56.夢の口づけ
拭いても拭いても涙が止まらなかった。
桃香からの一報を受け、真琴はすぐにタクシーを呼び龍之介が運ばれた市民病院へと向かっていた。
(龍之介さん、龍之介さん……)
その名前を心の中で繰り返すだけで涙が溢れる。
ケンカしたまま離れたふたり。命に別状はないと言うものの意識不明のまま病院に運ばれたと聞き、真琴は体が崩れるような脱力感に襲われていた。
(話がしたい、龍之介さんと、話が……)
もしかしたらそんな当たり前のことがもうできなくなるかもしれない。真琴は深い闇の中でひとり涙を流した。
「龍之介さん!!」
大学の近くにある市民病院。
その病棟の一室で龍之介は横になって眠っていた。綺麗な顔。特に怪我などの外傷はない。
「真琴ちゃん……」
その龍之介のベッドの隣にピンク色の髪の桃香が座っている。少し暗い部屋だが彼女もたくさん泣いたのだろう、目が真っ赤である。真琴が龍之介の傍に行き泣きそうな顔で見つめる。
「龍之介さん、起きてよ。どうしてこんな……」
タクシーの中で一旦止まった涙が、龍之介を見て再び真琴の目から溢れる。
呼び掛けても無反応な龍之介。静かに寝息だけが聞こえる。桃香が言う。
「大学の帰りにね、車に轢かれそうになった幼い子を庇ったんだって……」
「ううっ、う、ううっ……」
それを黙って聞く真琴。
「幸い車が急ブレーキをかけて大きな怪我はなかったんだけど、頭を打ってみたいで意識が戻らないの。CTとかじゃ異常はないのに……」
桃香も再び涙を目に浮かべて話をする。真琴が龍之介のベッドに更に近付き、片手をその顔に添えて言う。
「龍之介さん、起きてください……、お願いです……」
それを聞き桃香も口に手を当てて嗚咽する。
事故後、ほとんど実家の連絡先などをスマホに入れていなかった龍之介に対し、警察はアルバイト先として登録されていた『カノン』に電話。バイトに現れない龍之介を心配していた桃香達に事故が件が伝わった。
その後大学に確認してようやく龍之介の母親にも事故のことが伝えられた。
「龍之介さんのご家族の方は……?」
涙声で真琴が尋ねる。
「さっき少し来たんだけど、『また明日の朝来る』と言って帰っちゃった……」
息子のこの状態を見て帰ってしまう母親に真琴が怒りを感じる。
母親が来る前に助けられた女の子の家族が来て涙を流していたそうだが、彼女にはそう言った素振りはほとんど無かったそうだ。警察や保険会社や病院の対応をする為だそうだが、こんな時に近くに居てあげないなんてどういう親なのだろうと理解できない。
心配そうな顔で龍之介を見つめる真琴に桃香が立ち上がって言う。
「真琴ちゃん。あと、お願いできる?」
「え? 桃香さん?」
桃香は優しく真琴を抱きしめると耳元で言った。
「傍にいてあげて。龍之介君は私じゃなくて、あなたに居て欲しいはずだから」
かああああ……
その言葉を聞いて男装した真琴の顔が一気に赤くなる。
「そ、そんなことないです! 桃香さん魅力的だし、大人だし……」
桃香が真正面から真琴の両肩を持って顔を近づけ目を見つめる。
「真琴ちゃん」
「……はい」
もうそれ以上の言葉は要らなかった。
下手に何かを言って通じる相手じゃない。自分や龍之介のことをよく知る桃香だからこその対応。
「じゃあ、私帰るね。家族も心配してるし」
時刻は既に深夜。龍之介と同じ大学生の桃香だから、同居する家族も心配しているだろう。ここまで付き添ってくれて逆に感謝したい。
「はい、後は私が見ています」
「うん、頼んだわよ」
桃香はそう言って帽子を被った上から真琴の頭を撫でる。そして小さく手を振って帰って行った。
(龍之介さん……)
真琴はベッド脇に置かれた椅子に座り、静かに目を閉じて眠る龍之介を見つめる。
