58.キヨの心遣い?
龍之介が目覚めたことはすぐに担当医師に報告された。
「眩暈などはないですか?」
「はい、大丈夫です」
病院で検査をした後、キヨの申し出により大学病院にて再度精密検査を受けることとなった。
早速その日の午後、退院の手続きをして朝比奈家が用意した車で大学病院へと向かう。真っ黒な黒塗りの高級車。初めての車に龍之介が緊張しながら乗り込む。
「凄い車だな……」
高級車の後部座席に乗った龍之介が隣に座る真琴に言う。
「そう、だね……」
これが特別だと思っていなかった真琴。戸惑いながら返事をする真琴に、前の席に座ったキヨが苦笑する。
「龍之介さん、本当にお身体はよろしいのでしょうか?」
少し後ろを向いて尋ねるキヨに龍之介が答える。
「ええ、ありがとうございます。もう平気です」
「無理はなさらないでね」
「はい」
そう元気に返事する龍之介だが、頭に巻かれた包帯がやはり痛々しい。キヨが言う。
「今晩は検査入院のために泊まって貰って退院は明日になる予定。真琴、あなたはどうするの?」
(うっ)
昨晩は龍之介の看病でほとんど寝ていない真琴。龍之介が目覚めたことで安心した真琴はひとり睡魔と戦っていたが、思わぬキヨの質問に一気に目が覚める。
「え、ええっと……」
泊りたい。一緒に泊まりたい。
だけどそんなこと恥ずかしくてとても口に出せない。まごつく真琴にキヨが助け舟を出す。
「龍之介さんがお泊り頂くお部屋はちょっと広すぎてね。身の回りの世話なども必要だから真琴、あなた一緒に泊まってくれるかしら」
それを聞き驚く龍之介が言う。
「いや、俺はもう元気で……」
「いいよ、おばあちゃん。私も一緒に泊まるから」
「お、おい、マコ。俺は大丈夫だって」
「遠慮しなくてもいいですから。身の回りのお世話は私がしますね」
「い、いいよ。恥ずかしいし……」
龍之介からすれば年下の男子高校生にそんな世話をして貰うことはやはり気が進まない。
「さあ、着きましたよ」
そんな話をしているうちに以前キヨが入院していた大学病院に到着した。
(まさかここに自分が入院する事になるとはな……)
龍之介はその大きな病院を見て苦笑する。
キヨと龍之介達が車から降りると、まるでドアボーイのような人間がやって来て荷物を運び出す。そのままキヨと少し話をしてから病室へと案内された。
「え、ここに泊まるの?」
それは以前キヨが宿泊していた部屋とほぼ変わらない豪華な部屋。しかも前がひとり用の個室だったのに対し、案内されたのは宿泊者用のベッドも備えたまるで高級ホテルの様な部屋。窓の外を見ながら真琴が言う。
「すごくいい景色ですね、龍之介さん」
そっちかよ、と思わず内心突っ込みを入れる龍之介。精密検査は必要だとのことだが、基本痛みもほとんどない元気な自分がこのような病室に泊まることにやや戸惑いを感じる。
やがて担当らしき人間がやって来て入院の手続きを行う。龍之介に今日明日行う検査の内容を簡単に説明し、頭を下げて退室していった。
「じゃあ、私はここらで帰りますね」
少しの休憩と雑談を挟んでキヨがふたりに言った。龍之介が立ち上がって頭を下げて言う。
「キヨさん、本当にありがとうございました!!」
キヨが笑顔になって龍之介に近付き、両手を握って言う。
「いいんですよ。私は龍之介さんがお元気になってくれればそれで十分。あ、そうそう、あと真琴をよろしくお願いしますね」
「ちょ、ちょっと、おばあちゃん!!」
横で聞いていた真琴が慌てて声を出す。龍之介が答える。
「分かりました。真琴ことは任せておいて下さい」
かああああ……
龍之介の言葉を聞いて再び顔を赤らめる真琴。キヨは笑顔のまま部屋を出て行った。
(あ、ふたりきり……)
真琴はキヨが居なくなったことで、龍之介とふたりだけになったことにふと気付いた。これまでもマンションでふたりで暮らしてきたのだが、今日はなぜか妙な違和感がある。
(あ、そうか。私、平手打ちしたことを謝らなきゃ……)
真琴が龍之介との間に感じていたその違和感の正体に気付く。事故という大きな出来事があったからすっかり忘れていたが、その直前、彼が朝帰りして口紅つけて帰って来たのを見て平手打ちしたのを思い出す。
(あれは許せない、許せないんだけど、もういいや……)
龍之介が無事に目を覚ましてくれた。またこうして一緒に居られる。今はその喜びの方がはるかに大きかった。
「あの、龍之介さん……、ええっ!?」
きちんと謝罪しようと思った真琴の目に、いきなり上着を脱ぎだす龍之介の姿が映る。焦る真琴。
「ん、どうしたんだ?」
上着を脱ぎズボンに手をかけた龍之介が真琴を見て言う。真っ赤になって後ろを向いた真琴が震えながら答える。
「い、いや、だって、何をして……」
心臓が複数あるんじゃないかと思うほど激しく鼓動し、熱くなった血液が全身を巡る。龍之介が言う。
「え、何ってここでするんだけど、ダメか?」
(こ、ここでするーーーーーー!?)
