後編
今日も朝から吉原教授の講義があった。
若く溌剌とした教授の授業は、情報最前線の仕事とあって学生達からも人気が高かった。振り向くと、後方の開いている席でノートを取っている充が居た。余程勉強がしたかったんだろう。今に至っても犯人を見付けられずにいる自分の能力の低さを、冬馬は痛感していた。
「お願いがあるんだ、」
カフェテラスにて昼食の途中に冬馬は、光と茉莉果を前に懇願した。
「この型番のパソコンがどこにあるか調べてくれないか?」
ふたりにメモを渡す。
「大学中の?探せって?」
光は途方も無いであろうパソコンの数を、頭で弾いて計算し戦いている。
「間宮充のカンニングを暴いたパソコンの型番なんだ、例えば吉原教授身辺の研究室とか、そこに出入りする学生とかが怪しいとは思うので、何とか潜り込んで調べたいんだよね」
「あ、だったら同じクラスの田中君に頼んでみようかしら、彼は吉原教授の元でオンラインゲームを開発しているメンバーなのよ、彼の話はいつもゲームのことばかり、流川くんが興味あるって近づいて行けば断りはしないでしょ、後で早速研究室に行って見ましょうよ、流川くんが話をしているうちに、私と光がそれとなくパソコンを調べるわ」
話は早かった、午後の講義が終わって早速向かった研究室には、田中裕二とその先輩、向井俊がパソコンでゲームに興じていた。
「あ、先輩、さっき言ってた同級生です」
オタク系、少し小太りの田中裕二が愛想良く入室を勧めてくれた。
「こんにちは、情報科学で同じ授業取っている戸田茉莉果です。こちらは流川君と内田君です、二人ともオンラインゲームの開発に興味があるって言ってるんですけど、お話聞かせて頂けませんか?」
「流川って、あの流川?小説書いてるっていう?」
向井俊が、半信半疑で尋ねた。
「あ、はい。」
成り行きはどうあれ、素直に認めなければならないだろうと冬馬は考えた。
「そりゃいい、入って入って」
三人は入室をあっさり認められた。部屋は思ったより広く十二畳くらいの広さに見たところパソコンは五台、隅にはガラス張りの小部屋があってドアで仕切られている。教授専用だろう机には、パソコンがあるには違いないが、書類が積み重ねられ殆ど隠れている。その前の机に一台のノートパソコンが見えた。全部で七台だ。壁にはパソコン関連の分厚い本が所狭しと並び、何故か上等なコーヒーメーカーが良い匂いをさせて常備してあった。そこから注いだコーヒーを田中裕二が差し出してくれた。
「教授がコーヒー通でね、どこの喫茶にも負けない味だと思うよ」
その話し通り、舌の上をまろやかな味が転がって行った。
「教授は?」
「早ければ、いつもは今頃来る時間だけど、忙しい方だから学会だとか、講義とかで駆けずり回ってるよ、」
「ゲームは、もう幾つか開発されたんですか?」
冬馬がさも、興味ありげに尋ねた。
「勿論、シューティングゲームはオンラインで公開してあるけど、結構好評なんだ。バグの報告が時々あるけど、手直ししながら進化させている。新しいのは開発途中で、ファンタジー物だけど誰も話を作り込んで行く能力が無くてね、興味あるなら是非君には強力して欲しいくらいだ。できたらノーギャラで」
あまり興味は無かったが、ここで断るには都合が悪いので冬馬は曖昧に笑って誤魔化した。
それから向井俊がコンセプトメイキングと、リサーチの重要性を熱く語る話を冬馬が聞いている横で、光は彼らの視界を遮るように茉莉果の衝立となり、その隙に茉莉果はパソコンの型番を調べていた。
「あ、君、あまりパソコン触らないでくれよ」
流石に、弄くっていた茉莉果に気づいた内田俊が注意した。残りは今触っているパソコンと教授の部屋の中にあるパソコンだ。
「このパソコンは大学の支給ですか?」
直球勝負に茉莉果は出た。
「ああ、教授のお陰でハイエンドのトップクラスを頂いた、ゲーム開発には大いに役立ってるよ」
「へぇ、僕も興味あるんですけど型番教えてくれませんか?同じもの欲しいな」
光が、興味有り気に尋る。
「えーとどこだっけ、ああ、あったあった」
裏のカバーを外すと、あっさり問題のパソコンが見つかった。
「ここのパソコンは誰でも自由に触れるんですか?」
「そうだね、暇なら朝から晩まで張り付いている奴もいるくらいだ」
「何人くらい居るんですか?」
「うちは少数先鋭だから八人でやってるんだ、それ以上は増やさない、でも君は別だよ流川君、是非入部しいて貰いたいね」
その時、ドアが開いて吉原教授が入ってきた。
「おやおや、新入生かい?」
「あ、お邪魔しています」
三人は頭を下げた。
「君たちは確か・・・見かけたことあるぞ」
「情報科学の一年です」
茉莉果がみんなの名を紹介する。
「ああ、君が流川君だね、この前のレポートは良く出来ていたよ、見事だ。」
感心仕切りの吉原に一同は頷いた。向井達にとっても、教授がそんなに褒めた事はないので、冬馬に唯者ならぬ空気を察していた。それから一頻りゲーム開発の話をして、教授は奧の自室に入って行った。何だろう、この胸騒ぎは・・・、何故だか急に、冬馬は不安に苛まれていた。
すっかり帰りが遅くなった冬馬がレストランに顔を出すと、連は派手なドレスを着たマリコママと一緒に食事を取っていた。冬馬に気が付いたマリコママが手を振った。
「お帰り遅かったのね、」
フリルの付いた薄紫のドレスは胸元が広く開いていて、圧巻のマリコママは微笑んだ。舞台がはねた後の劇団員のようだった。
「ごめん待たせちゃって、」
「いいよ、マリコママが面白い話を沢山してくれたから、退屈しなかったよ」
以前からふたりは仲良かったが、その微笑みに少なからず良からぬ空気を感じ取る冬馬だった。
「また、余計な事を喋ってんじゃないだろうね?」
「何言ってんのよ、あたしが愛する冬馬クンの悪口なんか言う筈無いじゃないの、」
そう言って、マリコママはリップペンシルで綺麗に整えられた、唇の口角を上げて笑い、冬馬は眉毛を訝しげに上げながらママの横に腰掛けた。
「大学生になると、少し見ない間にますます格好良くなっちゃうんだから、」
眩しいものを見るかのように、目を細めて冬馬を愛でている。
「昨日、会いましたけど?」
「あら、そうだっけ?」
ママは豪快に笑った。だいたい、毎日、珈琲飲みに来てるでしょうが?冬馬は心で呟いた。
「ほんの噂話だよ、昔、冬馬は店が引けても部屋には帰らず、お姉ちゃん達と街に消えて行ったけど、どこへ行ったんだろうねって、話していたんだ」
「ママ!」
ほほほほと笑って席を立つと、マリコママは扇子を翳しながら店から出て行った。
まったく、油断も隙もありゃしないとはこのことだ、ひとの過去をベラベラ喋りやがって。
「ところで、何か分かった?」
「いろいろ面白いものを見付けたよ」
「ここじゃ何だから続きは部屋でな、僕もなんか食べようかな?おまえ、時間大丈夫?」
「全然大丈夫、海羅が迎えに来てくれるってさ、どっかで医者と遊んでるらしいよ」
ふーんと呟いて、冬馬は魚介類のトマトソースパスタを注文した。父親が得意な料理で、それは多分、ここのマスターに伝授された味らしいと言うことは舌が確信をしていた。偶然なのか連も同じ物を食べていた。
「覚えている?親父の得意だった料理、このペスカトーレ」
「うん、一緒に作ったことも覚えてるよ、多分、ここのと同じ味だと思う」
思い出したのか連はしんみりとパスタを食べている。別れたのが八歳の時だったから、思い出は朧気で、更に薄れつつある記憶を辿り寄せなければならないのだろう、そう思うと冬馬は胸が痛んだ。
「ウイルスは駆除できた?」
「誰に聞いてるのさ?」
連はニヤリと不適に笑った。
「二度の逮捕歴も伊達では無いって事か、」
「でもあの強力なウイルスは、サイバー班でもお手上げなはず、」
「そんなに?」
「あれを作った奴は、普通の脳みそじゃないね」
研究室の誰かに間違いないだろうが、一体誰なんだろう。あそこに出入りしている連中は、テクノロジーの強者揃いだから、調べるとなると大変だろうなと冬馬は思った。
「でもね、どうしても警察はパソコンを調べるべきだったと、思うよ・・・、」
「勿論、調べようとしたのだろうけど、おまえが言った通り壊れていて、直せなかったらしいよ、それに自殺と断定したから、そんなに重要だとも思っていなかったんじゃないかな?真剣に扱って無かったのかもね」
ミルク多めのカフェオレをぐるぐるかき回しながら、連は何かを考えているようだった。その様子から冬馬は早く食事を切り上げて、部屋に行った方が良いと判断し、慌ててパスタを食べるのだった。
「これ見て、」
ふたりは部屋に戻ると、早速、机の前に座ってパソコンを開いた。復元した日記をクリックし、パスワードを記入すると、間宮充が自殺したとされる、前日の日記が出てきた。
『明日、教授にさよならを告げよう。僕は何時までも彼の奴隷で居ることが耐えられない。今まで懸命に育ててくれた母には悪いが一生掛けて償って行くつもりだ、その穏やかな笑顔が戻るまで。』
「まったく警察はどうして、この日記を復元しなかったのか理解に苦しむよ。死ぬつもりなんてどこにも無いじゃん」
本当だ。確かに確信を持って言える。彼はやり直すつもりだったのだ。
「前の日の日記はね、『夜遅く、教授からマンションに来るよう呼び出された。彼の手が背中に触る度に虫唾が走る、いつまで我慢しなければならないのだろう。将来なんてもう、何も見えない・・・。』・・・どうよ」
ギョッとした。あの後ろから抱きしめられた感触は教授だったのか?
