揚げ物三昧
考えるだけでもたれます。
長く楽しかった夏休みも、もう残すところラスト一週間。
そんな大事なラスト一週間を、唯はマンションではなく実家で過ごすと宣言した。
それを聞いた桐生家の面々は、何が何でも貴重な一週間に出張を入れないように必死に各々の秘書やマネージャーを説得。いろいろと問題があったものの、結果、なんと忙しい三人は全員揃って一週間出張も撮影もなく、意気揚々と真っ直ぐ愛しい唯の待つ家に定時通りに帰れる事になったのである。
勿論、九月からはそのツケが一気に回ってくるのを覚悟した上だ。
「唯の作る朝ご飯も久しぶりよねぇ。明日のご飯が楽しみだわ~。」
「本当だよね。…ここ最近ずっと亨のマンションに通ってたから…」
「秀人、声が低くなってるぞ。」
そんな事を言いながら、久しぶりに味わうことになる唯の作った朝食へ期待に胸躍らせ、三人は柔らかな寝具に自らの身体を沈めた。
翌朝。
その異変に一早く気付いたのは総一郎だった。
「……この匂い……まさか………」
驚愕の表情を浮かべている父に遅れる事、数十分。次に異変に気付いたのは秀人だった。
「………これは………嘘だろ………」
二人に遅れる事、更に数十分。最後に気付いたのは、いつもは低血圧で目覚めが大変よろしくない美奈である。そんな美奈ですらバッチリ目を覚ました。
「………これって………冗談でしょ………」
各々ベッドから飛び起き、着る物・羽織る物をとりあえず程度に身につけると、キッチンへと駆け込んだ。
キラキラと眩しい朝日が燦々と降り注ぐ中、その光景に息を飲んだ三人は、朝日に負けず劣らず眩しいほどの唯の笑顔になすすべなく崩れ落ちた。
*
同日、早朝。
これまた眩しい朝日が燦々と降り注ぐ中、亨は優雅にブラックコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた。ちなみに、昨今ではエコだと言われてタブレット端末などで新聞を購読している友人が大勢を占めて来たものの、亨は紙派だ。
新聞が持つ独特の香りが、なんとも言えない朝特有の雰囲気を醸し出していて一人暮らしをし出してからは二紙取っている。一紙は実家でも取っていたものを、もう一紙は英字新聞である。
いろいろ大小事件はあるものの、今日も日本は平和だな…とのんびり考えながら熱いコーヒーを飲み干し、空いたカップをキッチンへと持って行こうとした所で、自らの携帯が鳴っているのに気が付いた。
こんな朝早くから誰だと訝しげながら、その携帯の画面を見るとそこに表示されていたのは『桐生秀人』。
正直今は出たくない理由があったのだが、先輩の手前それを無視するわけにも行かず渋々電話を取った。
その瞬間。
『おい、亨!!お前、唯を怒らせるような事しただろ!!!!』
開口一番怒鳴られた。
しかしまあ、朝っぱらからよくこんな声張れるな…と関心しながらも、その内容にため息を付いた。
それもそのはず。
実は唯と亨は現在、ケンカ中であったりする。
原因は本当に些細なことだった。
と言うのも、唯の破滅的な鼻歌をからかいはしないが、それに近い事を亨が言って唯が切れたのだ。
『鼻歌でも音程取れて無いぞ、お前。』
『お、音程って…!いいじゃん、誰が聴いてるわけじゃないんだし!!それにリズムは間違ってないもん!!』
『リズムとかそう言う問題じゃないし。それに、誰が聴いて無くても俺が聴いてるだろ。お前のお陰で、頭の中からその歪なメロディーが離れない。』
『い…いび…いびつ…っ!!酷いよ、先生っ!私、これでも多少は気にしてるのに!!』
