の中にある論理を、特許として申請したい。佐伯技術研究所名義で、発明者は僕。そして、未成年である僕の『法定代理人』として父さんの署名、そして『代表取締役』として母さんの実印が必要なんだ」
母が、少しだけ身を乗り出した。
「忠夫。……それは、テトリスの時の契約書と同じくらい、大事なものなの?」
「……それ以上だよ、母さん。これは、この分野の基礎特許になり得る。このやり方で製品を作る企業は、必ず特許を使うことになる。つまり、使うたびに、お金が発生する仕組みになるんだ」
父は、息子の尋常ならざる眼光に、かつての「テトリス」や「任天堂株」の時のことを思い出した。この息子は、もう自分たちの理解の範疇を超えている。
「……分かった。俺は明日、午前中だけ半休を取って、区役所で印鑑証明を取ってきてやる」
佳子も頷き、押し入れの耐火金庫から「代表者印」を取り出してきた。
「分かったわ。佐伯技術研究所の社長として、私が責任を持ってハンコを押すわね。……でも忠夫、あんまり無理しちゃダメよ。明日も学校なんだから」
「……ありがとう。早速明日、今川先生に電話して弁理士を紹介してもらえないか聞いてみる」
⸻
翌日、放課後。
忠夫は自宅へ帰ると早速 今川 へ電話をかけた。
「……はい、今川です」
「先生、佐伯です。……折り入ってご相談が。実は弁理士を紹介して欲しいんです」
「弁理士? 特許でも取るのかい?」
「ええ、実は面白いものを作りましてね。……DRAMを、外部からはSRAMと同じように扱えるようにすることに成功しました」
受話器の向こうで、今川が言葉を失う気配がした。
「……擬似SRAM(シュードSRAM)か。米国勢も研究段階で試しているが、タイミング制御の難解さで実用化には至っていないあの技術を……君が、一人で形にしたというのか?」
「ええ。これを特許で確定させたいんです。先生、半導体を専門とした弁理士を紹介していただけませんか」
数秒の沈黙の後、今川は豪快に、そしてどこか戦慄を含んだ声で笑った。
「……ははは! 参ったな。君は連中の研究段階を、一気に実装レベルまで引き上げたわけか。……いいだろう。神田に山下さんという弁理士がいる。元は大手メーカーでDRAMの回路設計を主導していた人だ。特許戦略に精通していて、メーカーの論理と設計者の執念を併せ持つ人だよ。明日は土曜か……あの人なら事務所に籠もって判例でも漁っているはずだ。今から連絡しておくよ。」