『二月四日
向井先輩が言った。”お前が来るまではオレがその席で教授の手助けをしていたんだ。あの方は気が多い人だから、その内君に飽きたら又、僕にその椅子が返ってくるだろう”アルバイトの事を言っているのか、それとも二人の関係の事を言っているのか、どっちにしても反吐が出る。』
『一月二十五日
クスリだろうか?教授のベッドでいつの間にか眠っていた。そして、裸の写真を撮られていた。”インターネットに流されたくないのなら、私の言う事を聞け”と、それを見せられ脅された。あいつは優しい仮面を被った悪魔だ。』
「カンニング事件どころじゃないね」
妙に冷静に連は言った。
「お前どこまで見たんだ?」
「全部、当然だろ?大学って所はゲイの温床か?ま、面白かったけどね」
しょうがない奴だと言わんばかりに、冬馬は連を睨み付けて頭を振った。奴は小癪に笑っている。
『一月十五日
イニシャルだが、カンニングの件が掲示板に載った。勿論、シラを通すつもりなのだが、誰が載せたのだろう。知っているのはカオルと教授だけのはず、いや、もしかして向井先輩か?疑いだすと誰も怪しいが、カオルだけはないと信じている。』
日記をずっと過去に戻して見る。
『十月二十五日
最近、遊びすぎて成績がガクンと落ち、教授に注意を受けた。”このままでは単位落とす”と、焦った僕はついカンニングをしてしまったが、それを吉原教授に見つかってしまった。しかし、教授は書類整理を手伝ってくれたら今回のことは不問にしようと言ってくれた。しかも、アルバイト料も払ってくれると言う、何ていい人だ。涙が出そうになった』
「これが事の始まりか・・・、」
「もっと、すげぇのがあるよ『十一月三日、教授が後ろから抱きついて来た、僕は蛇に睨まれた蛙のように、何も出来ずにただ、身体を彷徨う教授の指先・・・・』」
「おおい!ガキのくせに面白がってんじゃないよ、お前もう帰れ、」
「何だよ、いいところなのに」
連は笑っている。
その時、チャイムが鳴って、次いでドアをどんどん叩く音がした。こんなにしつこいのは、あいつしか居ないことを冬馬は知っていた。
「うるさい海羅、酔っぱらってんのか?」
そう言いながらドアを開けると、薄いパープルブルーのシャツにグレーのカシミアカーディガンを着、前髪を上げて後ろで一つに束ねた、変に地味な海羅がテイクアウトの食料を手に一杯抱えて入ってきた。
「差し入れよ、何か分かった?」
「すっげぇよ、教授と間宮充は出来てたんだ」
「連、いい加減にしろよ」
冬馬が連の頭を小突いた。
「どういう意味?」
「ま、そう言う意味だけど・・・」
”ほらね〜”と、連が後ろで声を掛ける。
「え〜〜〜、うそぉ。カオルちゃんそれ知ってたのかなぁ」
「あいつもゲイか?」
今度は海羅に頭を殴られた連は、頭を抱えて蹲った。
「間宮充はカンニングの件から、教授に脅迫され関係を強要されたんだと思う、日記見てみなよ、一度の過ちで総てを失った彼の気持ちが痛いほど綴られているよ」
冬馬は海羅に席を譲り、連と並んで後ろのソファに腰掛けると、海羅が持ってきたコーヒーを口にした。そしてフレーバーコーヒーは嫌いだと文句を言う冬馬と、バーガーにオニオンが入っていると、不満を零す連の二人を振り向いて睨み付けた海羅は、兄弟の容姿は勿論、不平不満までもが、あまりににもそっくりなことに気が付いて笑ってしまった。
「あんた達、気づいてる?何から何までそっくりよ。違うのは年くらい」
兄が好きな連はまんざらでも無さそうな顔をしてバーガーを頬張っていたが、冬馬は”ふん”と言ってそっぽを向いた。その時、冬馬の携帯が鳴った。
「茉莉果?何?」
「さっき田中君から電話があってさ、是非ともあなたに入部を勧めてくれって、結構良いチャンスと思うけどな、どうする?」
間宮充の日記を読んだ今、はい、そうですかと、悪の巣窟のような研究室にはおいそれと入って行けない。
「電話じゃ何だから、明日また会って話ししよう」
「ええいいわ。田中君が言うには、流川くんを紹介してくれたから私も特別に入部許可してくれるって、私も何か手助け出来るよう頑張るわね」
「駄目だよ、もし、君の身に何かあったら大変だからそれは止めてくれ」
何言ってんだか?って感じで、眉毛を吊り上げ、バカにしたような海羅が、振り向いて冬馬を見た。
「ありがとう心配してくれて、でも私は流川君が一緒だと安心できるから、ふたりで事件解明しましょうよ」
「ごめん・・・」
「いいのよ。じゃ、明日会いましょう」
「じゃ・・・」
電話は切れた。
「あんたあの娘と付き合ってるの?」
「なんで?」
「私の時と態度が違う。何かあの娘には優しくない?」
「そんなの当たり前じゃん、」
「どうしてよ、」
「彼女は海羅ではないからね」
「どういう意味よ」
「そう言う意味。海羅は僕の彼女では無いし」
一瞬、みんなが口を噤むような、それぞれの思惑が交差した。
「あーそんな事言っていいのかなぁ?姉だろうが彼女だろうが、海羅は何でも一番じゃないと気が済まない性格だからね、」
場を取り繕うように連は茶々を入れたが、海羅は目を細めたまま無言で背を向けた。
「怒る方が可笑しいだろう?」
「海羅は可笑しいからね」
連がそう言うと、海羅からフライドポテトが飛んで来た。パソコンのモニターを見ながらポテトを食べていた海羅は、いつの間にか黙って真剣に日記を読み耽っていた。
「メールは?」
「復元したんだけどさ、一通だけ教授宛に送られたメールがあって、きっとそれが最後のメールで、遺書なんだと思う」
「ああ、でもそれは誰でも打てるような短い文なんだよな」
「うん、一行だけ、時間は十一時前に送信されている」
「自殺する寸前か・・・」
考えを巡らせていたとき、海羅が口を挟んだ。
「これ見て、『教授は言った。私の電話は無視するな、私に逆らえば痛い目に合うのは自分だって事に、君はまだ気が付いてないようだから今夜分からせてやろう、君が私に従順になれば欲しい物は何でも買ってあげると言った・・・・』確かにキモイわね。教授にそんな嗜好があったなんて幻滅だわ・・・充君、可愛そう・・・」
「海羅も仲良かった?」
冬馬が聞いた。
「カオルちゃんと仲良かったから自然とね、大人しいけど真っ直ぐな性格の男の子だったわ、いけない事はいけないって、カオルちゃんにちゃんと言える子だった・・・、充君が自殺したって聞いたとき、カオルちゃんはショックで大学に来れなくなっちゃったの・・・辛かったのよねきっと、だからアメリカに暫く留学していたって訳、うちの大学は向こうで取った単位も考慮してくれるから留年にはならなかったの」
遺書だと言っても、入力は誰でも出来るはず。この日記だけじゃ何も証拠は無い。
「この日記、カオルちゃんには秘密にしよう、きっと何も出来なかった自分を卑下して悩むに違いないから・・・私だってかなりショックだわ」
海羅は立ち上がるとコーヒーを手にした。
「これが事実としても、証拠にはならないんじゃないの?どうする?」
連が聞いた。確かに、逸話だと鼻で笑われてお終いかも。
「今日さ、教授の研究室に行って来たんだよ。例のパソコンを探してさ、まずはあそこが一番怪しいだろう?で、パソコンはそこにあったんだ。そこで茉莉果の同級生がゲーム開発をしていてさ、興味のある振りして行ってみたら、そこの先輩に妙に歓迎されてしまって、入らないかって誘われたんだ。勿論、教授からも・・・」
嫌そうな顔をして、冬馬は海羅を見た。
「入るべきよ!」
人差し指を冬馬に向けて、海羅はきっぱりと言った。
「あんた何言ってんの?」
「真相を探りたいんでしょう?」
「ほらね、そう来ると思った。海羅は幼気な弟を平気で、ゲイ男爵の元へと送り出すんだよ、そこが本気で心配してくれる茉莉果と、高見の見物を決め込む海羅との違いだよ」
「分かりやすい例えだ、」
妙に冷静に連が言う。
「冬馬がゲイの道に走ったらどうしよう連、ま、そんな弟が一人くらいいた方が面白いかもね」
冬馬の言葉など聞いていない海羅は、夢見るように笑ってる。どこまでが本気で、どこまでが遊びで冗談なのか、いつも掴めない海羅に、冬馬は最近本気で疲れていた。
次の日、冬馬は茉莉果と共に訪れた研究室で、全員に紹介された後にゲームの説明、趣旨、C言語C++言語からVisualC++、DirectXまでの初心者向けに細かい簡単な説明をして貰った。興味が無いとかなり頭が痛くなる内容から、開発チーム入りを断念した光は、その日から、講義が終わると手を振って二人を研究室に見送った。
今日も部屋に入って行くと、田中裕二が難しい顔をしてモニターを睨んでいた。
「また、バグの報告があったんだよ、何度もやり直してはいるんだけどね」
「今日はまだ、誰も来ていなんんですね」
茉莉果と冬馬は、隣の椅子に腰掛けた。
「みんな忙しいからね、ところで数値のオーバーフロー等が起きたんだけど、君らここんとこ分かる?」
画面を射して田中裕二が回答を求めた。三人はそれからあーだ、こうだと話し会いながら暫く時間が経っていった。
そして、一時間ほど経っただろうか、茉莉果がコーヒーを入れて来た。
「ありがとう。やっぱ女の子がひとりでも居てくれると助かるや、」
嬉しそうに田中が言った。
「今まで女の子は居なかったの?」
「野郎ばっかで、しかも下っ端の僕が雑用担当で、こういう時に気の利く女の子がいると良いよね」