『多少じゃなく、本格的に気にしろ。お前、音痴な『先生の、バカーーーーーーっ!!!!!』』
そう絶叫し、亨の顔面にクッションを命中させた唯は、猛スピードでマンションを出て行った。
ぶつけられたクッションをよけきれなかった事への屈辱感を少しだけ感じていると、一通のメールが届いた。
『実家に帰らせていただきます。先生のばーーーーーーーか!!!(`▼皿▼)』
あっちは子供、こっちは大人であるはずなのだが、大人気なくメールの内容にカチンと来た亨も、唯に返事も送らずにそのままにしておいた。
喧嘩勃発。
とは言え、夏休みもあと一週間しかないし、これから自分の溜まった仕事もしていかなければならないと思っていた矢先だったので、逆に唯がいない方が捗る。学校が始まった頃にでもご機嫌伺いでもしてみればいい。
そう思って、仲直りの『な』の字も無いまま一日が過ぎていたのだが、早速唯に関してはストーカー並の桐生家長男からの直電にため息を付いた。
こうして桐生家全員を敵に回しては、謝るにも謝れない可能性の方が高い。むしろ美奈などは積極的に追い払おうとするはずだ。
いや、する。
とは言え、今回のケンカの原因は俺ではなくあっちにも責任はあると思う。クッションを投げつけられた自分にも謝罪を受ける必要はあると思う。それなのに、自分だけが加害者のような扱いをされるのは理不尽だ。
そう思って口を開くよりも早く、秀人が電話口で亨が話すのを促した。
「あの、ケンカはしましたけど、別に全面的に俺が悪いわけじゃ『今日の朝食、カツ丼だったんだ。』……は?カツ丼、ですか…?」
重い。
朝っぱらからカツ丼。胃がもたれて仕事どころではないだろうに…。
『弁当も持たされたんだ。唯に。中身なんだと思う?』
「さあ?」
『から揚げ弁当!!おかずはから揚げだけ!!野菜の緑も卵焼きの黄色も何にも入って無くて、彩りは茶色一色!!』
「……朝・昼と随分ヘビーな食生活送ってますね、桐生さん…」
『それだけじゃないんだ!今日の晩御飯!天ぷらだって言うんだよ!?』
「………一日中、胃が休まる時がないですね…」
『「ないですね。」じゃない!ないんだ!!しかも、これがいつまで続くかわからないから、お前に電話してるんじゃないか!!放っておいたら一週間は続くんだからな!?僕達の胃が油まみれになる前に唯と仲直りしてくれ!』
…
正直意味が全くわからない。
何故ケンカして実家に帰ったあいつが作った食事如きで、俺がつべこべ言われなければいけないんだ?
しかも揚げ物だけと言うのが、またまた意味がわからない。
「あの、順を追って説明してもらえます?」
『うん?だから、唯が僕達にお前とケンカした八つ当たりをしてるのはわかるんだけど、むしろ八つ当たりですらして欲しいんだけど!だけど、食事は別。毎日毎日揚げ物が続くなんて、地獄だよ!?この暑い日が続くのになんてことだ!!』
「…なんで揚げ物…」
『祥子さんだ。』
「祥子さん?」
『祥子さんが昔、父さんとケンカした時に同じ事をしたんだ。その時は二週間も続いた揚げ物三昧の毎日…。まあ…あの頃は僕も美奈も若かったし、父さんも意地になってた感があったんだけどね。ただ、唯はそれを、祥子さんからこうしてケンカをした時の八つ当たりをすればいいんだって勘違いしてるんだ。』
…。
頭が痛い。
八つ当たりにしては子供じみているように見えて、実は卑怯。食生活を盾にとった八つ当たりなんて卑怯の一言しかない。
しかも俺ではなく、家族に八つ当たり…。
あいつ…、いつの間にそんな卑怯な女になった…っ!