ブルブルブル……
その時、真琴が持っていたスマホが着信を告げる。
「おばあちゃん……」
それは祖母のキヨからの電話。真琴がスマホを耳に当て小声で話す。
『おばあちゃん……』
涙声。事前にメッセージで連絡を受けていたキヨが真琴に尋ねる。
『どうなんだい? 容態は?』
真琴は外傷がないこと、頭を打って意識がないこと、そしてCTなどでも異常は見つからないことを告げた。真琴が声を殺して小さく泣き出す。
『真琴、よくお聞き』
『うん……』
力強い祖母の声。真琴がスマホに耳をしっかりと当てる。
『さっき私がいた大学病院の理事に連絡して、龍之介さんを転院させて貰うように手配したわ。脳神経外科の第一人者の先生がいらっしゃるの。そこで診て貰いましょう』
『うん、おばあちゃん、お願い……』
誰でもいい、助けて欲しいと願った真琴に祖母の言葉が強く響く。
『明日の朝、転院させるわ。真琴、龍之介のご家族の方とは連絡取れる? 取れないなら私がトラさんに頼むけど』
『家族……』
龍之介の家族に会ったことはない。ただ明日の朝、母親がまた来ると桃香が言っていた。自分がやらなきゃならないと思った。
『うん、私が伝えて置く』
『分かったわ』
『おばあちゃん、ありがとう』
真琴が涙を堪えて感謝を伝える。
『龍之介さんは私達の恩人のような人。朝比奈家の意地にかけても絶対治すから。だから真琴……』
『うん』
真琴が涙を拭いてキヨの言葉を聞く。
『龍之介さんをひとりにしないでおくれ』
(!!)
キヨの言葉が真琴の心に突き刺さるように響いた。
どうでもいい嫉妬で彼を困らせ、口も利かずに朝出て行った真琴。ひとりでいる不安や恐怖は自分が一番知っているはずなのに、彼をひとりにしてしまった。真琴の目から涙がぼろぼろと溢れ出す。
『うん、分かってる。大丈夫だよ、龍之介さんとずっと一緒に居るから……』
それは真琴自身、自分に言い聞かせる戒めでもあった。
『分かったわ。じゃあ、明日。私もそっちへ行くから』
『うん、ありがとう。おばあちゃん』
真琴は優しくスマホをテーブルに置いた。
沈黙。
幸い個室だったので他の人の目を気にせず龍之介と向き合える。真琴はシーツを持ち上げ龍之介の手を取り出して自分の頬に当てる。
「こんなに温かいのに、こんなに綺麗な手なのに……」
真琴が目を閉じてそのぬくもりを感じる。真琴はすっと立ち上がると壁の方へと歩き、病室の明かりを消した。
暗くなる部屋。窓の外から月明かりが室内へと注ぎ込む。
「龍之介さん……」
月明かりで青白い顔をした龍之介に真琴が話し掛ける。
「龍之介さん、聞こえますか……?」
真琴は被っていたニット帽に手をやり、ゆっくりとそれを脱ぐ。そしてかけていた伊達メガネを外し、はらりと落ちた黒髪をゆっくりとおさげへとまとめる。
「龍之介さん」
真琴は横たわる龍之介の頬に手をやり優しく言う。
「『おさげの天使様』が来ましたよ。起きてください、龍之介さん……」
そう言いながら再び涙が頬を流れる。
月明かりを受け、薄暗い病室にまるで白く輝く花のように立った真琴が龍之介を見つめる。
(……あれ、なんだろう。誰かが呼んでいるような)
意識朦朧としていた龍之介。
動かない体や瞼を感じながらも、不思議と脳裏にぼんやりと浮かぶ少女の白い影。
――天使様……?
おぼろげな意識の中でその少女は自分のことを『天使様』と言っている。
(俺、俺……)
会いたかった。
ひと目見た時から好きになった。
彼女を探して毎日電車を見回した。
(天使様……、えっ)
意識も感覚もないはずの龍之介の唇に、すっと顔を近づけた天使様が自分の唇を重ねた。
(俺、俺……)
龍之介の意識はそこで消える。
心地良い柔らかな泥濘の中へとゆっくりと沈んで行った。