美味しそうにコーヒーを飲んでいる。
「去年、ああいう事故があっただろう?」
「間宮充さんの自殺ね・・・」
「あれから、間宮君の幽霊が出るなんて噂がたっちゃってるみたいでさ、向井さんは少数先鋭なんて言ってるけど、本当は、誰もこの研究室には寄りつかなくなってしまったんだって」
悲しい事実だ、と冬馬は思った。
「あなたは、その・・・幽霊は見たことあるの?」
「僕?まさか」
彼はあり得ないと言う風に、首を振りながら笑った。
「そういったものに、全く興味ないからか僕は見たことないけど、前からここにいる先輩達は誰も居ないはずなのに音がしたとか、気配を感じるとか言って、最近出て来ないんだ、勿論、教授自体はとても人気あるんだけど、幽霊話とかになるとね。みんな怖いから少し敬遠するよね。僕は例外だけど、ゲームが好きだから、でも、君らもでしょう?」」
冬馬と茉莉果は、顔を見合わせてぎこちなく微笑んだ。
「噂は聞いたけど、ほんとうに自殺だったのかい?」
都合良く、田中の方から間宮充の話が出たので、冬馬は話題に乗っかった。
「どういう意味?」
「カンニングがばれた位で自殺するかい?」
「まあね、彼が自殺したことでカンニングの件は、あやむやに処理されたみたいだし、大学としてもこれ以上騒がれて、名誉に傷がつくのを避けたかったんだろう。あの時は研究室全員が事情聴取させられて大変だったみたいだよ、自分の部屋から自殺者を出したなんて教授も気の毒だよね、間宮君のことはかなり可愛がっていたみたいだし・・・」
田中の、声のトーンが少し落ちたのが気になった。
「お気に入り?」
「そりゃもう、彼が亡くなる前は、いつもふたりが一緒に帰宅していたんで、その可愛がりようは半端じゃないって、良からぬ輩は酷い噂をしていたんだって・・・。おっと、いけない、向井先輩からに聞かれたら、こっ酷く叱られそうだ、今喋った事は内緒にしといてくれよ、何しろ先輩は教授をかなり崇拝しているからね、余計なことを喋ると機嫌が悪くなるんだ」
徐に田中祐二は椅子から立ち上がると、飲み終わったコップを手に流しに向かった。冬馬は田中祐二が思ったより雄弁に、語ってくれた内容に少なからず満足をしていた。しかし、廊下へと続くドアが少しだけ開いたことや、その扉の向こう側で、中の話を聞いていた人物が居たことには、まったく気づいていなかった。
研究室の一員となったふたりは、ほぼ毎日、遅くまで彼らオタクの仲間入りとなって、あーだこーだと議論を重ねていった。茉莉果は門限を理由にそそくさと帰宅し、冬馬はバイトを理由に退出を決め込むのだった。
そんなある日、帰ろうとする冬馬の前に教授が現れた。
「もう、帰るのかい?」
「すみません、バイトがあるんです。」
「君は小説も売れてるらしいじゃないか?今更バイトの必要なんてないんじゃないのかい?」
「何言ってんですか、微々たる金額ですよあんなの、僕父親亡くして、学費と生活費稼がなきゃいけないんです」
「そうなんだ、大変だね」
「じゃ、失礼します」
通り過ぎようとした時、教授に止められた。
「そうだ、君さえ良ければ私の書類整理頼めないかな?勿論バイト料は払うよ。論文のレポート作成、資料集めとか、正直私も忙しすぎて手が回らない状態なんだよ。どうかな?」
冬馬はドキッとした。悔しいけど海羅の喜ぶ顔が浮かんだ。
「僕で良いんですか?」
「勿論、優秀な生徒だから頼んでいるんだよ、君のレポートは毎回、非常に良くできているからね」
「こちらも助かります」
「ひとつ正直に言って置かないといけないことがあるんだ。去年、手伝って貰っていた子が自殺したのは知ってるかな?」
「ええ」
「カンニングの件は不問にしたつもりだったんだが、どこからか洩れてね、それが原因で自殺してしまったらしい、気の毒なことをしたと思ってるよ。殆ど毎日ここでレポートやら書類整理を手伝ってもらっていたからね、繊細な子だったからみんなの中傷に耐えられなかったんだろうと思う。その後釜って言うことになるんだが・・・良いかな?」
「全然問題ないです、僕は助かります。慌てて帰らなくていいから」
「よし、じゃ明日からお願いできるかな?」
「はい」
話が上手く行きすぎて、何故か心がざわめく冬馬だった。
いつものように講義が終わり、茉莉果と出向いた研究室には、珍しく誰も来て居なかった。
「珍しいわね」
「丁度いいや、教授のメールを調べられる」
「ええ?大丈夫?危険よ、いつ誰が入って来るかわからないし」
「じゃ、悪いけどそこで見張っててくれる?こんなチャンス滅多にないからね」
入り口の所へ茉莉果を見張りに立て、冬馬は自由に出入り出来るようにと、預かっていた奥の部屋の鍵を開けて、教授のパソコンの電源を入れた。後は連に借りてきたUSB メモリーを差し込み、通常より強力なファイルで、メールボックスの復元を試みてみたが、残念ながら、それらしきメールは一通も見当たらなかった。
「”遺書”は、このパソコンに送られたはずなのに、それさえも見つからない、削除しても復元出来ると思ったんだけどな」
「かなり前のことだから?」
「携帯の場合はあり得るけどね、流石教授だね、セキュリティ掛けているのかな?でも、返ってこの潔癖さが怪しいや」
小癪な連の、悔しがる顔が浮かぶのだった。
「他に怪しいファイルも無さそうだし、がっかりだな」
冬馬は慎重に電源をオフにして、パソコンを閉じた。
それからふたりはみんなが来るまで、それぞれパソコンの前に並んで、茉莉果はゲームを冬馬は教授のレポートを作成していた。
「冬馬君さあ、三年前は私何もできなかったけれど、今なら少しは役に立てると思うから、何でも言ってね」
ぽつりと茉莉果がそう言った。
「引っ越して行ったとき、どうして連絡先聞かなかったんだろうって、凄く後悔したの。でも、聞いちゃいけないような気もして・・・、でも、今は冬馬君とこうして一緒に居られることだけで嬉しいわ」
その純粋さが、真っ直ぐ冬馬の心に響いてくる。
「ありがとう」
言葉は簡潔だったが、返す言葉が見つからないほど冬馬は感動していた。
それから間もなく奇妙な事があった。
いつものように研究室に行き、教授に頼まれていた資料を纏めようとパソコンを立ち上げたところ、壁紙に『無くした物は戻って来ないんだよ、なぜ君が執拗に探すのか理解に苦しむ、自分の寿命を縮めるだけなのに・・・』と、メモ書きが張ってあった。
明らかに犯人からの警告だ。
犯人の核心にはほど遠く、しかも自分の動機を知られてしまっている事で、冬馬は少なからず動揺し、気分が滅入ってしまった。それでも、そのメモを剥がして、気分を取り直し小一時間ほど作業をした所で、一息入れようと、カフェテラスでひとり食事を取っていた冬馬の横に、いきなり海羅が現れた。
「君の潜入捜査、順調そうじゃない」
笑っている。
今日、一番会いたく無かった人物だ。あの『メモ』で、どんなに落ち込んでいるのか説明することさえ、面倒だった。
「うるさい、」
いきなり海羅の指が、冬馬のシャツのボタンを外そうとするので、その手を払った。
「何やってんだよ、」
「キスマークでも出来てるんじゃないかと思って、確かめたかったの」
「海羅!」
ケラケラ笑ってる。
「ほんとうに何も無いの?女達の誘いにはすぐ乗ったくせに、」
「あんた、まじムカツク、」
海羅が絶好調な時は、今日のような派手メイクと服装を見れば分かる。こんな時は、特に近づきたくない。長い睫の下で、悪戯な瞳が猫のように光っているからだ。
そして、とても意地悪だ。
「美味しいフレンチのお店見付けたんだけどな、今夜連れてってあげようかと思ってたのに」
「別に食べたくない」
「なに怒ってんの?」
いつもの事だが、冬馬の怒りに気づいて無いのかいるのか、相手の気分など完璧無視して海羅は会話を続ける。
「可愛くないなぁ、じゃ和食は?」
「何だって同じだよ、海羅とはどこにも行かないから」
「どうしてよ、」
「鬱陶しいから、それに海羅と一緒にいたら疲れるし、」
「それ、本気?」
「ああ、僕の事は放っといてくれ」
一瞬、海羅が怯んだように見えたのは気のせいだろうか、黙ったので、冬馬は少し言い過ぎたかと後悔し始めていた。案の定、席から立ち上がると海羅は無言で去って行く。
怒ってる。
しかも、超特大級に怒ってるに違いない。急に食欲を無くした冬馬は、その後ろ姿が見えなくなるまで目が離せなかった。
それからほぼ一週間が過ぎて、土曜の週末まで教授の手伝いに翻弄していた。何時の間にか後ろに来ていた教授の手が、肩に触れて気が付いた。
「こんなに遅くまですまない流川君、ご飯でもおごるよ、終わりにしよう」
時計を見る零時を回っていた。うっかりしていた、終電にもう間に合わない。
「大丈夫だよ、私が家まで送って行こう。ついでに途中で食事を付き合ってくれないかい?忙しすぎて、夕飯食べ損ねてね」
どう返答したものか、思案しながらパソコンの電源を落とした冬馬は、教授の誘いを断り切れずに、荷物を持って部屋に鍵を掛けている、その後ろ姿を見るとも無しに見ていた。
職員専用の駐車場までふたりはゆっくりと歩いていた。
「君はひとり暮らしなんだってね、寂しくないかい?」
「もう慣れました」
「私は単身赴任でこちらに来ているから、寂しくてね」
教授は笑った。え?