『いいか?ちゃんと明日には仲直りしろよ!?』
「いや、あの……」
と言うより前に切られた。
ため息を付くより早く、まさかの美奈からのメールに気付く。亨を嫌っている美奈からの連絡なんて、真夏であるはずなのに、雪でも降るんじゃないかっていうほど珍しいものだ。そんな彼女からのメールの内容も、先程の兄・秀人の電話の内容とそう代わり映えのないものだった。
『九月から撮影があるのに太ったらどうすんのよ!!不本意だけど、さっさと唯と仲直りしなさいよね!!』
美奈からも来たか。
と言う事は、あのオヤジからもこないわけがない。
と、身構えて待っていたものの何の音沙汰もないまま、不気味なほど静かな四日間が過ぎた。
結局、未だに唯と仲直りはしていない。
連日の様に秀人と美奈からは連絡が来ているものの、桐生総一郎からの文句は来ていないのを見ると、やはりあの人は大人だと思ってしまう。
とは言え、さすがに桐生家の人達を揚げ物三昧にするのは気が引ける。そう思って携帯を取り出して唯に連絡しようとするものの、なかなか通話ボタンを押すことが出来ない。
はてさて、どうしたもんかな…。と嘆息していると、見知らぬ番号から着信が入ったので反射的に電話を受けた。
「はい。」
『あ、その声は遠藤さん?あの、あたし葛城です。』
「…葛城…ああ、桐生さんの。俺に電話だなんて、桐生さんに何かあったか?」
『初めに言っておきますね。あたしこれからちょっと大声出すんで、耳から電話離してもらえます?』
「は…?」
『いいですか?』
わからないまま言われた通りに携帯を耳から離した。
瞬間。
『馬鹿秀人ーーーーーーっ!!!!!よりによって食べたい手料理何って聞いて、答えが『ところてん』っておかしいだろーーーーーーー!!!!!』
『天草から作れってか!?あたしが海まで行けばいいのか?潜って取ればいいのか!?あの野郎っ!!』
と、数分に渡って秀人の悪口を延々と電話口で叫び続けた桜は、言いたい事が言い終わったのか先程とは打って変わって、穏やかな声で亨に話しかけた。
『って事で。遠藤さん、お願いだから唯ちゃんと仲直りしてくれません?秀人の体臭が油臭くなるのを黙って見過ごすわけにはいかないんで。』
「油って…まさかまだ揚げ物生活してるのか?」
『らしいですよ。あー、美奈さんも毎日メール来てるますけど、相当キツイみたいですね。吹き出物が出そうだとか、胃もたれが取れないとか言ってますから。』
「………」
『そのうちゆっきーからも連絡くるんじゃないですか?その前に仲直りしてくださいね!!じゃ!』
そう言って切られた電話を呆然と眺めながら、桜の言うゆっきー…と言う事は悠生からも連絡が来る可能性があると言うことで、なんとなくブルリと身震いを一つ。
父譲りの危険察知能力を遺憾なく発揮して身構えていると、やはり悠生から電話が着た。
「…なんだ…」
『ちょっと亨さん!まだ神崎ちゃんと仲直りしてないんですか!?やはくしてくださいよ!!美奈さんが、俺の美奈さんがーーーーっ!!!!』
「っ…おま…うるっせー…」
『仕方ないじゃないですか!!美奈さんと飯行こうと思っても、「家で食べる」ってつれない返事するくせに、会う度にげっそりしていく美奈さんなんか見たくない!!だから早く仲直りしてくださいよぉぉ!!』
「………」
『もー!『ごめん』の一言も言えないなんて、亨さんのヘタレ!!』
…!