龍之介に背を向けながら真琴の頭の中はいかがわしい妄想で埋め尽くされる。
(こ、ここって病院でしょ!? そ、そりゃ誰も来ない個室だけど。わ、私初めてだし、いきなりそんなこと言われても……)
思わず両手で顔を塞ぐ真琴。体中から出る汗と自分の体温で頭がクラクラし始める。龍之介が言う。
「いや、別に恥ずかしがることはないだろ」
「恥ずかしいです!!!」
真琴は顔を押さえたまま大声で言い返す。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!! まだ心の準備が……)
初めての経験の前に真琴が自分に落ち着くよう言い聞かす。相手は年上の大学生。全て任せておけばいいと以前読んだ雑誌に書いてあったのを思い出す。
真琴が何度も深呼吸をして心を沈めようとしていると、龍之介があっけらかんに言った。
「あ、終わったよ。そんなに恥ずかしがることないだろう。たかだか……」
(え、終わった!?)
覆っていた手を下げ振り返り龍之介を見る。
「たかだか着替えで」
龍之介は部屋に用意されていた病衣に着替えていた。
「あ、あはっ……、着替え、そうですよね、そう、着替え……」
真琴は自分が妄想していたことを思い出し、再び顔を真っ赤にする。冷静に考えればこんな昼間から病室でそんなことをするはずがない。真琴は穴があったら入りたくなるぐらい恥ずかしくなった。
「龍之介っ!!!」
そんな微妙な空気を一瞬で壊すかのように、病室のドアが激しく開けられた。
「じいちゃん!」
三上虎次郎。キヨのライン友達の『トラさん』であり、龍之介の祖父。虎次郎がずかずかと部屋に入って来て龍之介の元へ行き言う。
「大丈夫なのか? 事故に遭ったって聞いたんだが」
汗をかいて息荒い虎次郎。龍之介が答える。
「ああ、轢かれちゃったよ。でも怪我は全くないから。大丈夫」
頭に巻いた包帯も外され、至って元気な龍之介。虎次郎が尋ねる。
「意識を失っていたそうだが?」
「うん、覚えていないけどそうだったみたい」
「もうよいのか?」
「大丈夫」
「キヨさんに聞いた時には心臓が落ちるほどびっくりしたぞ。まあ無事でよかった」
ほっと胸をなでおろす虎次郎。
「あ、あの……」
それを隣で聞いていた真琴が戸惑った顔で龍之介を見る。
「あ、そうそう。これ、俺のじいちゃん。よろしくな」
紹介された真琴が頭を下げて挨拶する。
「あ、あの、私、朝比奈真琴です。よろしくお願いします……」
噂に聞いていたキヨのライン友達であり、祖母が想いを寄せる相手。そして龍之介の祖父。真琴は突然現れた虎次郎に緊張する。虎次郎が答える。
「ああ、虎次郎だ。よろしく。キヨさんのお孫さんだね。こりゃまた、えらく可愛い子だな!!」
(げげっ!!)
頭を上げた真琴が面食らう。
龍之介の母親もそうだったが、虎次郎にも一瞬で女だとバレてしまったようだ。龍之介が溜息交じりで言う。
「じいちゃん、マコは男だよ。何言ってんの」
「男? 馬鹿言うな。どこにこんな可愛い顔した男がいるんだ?」
「まあ、たしかに可愛い顔つきはしてると思うけど、男。分かった?」
「こんな可愛い顔してるのに?」
「男だ。可愛い顔してるが」
真琴は自分の目の前で飛び交う『可愛い』という言葉を何度も耳にし、その耳まで真っ赤になる。虎次郎が真琴を見つめて言う。
「なあ、真琴さん」
「あ、はい」
真琴が顔を上げて答える。
「孫を楽しみにしてるよ」
(ひゃっ!?)
再び予想外の言葉に真琴が飛び上がるほど驚く。先ほどの龍之介の着替えの時から変な妄想が頭の中にあった真琴は、また変なことを考えてしまい顔から湯気が出るほど赤くなる。
「じいちゃん、だからマコは男だって。耳、遠くなったんか?」
「聞こえとるわい!」
虎次郎は笑顔で答えた。
「じゃあ、そろそろ帰るな」
「え、もう帰るんか?」
虎次郎が来て数十分、あまりに早く帰ると言い出す虎次郎に龍之介が驚く。
「ああ、キヨさんに早く帰って来いって言われてるんでな」
「え、キヨさんが?」
龍之介にはなぜキヨがそのように言ったのか理解できない。部屋を出ようとする虎次郎が真琴に言う。
「じゃあ、真琴さん。龍之介をよろしくな」
「あ、はい」
虎次郎の挨拶、そしてキヨの意図。
その意味を理解した真琴が恥ずかしくて下を向く。そして今夜、初めて龍之介と同じ部屋に宿泊すると言った真琴自身、その大変さにまだ気付いていなかった。