「結婚されているんですか?」
「そんなに驚くかなぁ?五歳と三歳の娘がいるんだ」
正直驚いた。どうりで、家庭の匂いがしない筈だ。それから教授はどんなに娘が可愛いか、妻が学部長の娘であって美人であるとか、何かを隠蔽するかのような話題を延々と喋り続けた。
車はセダンの高級外車で、エンジン音が底から、低くうねってくる。
「もうそろそろ色々な噂が耳に入ってくる頃だと思うけど、」
教授はここで言葉を切った。少し髭の伸びてきた横顔に、笑顔は無かった。
「幽霊のことですか?」
的外れの言葉だったのか、教授はいきなり笑い出した。行き過ぎる街頭が、時折教授の顔を照らしては消えて行った。そして、瞬時に真顔になったかと思うと、運転しながらチラリと冬馬を見たかと思うと、総てのドアにロックを掛けた。
『え?』冬馬は狼狽えた。拙く無いか?
その時である。
天の助けのように、携帯電話が鳴った。
「冬馬?しなよ。今どこ?」
「教授の車で自宅まで送って貰っている所、」
「海羅がさあ、べろべろに酔っぱらってるの、私これから用事があるし、海羅を迎えに来てくれない?車も運転して帰るって聞かないのよね」
「うん、分かった場所は?」
「地球三番地の角のお店、出て待ってるわ」
心臓の鼓動が速くなる。手の平に汗が滲むのがわかった。
「教授、すみません。姉が酔っぱらって迎えに来てって言ってるんです。今日はこれで、」
「どこだい?送って行こう」
「三番地までお願いします」
それからふたりは急に無口になり、冬馬はほんの五分の時間が長く、果てしなく、夜が明けることがあるのだろうかと思えるほどに、蛇行するアスファルトの先の闇を見ていた。
そして、あまりの緊張に気分が悪くなりそうだった。
適当な場所で、降ろして貰ったときにはホッとして、深く息を吸い込むと新鮮な空気が肺に満たされた。
あのロックは、どういうつもりだったのだろう・・・。
店の前、でしなが手を振っていた。
「聞いてるわよ、教授の所でアルバイトしているんだって?」
相変わらずしなは完璧でいて派手なメークをしていて、その到底学生には見えない出で立ちは、モデルと言っても通用しそうだ。高いピンヒールのブーツで僕と並ぶと目線は同等になっていた。道行く人々が振り向く程に異質な存在は際だっている。
「海羅の言いつけでね、」
しなはクスリと笑って、車のキーを渡してくれた。
「車を運転して帰るって聞かないから取り上げたの、中でまだ飲んでるからヨロシクね」
手を振って、シナは土曜の夜の雑踏の中に消えて行った。冬馬が店に入って行くと、カウンターでビールを注文する海羅を見付けた。
「帰るぞ、」
海羅がゆっくりと振り向いた。たっぷりの間を開けて、冬馬を確認した海羅だったが、無視して再び注文を繰り替えした。
「マスター、ビール」
「いいえ、もう帰りますから」
困り顔のマスターは苦笑いをする。
「迎えがきたんだからもう帰りな、」
マスターはカウンターから出てきて、海羅の上着とバッグを冬馬に寄越した。強引に海羅の腕を取って店の外に連れ出した時には、カンカンに怒っていたのは言うまでもない。
「バッグ返して、」
あっさりバッグを返すと、海羅は運転席に乗り込んだがエンジンが掛からない。
「キーを返して」
「そんなにへべれけで返せると思うのか?助手席に移りな、僕が運転するから」
ドアを開けて催促するが、海羅は冬馬を睨んで道を歩き出した。
「海羅、」
肩を掴んで制止しようとしても、払ってそのまま歩いて行く。でも、酔っているので足下が覚束ない。
「待てよ、海羅」
再び冬馬が肩に手を掛けようとしたとき、海羅は街路樹元にいきなり蹲るとゲロを吐出した。冬馬は天を見上げて悪態を付く。それから近くの自動販売機で水の入ったペットボトルを買ってきて海羅に差し出した。海羅は余程気持ち悪かったのか、それは素直に貰って口を何度も濯いでいた。
春のまだ肌寒い風がそよそよと吹いていた。
「海羅・・・」
「どうして来たの?」
気分が少し良くなったのか、海羅の目線も、言葉もしっかりしていた。そしてゆっくり立ち上がった。
「心配だからさ、」
「嘘つきね、シナに言われたから、しょうがなくやって来たんでしょうに、」
海羅は冬馬を真っ直ぐに見たまま、再びボトルの蓋を緩めて水を口に含んだ。
「放っといていいのよ、冬馬にはもう付きまとわないから」
「どういう意味だよ」
「間違いだった。去年あなたを見付けて本当に嬉しかったけど、そんなにあなたが私のこと嫌ってると思わなかった・・・」
「嫌いだなんて何時言ったさ、」
「同じことよ・・・、私はこれから先もこの性格は変わらないし、変えるつもりもない。あなたのことはもう構わないから、私の事を心配する振りも止めて」」
歩いて行こうとする海羅の手を冬馬は掴んだ。
「心配しているのは嘘ではないし、嫌いだなんて一度も言ったことはないし、時々ムカツクほど腹も立つけど、呼ばれればいつでも真っ先に来るよ。海羅は特別だから、」
自販機の明かりで、冬馬の瞳に映る自分を海羅は見ていた。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「じゃぁどうして機嫌直してくれないの?」
「元、ホストの言うことなんか信用してないもの、」
「傷つくなぁ・・・最近すっかり自分の過去のこと忘れていたのに」
「私は騙されないし過去も消せないの、自分の言った言葉にも注意しなさい、」
「やっぱこの前のこと怒っていたんだ」
海羅は黙って冬馬を見ていた。
「ごめん。あれは少し言い過ぎたよ、後悔してる」
「私は許さないわよ」
氷のように冷ややかな視線で、冬馬をしっかり捉えて言った。
「あなたは自分の言った言葉に責任持ちなさい。離して」
ゆっくりと冬馬は手を解いた。
「じゃあ、どうしたら許してくれる?」
「やめて。結局、あなたは私達と再会してから一度も実家に戻っては来ないし、連絡するのはいつも私の方、一定の距離を保って私達に近づいて来ようとしない、家族とも思って無いんでしょう?」
反論したい言葉は沢山あるが、今はその時期では無い。言葉に出すと壊れる家族もあるんだと、心の中で冬馬は叫びたかった。
その沈黙を海羅は承諾と取ってしまった。
「もういい、あなたには会わなかったことにするし、関わらないし、心配なんてしないから自由に生きればいい。弟は連だけだと思うことにする」
「海羅・・・」
丁度通りを走り掛かった、代行の車を海羅は止めた。そして、運転手にキーを渡すよう冬馬に命令した。冬馬はポケットから取り出したキーを渋々渡して、自分の車の助手席に乗り込んだ海羅は、ドアを乱暴にバタリと閉めた。土足で僕の人生に入り込んで来たくせに、傷つきやすくて結構頑固、プライドが高いくせに時々平気で自分をさらけ出す。矛盾ばかりの海羅だったが、冬馬は仲直り出来なかった事を心底悔やんでいた。そして何故あんな酷いことを言ってしまったのだろうかと後悔した。
「流川君さあ、海羅さんと喧嘩でもしたの?」
「え?」
毎度お馴染みになったカフェテラスで、ふたりはランチを取っていた。
「だって最近、ここで会っても寄って来ないじゃない?前は流川君を見付けたら必ず寄って来てたのに」
「ちょっと酷いことを言っちゃって、怒らせちゃったんだ」
「どんなこと?」
「”一緒にいたら疲れる””鬱陶しい”って」
「それはヒドイんじゃない?どうしたの、あんなに仲良かったのに」
「海羅は、時々ほんとうにムカツクことを言うんだよ。茶化すし、からかうし」
「それでも、一人っ子の私から見れば羨ましいけどな、喧嘩する相手がいて。ひとりじゃ何も出来ないんだよ」
確かにそうだ。泥沼のような孤独な人生に、明るい光を差し込んでくれたのは海羅だったのに、僕はもう忘れてあんな酷いことを言ってしまった。そんな鬱々とした気持ちで食事をしていたら、カオルがやって来た。その後ろを、海羅が冬馬を無視して素通りして行く。その横にいるシナは、微笑みながら手を振って一緒に出て行った。
「探偵君、捜査は進んでるかな?」
「先輩、声大きいです!」
茉莉果が辺りを気にしながら、小声で嗜めた。
「小説の主人公みたく、同じ能力で、ばしっと決めてくれるかと思ったら、あれから何週間経ったんだよ。ゴルフの練習もサボりやがって」
「だれが入ったのさ」
「お前、もうしっかり部員の一人だからな、さっさと事件片付けな」
そう言って、冬馬のアイスティーを無断で一口飲んだ。
「で、何か分かったのか?」
「秘密です」
「なんだよ、頼りない探偵だな」
人の気も知らないで、ほんとにこの人は・・・、でも、憎めない性格なのは彼の人徳だろうかと、冬馬は思った。
「そういや、お前、海羅と喧嘩したんだって?」
全く放っておいて欲しい、誰がそんなこと触れ回るんだ?
