第一話 猿より47回、多く頭を下げる
閉園を知らせるアナウンスが、猿山の上で二周目に入っていた。
7月15日、お盆。蓬野市の木立動物公園に、客はもう私しか残っていない。
自撮り棒の先で、スマホが揺れる。画面の右半分に、今夜のコラボ相手が映っていた。
白装束に、結袈裟。長い髪を後ろで一つに縛った、20代後半くらいの男の人。
「はじめまして、チセです。今日は猿を見ます」
「ああ」
返事はそれだけだった。紹介文には「霊視占い配信」とあったけれど、愛想のほうは配信していないらしい。
善淵さん。清天院という山寺の修験者で、コラボの申請を出したら一分で通った人だ。
その善淵さんの目が、私の肩の後ろへ動いた。
「後ろの猿。寿命が尽きてる」
「はい?」
「閻魔帳から名前が消えてる。生きてはいるが、もう数がない」
振り向いた。
柵のすぐ向こうに、年寄りの猿が一匹いた。毛並みだけがやけにつやつやしていて、背中は丸い。
足もとの名札に目が行く。種名の下の「名前」の欄が、空白のままだった。
猿は私と目を合わせたまま、額を地面に打ちつけた。
ごつ。
もう一回、ごつ。
「あんたに頭を下げて、寿命を借りてる。一回につき一年」
善淵さんの声は、天気予報くらい平らだった。
「一年。二年」
「待ってください。それ、私の残高から引かれてます?」
「3年」
返事の代わりに、数字が増えていく。
私は自撮り棒を柵に立てかけて、その場に膝をついた。
「返してください」
額をアスファルトに打ちつける。猿より速く、猿より低く。
「返して。返して。返してください」
「……誰が、そうやれと言った」
画面の中で、善淵さんが一拍だけ黙った。それから、また平らな声に戻る。
「マイナス一年。マイナス二年」
猿の動きが止まり、すぐにまた始まった。向こうも速くなる。
ごつごつごつ、と二人分の音が重なって、人のいない猿山に響いた。
【三年推し:チセちゃんが猿と土下座で張り合ってる】
【無課金席:これ、何の企画?】
【寝落ち番:お盆特番、猿と土下座対決】
【三年推し:謝罪会見のリハーサル】
【無課金席:深夜の筋トレ配信。額だけ鍛えるやつ】
顔を上げずに、私は声を張った。
「まだフォローしてない視聴者さん、今のうちにお願いします。土下座の応援になります」
猿は年寄りだった。毛艶はよくても、首の振りが少しずつ遅れてくる。
額から薄く煙が上がり始めたのは、猿のほうだった。
「マイナス45年。46年。47年」
最後の一回で、猿は地面に頭をつけたまま動かなくなった。
私は一呼吸ぶん遅れて、膝の砂を払う。おでこが熱い。
「……勝ちました?」
「勝った」
短く言ってから、善淵さんはもう一言だけ足した。
「……47回、多く下げたな」
善淵さんは、私の後ろの空を見ていた。西の雲が、赤く焼けている。
「俺が読む。あんたは出口を探せ」
「はい」
「閉園までに、ここを出ろ。本当のことを言うオウムは、一羽だけだ。蛇と目を合わせるな」
3つ言って、彼は口を閉じた。
画面の端から、もう一人がにゅっと顔を出す。善淵さんより少し若い、坊主頭の男の人だった。
「あ、どうも。弟弟子の慧です。困ったときのお札は、公式ショップで1枚990円ですね!」
「宣伝、いま入れます?」
「お盆価格ですね」
*
出口へ向かう道の一つ目が、蛇舎だった。
ガラスの向こうで、太い胴がとぐろを巻いている。頭がどこにあるのか、まだ分からない。
私は鞄を探った。チェック柄のペットボトルホルダーをどかして、底からサングラスを引っぱり出す。
「目を合わせなければいいんですよね。じゃあ、合わせられないようにします」
サングラスをかけて、通路の真ん中を堂々と歩く。
【寝落ち番:それ、アリなんだ】
「アリです。見てないので」
ガラスの内側で、何かがこちらを向いた気配がした。私はまっすぐ前だけを見て、自分のつま先の音を数える。
通路の端に、三角の白い布が落ちていた。誰かの落とし物だろう。
拾わずにまたいで、出口の扉を押した。
*
蛇舎を出たところで、頭の上の枝が鳴った。
【三年推し:主、うしろ】
【無課金席:猿、立ってない?】
見上げると、さっき動かなくなったはずの猿が、桜の幹に四つ足で張りついていた。首だけがこちらへねじれて、歯をむいて叫ぶ。
「生き返ってません?」
「閻魔庁に行って、戻された。閻魔帳に名前がないから、受け付けてもらえない」
「そんな、役所の窓口みたいな」
「窓口だ」
猿が幹を蹴った。
私は走った。予定を詰めこみすぎて同業者に引かれるタイプの旅行配信者なので、脚だけは鍛えてある。
「善淵さん、どうすれば」
「あれより速く走れ」
「助言の粒度」
枝から枝へ、猿の影が追ってくる。息が上がる。
私はベンチの裏に回りこんで、配信アプリのプロフィールを開いた。「弾丸旅行系」の一行を消して、打ち直す。
――初心者、幽霊退治中。
「これで少しは、本職っぽく」
「書いても強くはならない」
「ですよね」
清天院公式ショップの、お札一覧を開く。990円のお札には、全部「売り切れ」の灰色がかかっていた。
「売り切れてるんですけど」
【無課金席:990円のは、さっき秒で消えてた】
「お客さん、その場で1枚なら5,000円ですね!」
慧さんの声と同時に、描き下ろし護符5,000円の注文画面が勝手に開いた。確定を押すと、明細の端に小さく「付け」と出る。
後払いなら助かる。支払いは、来月の私に任せよう。
「描く。少し待て」
画面の向こうで、善淵さんが筆を取った。墨で一行、朱で一行、見たことのない字が紙の上に3秒で並ぶ。
「画面の明るさを、一番上まで。猿に向けろ」
ベンチの陰から立ち上がる。明度を最大にして、お札の映った画面を突き出した。
猿が、枝の上で止まった。
毛の先から白い煙が上がる。鳴きもせず、幹にしがみついたまま固まっている。
私はその下を、全力で走り抜けた。
【寝落ち番:画面まぶしすぎて、目が】
*
次の看板には、オウム舎とあった。
止まり木に、色とりどりのオウムが5羽並んでいる。私が前を通ると、端から順に口を開いた。
「その推しカプ、公式は一言も言ってないぞ」
「結婚式の前日、婚約者と親友の秘密を知った」
「ばあちゃん、俺、俺。事故っちゃってさ」
「29日は肉の日。肉? 売り切れ」
【三年推し:オウム、ネットに毒されすぎ】
【無課金席:4羽目、さっきの護符と同じ扱いで草】
【寝落ち番:5羽目、寝てる?】
【三年推し:寝てていい。主の前で変なこと言うなよ】
どれも、返事は要らなさそう。私は足を止めずに通りすぎようとした。
5羽目のオウムだけが、首をひねって私を見た。
白い胸の羽が一枚、根元から赤く濡れていて、オウムはそれを嘴で丁寧に梳いていた。
スマホの左上に、「圏外」の文字が出ている。
それなのに画面の中の善淵さんは、さっきからずっと、私の顔を見ている。
オウムが、嘴を開いた。
「ここは圏外。あんたが話してる相手も、生きてない」