こいつにだけは言われたくない。
美奈に面と向かって言えないくせに、裏では美奈の悶え泣く姿に興奮している、鬼畜メガネなこいつにだけは。
「お前に『ヘタレ』って言われる筋合いはねぇ。」
『だったら早く!!今日もメンチカツだって言ってたんですよ!?ちなみ昨日はパイコー麺だったらしいです。』
「………」
『明日も同じ状態だったら、亨さんの事ヘタレって呼びますからね!?いいですか!?いいんで』
ぶちっと終話ボタンを押して、強制終了した。
これ以上悠生と話していると、逆に仲直りなんてする気が失せる。
仕方ない。謝るにしても、面と向かって謝る方がいいだろう。
そう思って、唯の実家まで車を出そうと思った。丁度時刻は昼前で、今から行けば丁度昼食を取っているかもしれない。とりあえず何かを差し入れでもしようと思ったが、それを考えたのでやめた。
何気に揚げ物食ってないかもしれないし。と言うか、そうなれば唯だけは揚げ物三昧な毎日を送っていないのかもしれない。
と、言う考えも玄関口に立った瞬間、撤回した。
「…匂いが…」
油くさい。
ここまで油臭。こう油臭くては帰って来ても心休まるどころではないだろうに…。
意を決してチャイムを鳴らす。
『はーい。』
「俺。」
『俺オレ詐欺はお断りです。』
「…いいから開けろ。」
『…えー……』
数秒渋られたものの、流石に炎天下に外に放置するのは気が引けたのだろう。ガチャっと玄関のドアが開いたと同時に、ぶわりと油臭い空気が漏れた。
「油くせっ!」
「失礼な!!あ、でもカニクリームコロッケ作ってたの。先生食べる?」
思わずそう言うと、唯が心外だとでも言うように抗議の声を上げた。
ふと横を見ると、リビングから顔を覗かせたナイトがこちらをじーーーーっと見ていた。
気のせいか、黒い瞳からは『ようやく来たか…』と心の呟きが聞こえるような…。
「…コロッケ…」
「お中元にカニ缶貰ったんだけど、パパが使っても構わないって言ってたからね。だからカニクリームコロッケ作ったの。んふー、お昼からプチ贅沢~♪」
どうやらもりもり揚げ物を食べているらしい。こんなことでは夏バテなんてしないだろう。そう言えば、この夏休みは普通に飯を食っていた。母が夏バテをしていると翼から聞いていたが、こいつに限ってはそんな事がなかった。
いつも不思議に思っているが、普通の女よりこいつは食う。高校生という若さ故なのかもしれないが、それでも食う。あれだけ食って、この体型。摂取した栄養は、全部胸に行っているのではないのかと時々思う。
「…もう揚げ物は止めろ。」
「えー、なんで?美味しいんだもん。あと一週間は余裕で揚げ物食べられるよ?」
「一週間…おい、唯、ちょっと来い。」
ぐいっと腕を引いて、自分の懐へと招きいれた。力を入れずに抱き締めると、喧嘩する前と寸分違わぬ体型そのままの感触がして、心底驚愕した。
「お前、毎日毎日揚げ物食って太らないって、どういう身体の仕組みしてんだ。」
「え?普通。て言うか、先生何しに来たの?歪な音程の私に何の用ですかー?」
ぷぅっと膨らました頬を手で潰して。
ぷすっと言う空気の漏れる音がして、それに対してむすっとしている唯にようやく謝罪した。
「それに関しては俺が悪かった。だから機嫌直せ。」
「むー………。………私も、ごめんなさい。クッション投げて…。痛く無かった?」
「痛かった。」
「っ!ご、ごめんなさいぃぃーー!!!!あの、あの、あの…お詫びに、コロッケ食べる…?」
「コロッケより、こっち。」
にやりと笑うと、そのまま唇を重ねた。
玄関口でイチャついている飼い主とその恋人を見ながら、ナイトははー、やれやれ…と言った風にリビングへと戻って行った。
その日の夕食、食卓に並んだのは揚げ物とはかけ離れた麻婆豆腐・ほうれん草の胡麻和え・きゅうりの酢の物などだった。
ようやく揚げ物から解放された桐生家は大層喜んだものの、揚げ物三昧を送る羽目になった元凶である二人がべったべった、イッチャイチャするのを、胃もたれよりも重苦しい思いで見る事になるのであるが、それはまた別の話。