「はいはい、そうですよ」
「海羅を怒らせたら怖いぞ」
「身にしみて分かってます、家族の縁を切られましたから。もう、心配なんかしないから自由に生きろって言われました」
カオルはケラケラ笑った。
「そんなこと出来ないだろうに、あいつはお前が研究室に入ってからずっと、お前の心配していたんだから、ま、放っとけばその内機嫌も直るだろうよ」
そう言って、カオルは出て行った。口では”ゲイの弟がひとりくらい居てもいい”なんて嫌口叩いていたのに・・・。ぼんやりとそんなことを考えていたので、柱を背にして後ろの席で食事を取っていた向井がいることなど全く気づかなかった冬馬だった。
その日も、いつも通り冬馬は研究室にいた。
教授の部屋の小さなパソコンではレポート作成がし難かったので、ゲーム開発用の大きなモニター画面を使用していた。そこへ向井がやって来た。
「あ、すみません、こちらのパソコン使っていいですか?」
「いいよ、どうせ今日も全員は集まらないだろうし、空いてたら使うと良い」
「ありがとうございます。隅のパソコン使いますから」
眼鏡の奥で向井は微笑んだ。そらから誰も集まらない部屋で静かにモニターとふたりは格闘していたが、やがて向井の方が口を開いた。「君はアルバイトなんかしなくても、お金には困ってないんじゃないのかい?」
「みんなそう言いますけど、僕ひとり暮らしなんですよ。親もいないし生活費稼がないと」
「あれ?でも高野海羅とは姉弟なんだろう?母親の援助は無いのかい?」
「援助は断りました。離婚して僕は父親に付いて行ったんだし、それより何と言っても、教授のレポート作成の手伝いなんて、勉強になるでしょう?論文を見せて貰えるんですよ、すごいことではないですか?」
冬馬は心底そう思っていた。人物像はどうあれ、日本の情報科学の世界を背負って立つ最先端の人物だ。
「ま、確かにね。俺はお前が少し羨ましいよ」
「すみません、」
「どうして謝るんだ」
向井は笑った。充の日記が脳裏を掠めて、冬馬は複雑だった。
「だからって、身体壊すまでやるなよ、去年の子は・・」
と言いかけて向井は止めた。
「自殺したんでしょ?」
「ああ、君は優秀だからカンニングなんかしないだろうけど、それがネットで流れてね。それを苦に自殺したんだ。」
「誰がネットに書き込みを?」
「それは・・・君が知ってるんじゃないか?」
「どうしてですか?」
「君は何か調べているんだろう?」
「まさか、どうしてですか?僕は間宮充なんて人物知らないんですよ」
惚けるしかなかった。
「そうだよね、もう、一年も前の話になるしね・・・その席だよ、君の座っている席のパソコンから、カンニングの件は入力されたんだよ」
流石、情報課の達人。
「誰なんですか?勿論部員ですよね」
「多分ね、だけどここは結構出入りも多いし、特定は出来なかったよ。第一、俺だって警察に徹底的にアリバイを調べられたしね、でも、無理なんだ、パソコンは着けっぱなしなんだし、三十秒もあれば入力なんてあっと言う間だしね。でも、要するに彼は自殺だったんだから、その犯人を捜したとしても意味もない」
「でも、もしかして自殺じゃ無かったら?」
「おいおい、君の小説じゃ無いんだよ、警察が自殺と断定しているんだよ、ありえないでしょ」
向井は笑った。
「でも、ほんとうにあれが自殺でないとしたら?」
笑みを凍り付かせた向井は、じっと冬馬を見た。
「あまり探りを入れない方が身のためだと思うよ」
「どういう意味ですか?」
向井は奇妙な笑いを残してモニターへと視線を戻した。
珍しく冬馬と連は、ふたりで買い物に来ていた。
数週間前に海羅と来た店だった。パソコンがずらりと並び、音楽が賑やかに流れる広いフロアを歩いていた。
「あのファイルで復元出来なかったとなると、かなり強力な削除機能か、セキュリティを掛けていたんだね」
「おまえでも不可能はあるんだな」
「止めてよ煽るのは」
連は笑った。
「オレがいじっていたら出来てたと思うよ、実際そのパソコンを触れたらいいんだけどね、どういう状態か分からないから。でも、そんな公共の場に置いてあるパソコンにそんな重要なファイルなり、メールなり置いとかないんじゃないの?いつでも、誰かに覗かれる危険性があるからね、復元出来たとしてもたいした物は出てこなかったかもね」
「確かに」
「負け惜しみ言ってるんじゃないからね」
連はさばさばと言った。その表情は自信に満ちていたので、更に勉強すれば末恐ろしい少年となるのは目に見えていた。
「それより、海羅には絶対内緒だよ」
巨大な電気量販店の出口まで来たとき、連は買い物に満足をして微笑みながら冬馬に釘を射した。
「当たり前じゃないか、向こう三年お前はパソコン使用禁止なんだぞ、見つかったら僕まで捕まるんだからな、」
何処吹く風で、連は笑っている。
「まあ、そんな心配は無いか、今の海羅は僕と一生口をきかない覚悟だと思うし」
「あ、やっぱり可笑しいと思った。わざとらしく冬馬の話しは全くしないもの、怒らすの止めてくれる?こっちが当たられてたまんないよ」
「おまえこそ、海羅に見つかったら没収だぞ、それと絶対ハッカーしないこと」
「分かってるって、ありがとう」
「パソコン直してくれたからね、お礼だよ。事件が解明したら間宮充の母親に返すよ」
「日記どうするの?母親が見たらショックかもよ」
「うん、でも真実は知った方が良いんじゃないか?そのまま返そうかと思ってる」
「そうだね・・・、」
「それからあの日記は、内藤刑事に渡したよ。もう一度調べてくれるってさ、」
「遅いかもね、」
「だよな」
ふたりは同じ顔して笑った。
連が選んだノートパソコンは最新型のフルスペックだったが、こやつはさらにメモリを最大限増幅させた。三度目の逮捕が目の前でちらついた。
ふたりは近くのコーヒーショップに立ち寄った。箱とか余分な物は店に置いて来たし、ある程度の設定は店でしてきたので、連のパソコンはバッグかから取り出すと直ぐに起動した。
「で、どうなの?何か分かった?」
「さっぱり、昨日はひとつ上の先輩にあまり探りを入れない方が身のためだと釘を刺されたよ、彼はきっと何か知っているんだよ。ヤバイかな・・・」
「じゃ、オレは家に帰ったらずっとパソコンの電源入れておくよ、何かあったらメッセンジャーにメッセージでも送ってよ、仕事してる振りして出来るでしょ」
確かに、それは良いかも。
「教授の方は?」
「土曜の夜、終電に乗り遅れて仕方なく、教授に車で送って貰うことになったんだけどさ、どういうつもりだったのか、話の途中でいきなりドアにロックを掛けられたんだよ。ギョッとした次の瞬間、、海羅がべろべろに酔っぱらっているから迎えに来いって、シナから電話が掛かってきてさ、セーフ。恐怖で目眩がしそうだったよ、」
「それってマズイよ、教授は何か薬物で間宮充を眠らせたりしたかも知れないから、気を付けないといけないよ、どっちにしろ怖いなぁ、」
「海羅が行けって言うからさ・・・って、嘘だよ。海羅に言われなくても行ってたけどね」
「あの女は無謀だからね。でも、優しいにも程がある。赤の他人のために、”しかも生きていない”他人の為に、自分の命掛けてよくやるよ」
「最近、時々そう思うよ」
ガラス窓の外に目をやってため息を付いた。運ばれてきたコーヒーは芳醇な芳香を漂わせ、
一時、冬馬の心を和ませた。
「おや、どうしてそっちのパソコンに移ったんだい?」
「あ、すみません。画面が広くて見やすいものですから、目が疲れちゃって・・」
「いいよ、いいよ、どこでも君の気に入るところでやりなさい、」
そう言って教授は奧のガラス張りの部屋に入っていった。今日はまた誰も来ていない。そう言えば近々試験があるので、みんな勉強しているに違いない。何かやばくないか?冬馬はメッセンジャーを開いて連を呼び出した。
『何かあった?』
『いや、何も無いけど今日に限って誰も居ないんだ。教授とふたりきりヤバくねぇ?』
『冬馬の貞操も今日までか』
『バカやろう!』
それから、二時間ほど論文の入力をしていた。気が付くとすでに九時を回っていた。肩ががちがちで少し背伸びをしてみる。
「お疲れさん、今日はもういいから帰りなさい。試験前だって言うのにほんと済まないね。コーヒーを入れたから飲んでから帰ると良いよ」
「あ、すみません。ありがとうございます。キリのの良いところで終わりますね」
喉が渇いていたので、嬉しかった。教授の入れたコーヒーはいつも美味しい。そして彼は部屋に入って行った。冬馬はそれから暫く入力を続けていたが、何だか身体の異変に気が付いた。マウスをクリックする手が適わなく成ってきたのだ、うゎマズイ!慌ててメッセンジャーを起動した。
『はやくけいさつをよんで』
教授が近づいて来るので、適わぬ指に全神経を集中し、変換をする間もなく、送信してメッセンジャーを閉じた。
教授が背後に立っていた。
冬馬は全身が痺れて、最早、腕も頭も身体も言うことを効かなくなっていた。教授が冬馬の両肩に手を掛けて椅子の背にゆっくり凭せ掛けた。
「君がいけないんだよ。過去を蒸し返しに来るから」
『え?』
「私が知らないとでも思っていたのかい?あそこの棚の上にあるパネルの奧には隠しカメラを置いてあるんだ、こんな時の為にね」
迂闊だった、教授の用心深さを疑うべきだった。それに最近大学では盗難が相次いでいたので、他の研究室でも防犯の為、カメラを設置し始めていたのだった。
「向井から聞いたよ、君が小説の主人公さながらの能力を持ってるって、彼もね君の友人が話していたのを聞きつけたみたいなんだがね。私だってそれを信じている訳ではないが、君が私のパソコンや机の中を探して、何か証拠を見付けようとしていたのは事実だし、何か嗅ぎつけたんだろう?君は危険だよ」
椅子をくるりと回転させて、教授は冬馬を自分と向い合わせた。そして彼の前に跪くと、だらんと垂れていた両腕を膝の上に載せた。
そして、人形のように微動だしない、冬馬の顔を覗き込んで言った。
「間宮の件、犯人分かっちゃったんだろう?」
それから教授は、自分の部屋からキャスターを出して来た。そして以外にも身軽に冬馬をキャスターの上に軽々載せると、用意してあった、封のしていない段ボール箱を上から被せた。
そして上から覗いて言った。
「勿体ないなぁ、君ほどの才能と美貌、殺すには忍びないよ」
それは嘘偽りのない本心で、大きくため息をついた。そして冬馬の顎を持ち上げると頬を優しく撫でた。冬馬は意識はあるものの、目を開けておくことしかできなかったのでいったいこれからどうなるのだろうかと不安と恐怖と戦っていた。
一方、メッセンジャーがメールのお知らせを点灯しているにも関わらず、連は鼻歌交じり呑気に冷蔵庫を漁っていた。
「何よそのへたくそな鼻歌、何か良いことでもあったのね」
するどいクソ女。冬馬にパソコンを買って貰ったなんて、死んでも言わないぞ。海羅は居間の大画面でDVDを見ていたらしかった。 で、無視してストロベリーアイスを取り出し、皿に盛りつけていると、海羅が側へ自分用の皿を持ってやって来た。
「私にも入れて」
嫌がらせに、連は舐めたスプーンで掬って海羅の皿に盛りつけた。ごつんと音がして、海羅のげんこつが連の後頭部に直撃する。
「痛てーっ」
「汚いことするからよ」
「殴ることないじゃないか、冬馬と喧嘩したからってストレスは余所で解消してくれよ」
「誰に聞いたの?」
「冬馬が言ってた。海羅が怒ってるって、何かあったの?」
「うるさい、子供はもう寝なさい!」
連は肩を竦め”はいはい”と言って部屋へと帰って行った。
そして、一分もたたない内に悲鳴を上げて、部屋から飛び出して来た。
「大変だ海羅!冬馬が危ない!早く車を出して!」
上着を着ながら、手には携帯を持ってる。呆然と立ち竦む海羅の目を覚ます為大声を上げる。
「海羅!」
我に返った海羅は車のキーを握りしめ、ふたりして猛スピードでガレージに向かう。
「大学だよ、大学に行って!」
エンジンが唸りながらガレージを発車する。
連は携帯で高橋刑事を呼び出した。
「連です、兄が危ないんです、大学にパトカー急行させて貰えませんか?」
「一体何事かい?」
「例の殺人事件で、犯人が分かったみたいなんですが、連絡取れなくなってしまって」
「分かった。直ぐに向かおう」
携帯を切ると連は大きく息をした。
「どういうこと?」
「そう言うこと」
海羅の目から涙が溢れた。
「こんな時泣くなよ」
「そうね」
そう言うが、涙は止めどなく溢れていた。
「しっかりしろよ海羅、多分、警察より俺たちの方が着くのは早いと思うから、いつものようにスピード出して走りな」
海羅がちらっと連を見て笑った。
「それジョークのつもり?」
「早く、早く、早く」
夜のバイパスを、猛スピードで海羅の車は突っ走った。
エレベーターのドアが閉まる瞬間、向井俊は教授がキャスターと共に中に居るのを見たような気がした。この時間に、教授に呼び出され今まで図書館で暇つぶしに勉強していたのだが、今すれ違いで上に行ったとなると、ここで待っていようと向井はパソコンのスイッチを入れてゲームをし始めた。
教授は屋上まで軽々と冬馬を抱いて上がってきた。いちど東屋の椅子に、自由の効かなくなったマリオネットのような冬馬を腰掛けさせた。
「あの夜もこんな満月の日だった。ただ、肌を切るような寒い夜でね。時折雪が舞い散っていたな」
教授は思い出すかのように目を細めて、空を見やった。
「『終わりにして下さい。あなたが僕を解放して下さらなければ、僕は大学を止めて働くつもりです』彼はそう言ったよ。『嫌だと言ったら?』そう尋ねると、『あなたが嫌がらせのように送りつけてきた破廉恥な写真を公表して、あなたが教壇に立てなくしてやる』そう言ったんだ。あの小僧、いつの間にか私を脅迫する立場になっていた・・・」
教授は冬馬の前に立ち、再び頬を撫でてうっとりしていた。
「ほんとうに勿体ないよ・・・」
その時、講堂の下、玄関辺りでタイヤの軋む音がした。
何気なく覗いた教授だったが、車から降りて何となく上を見上げた海羅に見つかってしまった。
「誰かいる!」
「ちっ」
素早く身を引いたつもりだったが、見つかったようだった。教授はこめかみの辺りに嫌な汗が滲むのを感じていた。
「車のライトはそのままで連はここにいて、私は屋上に行くから」
「もし犯人がいたら危ないよ」
「大丈夫、高橋刑事が来たら上がってくるよう言ってね」
そう言い終わると、海羅は一目散に講堂に入って行った。
「マズイよ海羅・・・」
連は歯痒い思いでその後ろ姿を見ていた。そして携帯を取り出すと、もう一度刑事に電話するのだった。
屋上へと続く階段か、エレベーターか悩む思考に、研究室の明かりが廊下に漏れているのが目に入った。掛けより中を覗くと、ギョットして驚いている向井と目が合った。
「びっくりした、驚かさないでくれよ」
彼は振り向いてそう言った。
「冬馬と教授知りません?」
「冬馬は知らないけれど、教授ならエレベーターで上に上がるのを見たような気がする」
海羅は息を呑んだ。やはり屋上に居るのは教授だったのだ。そして突き当たりのエレベーターに駆け寄り昇降ボタンを押す。一秒、二秒、三秒、その遅さに叫びそうになる。漸く扉が開いて飛び乗る。
エレベーターは屋上まで通じている分けではなく、一階手前から階段を使って上がるようになっていた。踊り場にキャスターが置いてあった。素人の海羅でさえそれを使って、冬馬を運んだのかも知れないと言う予感はあった。余りにも不自然にそこに在りすぎたからだ。
冷たく凍り付くような階段だった。恐怖と正義感が入り交じるが、竦みそうになる足を勇気で振るい立たせて海羅は前に進んだ。再び冬馬を失うなんて考えられない。
屋上に続くドアを開くと、暗闇を劈くようにドアが軋んだ。月光を浴びて庭園が光っている。さっきの人影が見えた辺りに目をやると、その横の東屋の椅子に座って誰かが煙草を吹かしていた。ぼんやりとした輪郭と、煙草の赤い火が蛍のように点灯している。
「誰か居るんですか?」
「君は誰かな?私は少し休憩しているんだが」
そう言いながら吉原がゆっくり東屋から出てきた。後ろにも、この周囲にも冬馬らしき人影は見あたらない。月光で教授の目鼻立ちまでくっきりと浮かび上がった。
「教授・・・あの、弟を・・・流川冬馬を見ませんでしたか?」
「彼は確か三十分前に帰ったよ」
そんな筈は無かった。
連が冬馬の携帯に何度も電話したが出なかったし、最後のメールから三十分も経っていないはずだ。いったいどこにいるんだろう。
「じゃ、失礼するよ」
教授が海羅の側を通り掛かったとき、白衣の裾が濡れているのに気が付いた。そして、その通り過ぎて行った彼の靴底から、ぴしゃりと水を踏む音がした。足下を見ると雨も降っていないのにどこからか水が溢れていた。勿論、こんな夜更けに植物に水をあげる人などいないだろう。海羅はその元を辿るように、あふれ出た先を探した。すると不自然に植木を動かし、隠したような貯水タンクが奧に見えた。海羅は駆け寄ると蓋を開けて中を覗いた。
「冬馬!」
何と中には冬馬が水の中に浮かんでいたのだ、海羅は息が止りそうになったが、救出するのが先だと思い手を入れて冬馬を抱えようとするのだが、意識が無いのか冬馬は為すがまま、重くてままならない。冬馬の暖かい体温だけが海羅を勇気づけ、泣きながら必死でタンクから上半身を抱え上げると、一緒になって地面に倒れ込んだ。人形のような冬馬は意識も、反応も無く、人工呼吸をしようとしたとき、苦しそうにごぼごぼと水を吐いた。
「冬馬、」
顔に掛かった髪の毛を払ってあげると、漸く目が開いて海羅を見た。
「まったく、余計なことをする小娘だ」
振り向くと後ろに教授が立っていた。
そして、海羅の後頭部目掛けて植木鉢が降ろされた。がつんと当たって海羅が倒れた。
「教授、もう止めてください」
吉原がその声に振り向くと、後ろには向井俊が立っていた。
「何の真似ですか?以前のように僕を研究室に呼び出しておいて、危なくなったらのアリバイ工作ですか?」
「何を言ってるんだね」
「僕はすべて知っていますよ、間宮充を殺したのはあなたでしょう?ここから突き落としたんだ、・・・遺書なんて嘘だ。あなたが彼のパソコンから送ったんだ」
「焼きもちはいい加減にしなさい、君は間宮充の時と同じく、流川に嫉妬して彼をここから突き落とす手筈だったんだろう?私は彼を助けに来たんだ」
「何を言ってるんですか?教授、」
流石に向井は動揺した。
「間宮のカンニングの件だって、君はこっそり私達の話を聞いていたんだろう?ま、私は君が物陰に隠れて聞いていることには気づいていたんだが、君は私の思惑どうりチェスの駒のように動いてくれたよ。掲示板に載せたのは君じゃないか、十分な動機だと思うよ」
それについて、反論できない向井だった。人間の心理を突かれてまんまと乗ってしまった自分が悔しかった。
「間宮の件は無能な警察のお陰で、自殺と断定されたが、今度はそうは行くまい、テトロドトキシンを呑ませてあるからね、それを購入したのは君なんだよ、研究室のパソコンからネットで購入したんだ、」
「最初から僕を犯人に仕立て上げるつもりだったんですね」
「自己防衛のためにはなんでもやるさ、殺人者君」
それを苦々しく、静かに聞いていた向井は、ポケットから携帯を取り出して吉原に見せた。
「僕は去年、あなたがここで間宮を突き落とす瞬間の証拠を携帯で録画してあるんだ、正直、あなたに心酔していた自分が愚かで情けないです・・・誰にも見せるつもりは無かったんですが、警察に持って行きます」
パトカーのサイレンの音が近くで止った。
吉原の表情が変わり、向井の手から携帯を奪おうと、掴みかかって行った。
「あなたがいけないんだ、僕を蔑ろにするから」
「身の程知らずめ、」
教授は向井の手から携帯を奪おうと揉合う途中で、彼を突き飛ばした。その拍子にベンチの角に頭をぶつけた向井は気絶した。それから、まだ息のあった海羅の方にやって来ると、逃げようとする海羅の髪の毛を掴み胸元へ引き寄せ、素手で彼女の首を絞め始めた。冬馬は一部始終を見ていたが、何も出来ずにいる自分を恨んでいた。
『 誰か・・、誰か、助けてくれ、海羅を助けてくれ・・・』冬馬は心で叫んでいた。すると、その時、教授の背後に青白い光が現れたかと思うと、その光に引っ張られるように後ろへと海羅もろとも倒れ、一瞬、教授の手が緩み海羅は解放されて横に転がり、喉を押さえながら咽せ込んで咳をした。そして光の粒子は、静かに集結し始めて、あっと言う間に姿を映し出した。
間宮充だった・・・。
「大丈夫か流川、」
屋上の入り口に、高橋刑事と警察官が数名現れた。その後に、連が続いて出てきたが、倒れている兄姉を見て駆け寄った。
「冬馬、海羅!」
近くにいた海羅の側に行こうとすると、海羅は上半身を起こして言った。
「私は大丈夫だから、速く冬馬を病院へ連れてって、息はあるんだけど・・・、様子がおかしいの、身体が動かないみたい、毒でも飲まされたのかも・・・」
「救急車は呼んだ。しっかりしろ冬馬!」
高橋刑事が側にしゃがみ込んで顔を覗き込んでいた。連も泣きそうな顔をしている。しかし、冬馬は二人の背後で微笑みながら自分を見下ろしている間宮充を見ていた。ぼんやりとした光の粒子はやがてゆっくりと暗闇に消えて行く寸前、冬馬を守るかのように見下ろしながら微かに頷いた。
カーテンの隙間から、薄紫色の一日が始まろうとしていた。ふと、横を見て冬馬は右隣でベッドに突っ伏したまま眠っている海羅に気が付いた。呼吸器を外しその手で海羅の頭を撫でた。
「気が付いた?」
直ぐに海羅が顔を上げて、冬馬を思案下に見た。その顔は夜通し泣き腫らしたかのように、目蓋が晴れて目は充血していた。
「具合どう?」
「元気だよ、」
「そう、良かった」
そう言うなり、海羅はぼろぼろ涙を零して泣いている。
「海羅・・・」
「何?」
「どうして泣いているんだ?」
「冬馬が死んじゃったかと思った・・・私、冬馬が死んじゃったりしたら生きて行けない・・・」
海羅は病院の服を着ており、その袖で涙を拭った。
「私のせいでこんな目に合わせて、本当にごめんね・・・ごめんね冬馬・・・」
そして肩の辺りに顔を埋めて噎び泣いた。
「海羅のせいじゃ無いよ、僕の好奇心のせいさ、誰かが止めたって僕はきっと最後まで真相を突き止めていたよ、例え今回のような危険な目にあったとしてもね・・・だから、泣くなよ海羅・・・」
「貯水タンクの中に、あなたを見付けた時、恐怖で気絶しそうだったわ・・・」
海羅は顔を上げて冬馬を見たが、涙が涸れてしまうんじゃないかと思う程、止めどなく溢れていた。教授が慌ててタンクに押し込んだものだから、かなりの量の水は溢れたが麻痺が残っている冬馬には顔を上げて息をする事が出来なかったのだ、気が遠くなる限界で海羅に見付けて貰ったのだった。
「”ひとりで生きてきた”なんて、偉そうなこと言ってごめん。こうやっていつも結局は海羅に助けられてるのにね」
冬馬は海羅の首に付いた痣を見て、眉間に皺を寄せながら指でそっと撫でた。
「僕だって海羅が教授に首を絞められているのを、見ている事しか出来なかった時は卒倒しそうだった・・・海羅を巻き込んであんな怖い目に合わせて、謝るのは僕の方だよ」
「あの時ね、なんだか急に後ろに引っ張られたような感じだったの、ふわって身体が浮くような感じ・・・」
「あれはね、間宮充が助けてくれたんだよ。ふたりの後で光が集まり始めたかと思うと、その光が教授を押さえ込むようにして背後に倒したんだ」
「そうだったの・・・」
「彼はお礼を言うように、一度頷くと再び細かい粒子となって天に昇って行ったよ、きっと今度こそ成仏出来るはずだ」
「よかった」
その時始めて海羅は笑顔を見せた。
「ママと連が待合室で仮眠取ってるの、気が付いたこと知らせて来るわね」
立ち上がろうとする海羅の手を冬馬は掴んだ。
「ごめんね、僕が守ってあげられなくて・・・、」
「冬馬が生きていてくれるだけでいいから」
「僕に取って海羅は、とても大切な人なんだからね」
「ありがとう・・・」
声を詰まらせながら海羅は微笑んだ。
冬馬の体調もすっかり良くなっていたので、午後から事情聴取が病室で行われた。内藤刑事とその上司でもある河合警部補が、昨夜の一連の出来事を聞いていた所に海羅が現れた。
すっかり元の海羅に戻った彼女は完璧なメークに、ラメの入った白く長いストールを首に巻き、雑誌から抜け出たように息を呑むほど綺麗だった。
「久し振りですね海羅さん、今回は又とんだ災難で・・・丁度良かった。あなたにもお話伺いたかったんです」
以前の事件で、世話になった河合警部補がにこやかに招き入れた。
海羅は一通り、昨日の出来事を話した。
「観念したんでしょうね、教授はあっさり白状しましたよ。間宮充の件は、ほぼ日記どおりの自供と、今回の冬馬君の殺害は屋上から間宮充の時と同じく突き落として、それを向井俊に擦り付けようと考えていたらしいですな。昨夜は微量のテトロドトキシン摂取と、たまたま、君を隠すために水に浸けたたのが幸いしたんですよ、あなたは大量の水を飲んで吐出したでしょう。あれが胃洗浄の役割になったんです。これから調べれば分かることなんでしょうけど、教授は向井俊が自分に傾倒している事を良いことに、彼がいつも使用しているパソコンで、彼の名を使ってテトロドトキシンを購入したそうです。しかし、掲示板にカンニングの件を書いたのは嫉妬にかられた向井本人でした。まあ、向井も吉原の毒牙に掛かったひとりだそうで、いつか自分の元へ帰ってきてくれると待っていた所、今度は君に教授が入れ込んでしまうんじゃないかと、やきもきしながら、様子を伺っていたと言う事ですな。それからも向井俊の動機の説明は付くし、愛憎を利用するつもりだったのですよ、とんだ自惚れ屋です」
警部補はため息をついた。そして、引き継ぐように内藤刑事が話を始めた。
「昨夜も、吉原に十一時頃来るよう呼び出されたそうです。向井はそう言った電話を時々受けていて、食事に付き合わされていた事も何度かあり、そう深く考えてはいなかったようです。彼は教授に傾倒しているからね。でも冬馬君を屋上へ運んでいる間に、研究室へやって来た向井は、海羅さんが血相を変えてやって来たのを見て、何かあるんじゃないかと悟ったそうで、後を追う様に屋上へ上がったと言ってました」
「ええ、教授が屋上にキャスターを押して、上がって行くのを見たような気がするって教えてくれたのは彼でしたから・・・」
「教授はどうしても間宮充を手元に置いて置きたかったんですな・・・、その彼がふたりの関係を、世間に公表してまでも別れると言い張ったんで、カッとなって殺したと自供しています。可愛さ余って憎さ百倍ってところでしょう」
どうりで向井俊の言葉の端々《はしばし》が引っ掛かったはずだ、そういう対象で僕を見ていたのだ。彼もとんだ被害者だったのかと思うと、冬馬は彼が少し気の毒に思えた。
ベッドの縁に腰掛けて、持ってきたジュースにストローを差し込みながら海羅は言った。
「洋なしとリンゴのジュース。コーヒーは暫く飲みたくないかなと思って」
「そんな事ないけど・・・、これって手作り?」
「店のね。私の手作りが欲しいなんて百年早いわ」
海羅は笑いながらジュースを冬馬に手渡した。
他愛無い会話が、何だか懐かしい。
「朝からずっと起きてるでしょう?暫く眠ったら?」
「退院するつもりだったんだけど・・・」
「慌てることもないじゃない?」
「そうだね・・・」
冬馬は微笑みながら目蓋を閉じた。
こんなに穏やかに、ゆっくり眠れるのは何週間ぶりだろう、なんて考え事をしていたら、悪戯な海羅の唇が降りてきて、驚いて目を開けた。
しばし、ふたりは見つめ合う。
「何いまの?」
「今日は怒らないのね」
そう言って、微笑む海羅の髪の毛が頬を撫でた。
「驚きすぎて・・・思考が回らなかったよ、」
海羅は三秒先の予測ができない。
「良い兆候よ、慣れてきたわね」
「違うだろう、近親相姦だぞ!」
ケラケラと屈託無く、笑っている。
いったい何を考えているんだ?
「冬馬をからかうと、ほんとうに面白い、」
「あんたの頭の中を覗いて見たいよ、きっと万華鏡みたいに、摩訶不思議な世界が広がっているに違いない」
「いいよ、嫌いになって。もっと嫌がらせしてやるから」
「嫌がらせかよ、」
冬馬は笑った。海羅らしい・・・。
「僕はあの時、海羅が見付けてくれなかったら死んでいたんだ・・・。だからせめて今日だけでも怒らないよ、そう思う事にした」
鼻先が触れそうな近くで、クスクス笑っている。
「その言葉、後悔するわよ」
「もしかして・・・海羅は知ってい・・・」
その時、ドアがいきなり開いて、カオル、シナ、光、茉莉果まで、一同勢揃いで入ってきた。
「おお、今何してた?ラブシーンみたいだったぞ、」
腕に抱えきれない程の花束を、ベッドの上に無造作に置いてカオルが言った。
「良いところだったのに、カオルちゃんたら邪魔しに来たのね、」
海羅は本気とも嘘とも付かぬ曖昧な返答をして、微笑みながら上体を起こした。
「お前ら、前から怪しいと思っていたんだ、兄姉なのに・・・」
「仲が良いと言って、」
「いや、喧嘩も山ほどしてるけど、なんか不思議な空気が漂ってるんだよな」
単純な人かと思えば意外と鋭い。
「まあ、いいじゃない。お見舞いに来たんでしょ。冬馬の容態を聞く方が先だと思うんだけどな」
シナが笑いながらそう言ったので、カオルは苦笑して外人のように大きくお手上げポーズを作り、冬馬を見下ろしながら言った。
「元気そうだし」
「心配したよ流川、今朝のニュースを見て驚いたの何のって、水くさいなぁ何か手伝わせてくれても良かったのに、大変だったね」
光は心底心配したようで、人の良さそうな顔を曇らせている。海羅はベッドから降りて、みんなが冬馬の顔がよく見えるよう、後ろに下がった。
「おまえ良くやったよ、間宮のお袋さんが感謝していた。よろしく言っておいてくれって、これで充も浮かばれるだろう」
急にしんみりとカオルが言った。冬馬も黙って頷いた。
「具合はどう?外で看護婦さんに毒はもう体内から排出されたって聞いてほっとしたけど、」
茉莉果は目を潤ませながら、枕元にやって来て冬馬の手を握りしめた。
「心配掛けてごめん、もう大丈夫だから」
穏やかに微笑み会うふたりを見て、面白くない海羅は眉を吊り上げた。
「今日退院しようかと思ってたくらいだから」
「明日よ」
海羅が口を挟む。
「だってさ、」
「海羅さん、その首の痣はもしかして・・」
ストールがずれて痣が見えていた事に気が付いた海羅は、巻直して見えないようにした。
「教授が海羅の首を絞めたんだ」
冬馬がそう言うと、一同”おおー”とため息を付いた。
「大したことないわ、」
無表情でそう言って、海羅はそっぽを向いた。
心配を掛けたくないのは分かっているが、死ぬほど怖かったくせに強がりを言う。今朝方の、泣きはらした顔の欠片も見せずに振る舞う海羅が、冬馬は可笑しくて、そして愛おしかった。
「何笑ってんのよ」
目を細めて海羅が、冬馬を睨んだ。
「いや、べつに・・」
そう言いながらも、冬馬は笑いが止らなかった。海羅は素早く枕を抜き取ると、冬馬の顔を目掛けて振り下ろした。
「なに笑ってんのよ、」
何発目かでカオルや、その他大勢に止められる。
「あのさ、元気そうなんだけどさ、一応は病人なんだぜ?」
カオルが笑って言う。
冬馬は海羅に背を向けてはいたが、肩が震えていたのでまだ笑っているに違いなかった。
「冬馬も何が可笑しいのか知らないけれど、海羅を怒らせたいのなら成功ね」
シナが冷静に言う。
「ほんと不思議な兄姉だろう?今仲良くしてたかと思うと一分も経たないうちに喧嘩してる」
「お腹すいた。さ、病人なんか放っておいて、みんなでご飯食べに行きましょうよ」
海羅がみんなの背中を突っついて、ドアの外へ誘導する。急に寂しくなった冬馬は自分も一緒に行くと言う。
「駄目、病人は安静にしなくちゃ、」
「病院の食事はまずいんだ、待てよ」
しかし、あっさりドアを閉められ、急に閑散とした室内で息が詰まりそうな冬馬は、ベッドから抜け出し、素早く着替えるとみんなの後を追った。
「海羅、待てよ」
長い廊下の途中で、最後を歩いていた海羅に追いついた。
「私が何を知っているって?」
「え?」
「言ったでしょ?みんなが来る前に」
どうしてこのタイミングなんだ?
「さあ、そんなこと言ったっけ?」
と、冬馬はすっ惚けた。
海羅は、並んで横を歩く冬馬の横顔を見た。
「ま、いいか」
「うん」
そしてふたりは前を向き、微笑みながら歩くのだった。
END