第八章:地下倉庫の住人たち
1904年7月。
研究所の半分が青空になった研究所では、宙吊り機体の試運転が本格的に始まった。
天井から吊り下げられているのは未完成の発動機を機首に載せた1号機だが、各所に手が加えられ、今では “2号機” と呼ぶに相応しいものとなっている。
外見はほぼ変わらないのだけれど、各部が少しだけ無骨な印象だ。
床から高い位置にあるプロペラに巻きつけたロープを引いて、独楽の要領で発動機を起こす。
みんなすでに慣れたもので、ここまでは問題ない。
問題なのはその先で、薄々ながら予期していたことが発生している。
つまり、プロペラが高速で左に回る──すると反動で機体は右に回転しようとする。
このトルクロールが想像以上に強力だった。
出力はこれでも不完全なのに。
発動機が完成した暁には、この反動はもっと大きくなるだろう。
原因の面でも対策の面でも理屈はとても単純だ。
たとえばプロペラが二対あれば回転力は打ち消しあって、そもそもロールは発生しない。
だけどプロペラを増やせば重くなって速度と揚力の効率は下がる。
そしてチェーンと歯車が増える分だけ、整備は複雑になり故障の要因が増えていく。
すべてが「軽さは正義」に反するのだ。
だからプロペラ一基のままでも、どうにかならないかと諦めきれずに粘っている。
ハンドルを引いて当て舵を使い、尾翼の角度で打ち返して反動を抑え込めないか試行錯誤を繰り返した。
でも、何度やっても同じ結果が出てしまう。
V字尾翼についても少々不穏な兆候が出ている。
発動機の回転を上げていくと、特定の速度を超えるあたりから妙に尾翼が揺れ始めるのだ。
振動のせいかと思って何度も条件を変えたのだけれど、同じ速度域で同じ揺れが再現されてしまう。
高速域で不安定になる尾翼というのは私たちの設計思想とは相性が悪い。
あの日あんなに興奮した着想が、今は小さな不安の種になっている。
美しい理論と現実の間には、まだずいぶんと深い溝が横たわっているらしい。
ある日の夕方、丘の上で手応えが感じられないまま屋敷に帰る準備をしていた時だ。
私はもう少しだけ足掻いてみたくて父さんにある案を持ちかけた。
「ねぇ、片翼だけ10インチくらい伸ばしてみるのはどう? それでトルク分の揚力差を作れれば、プロペラは一つのままでもなんとかなるんじゃないかしら。」
父さんは少し考えてから、穏やかに首を振った。
「.....不自然だな。」
「不自然? ──機械が?」
「機械であっても不自然ということはあるよ。不自然な設計というのは袋小路なんだ。さらに先へ進むための発展性を失くしてしまうのさ。このことについては、私はちょっとばかり詳しいぞ? 屋敷にもどったらいくつか具体例を見せてあげようか。」
ばあやが夕食を仕上げてしまう前にと小急ぎで連れて行かれた先は、屋敷の地下倉庫だった。
小さかった頃は暗くて怖くて、母さんに連れられて屋敷を離れてからは存在すらも忘れていた場所だ。
ランプを片手に石段を降りると、ここにも父さんのコレクションたちが行儀よく並んでいた。
最初に目についたのは背丈ほどもある鉄の塔。
古い蒸気機関の調速機を改良したもので、回転速度を高い精度で一定に保てるという触れ込みだったらしい。
元来の遠心調速機の上に補正用の伝達装置が追加され、その補正のずれを直すためのバネが加えられ、そしてバネの反動を抑えるための緩衝装置が重ねて追加されている。
部品を足すたびに新しい問題が生まれて、その問題を解決するためにまた別の部品が足され、最終的には調速機を制御するための調速機まで必要になるという、悪い冗談の見本になっていた。
蒸気機関がガソリンや電気に取って代わられようとする過渡期に生まれた鬼子だという。
「初めは悪くなかったんだ。ただな、一つの問題を力技で潰しても、そのしわ寄せが別の場所に出てくるものさ。それを誤魔化すためにさらに部品を足していく。典型的な悪循環だな。」
次に父さんが見せてくれたのは平たい木箱に収まった織機用の改良部品だ。
手織り機の緯糸を自動で通す装置だったが、布の端で方向を反転させる仕組みに問題を抱えていたという。
反転のタイミングがずれると布に傷が入るので、タイミングを補正する歯車が追加された。
歯車の噛み合わせが甘いので金具で押さえつける設計が追加された。
金具の摩耗で精度が落ちるので交換式のカートリッジが追加された。
最終的にこの改良部品は大きく重くなりすぎて、ゆっくり動かすしかできなくなって、生産性は落ちたそうだ。
「本来やりたかったのは単純なことだ。布の端で糸を折り返す、ただそれだけだった。でも継ぎ足しの迷宮に入り込んで、何が目的だったのかを忘れてしまったんだ。ここに置いてある機械は、みんなそんなものばかりさ。」
私はぐるりと地下倉庫を見渡した。
ここに並んでいる機械は、出発点では確かに理にかなっていたものもあるんだろう。
でもどれも途中で道を見失い、本来の目的から遠ざかってしまった。
「片翼を10インチ伸ばすのは調速機に調速機を載せるのと多分同じだよ。単基プロペラの軽さにこだわることも、実は余計な重さを背負い込むのと同じかもしれない。──お前は、本当はもう決めてるんじゃないのか?」
父さんの言葉に、胃がちくりと反応してしまった。
プロペラを増やすしかないというたったそれだけの事実に私は、実はずっと目を背けてきた。
最初の頃は無意識に、そして最近では半ば意識的にだ。
だけどこの薄暗い地下倉庫で “行き止まり” に陥った機械たちに囲まれたことで、私はもう無視することができなくなってしまっている。
ここには逃げ場というものがないから。
倉庫の冷えた空気をひとつ、深く吸い込んでゆっくりと吐き出しながら、頭と心を整理してみる。
それだけでもさっきまでの自分とは別の誰かになれたような気がした。
「...本当はね、わかってるのよ。プロペラを増やしてみるべきだって。でも、それなら1号機からの設計の流れは全面的に変える必要があるわ。みんなで作ったものだったのに───それを手放して、それでも駄目だった時には私はどんな気持ちになるだろうって、それがとても怖いの。」
眠ることも忘れて取り組んだ1号機の設計には愛着がある。
それを引き継ぐ2号機の設計には責任と自負がある。
そして、どちらも自分一人のものじゃない。
父さんと一緒に考え、職人さんたちに手伝ってもらい、町の人たちに許されながら形にしてきたものだった。
“育てること” は自然なことに思えたけれども、“新しいものに変えてしまう” のは何か後ろめたいと感じていた。
「でも、ここでこの子達を見ていて自分のことがよくわかったわ。軽さが正義だって、それを言い訳にして自分を可愛がっていただけなんでしょうね。このまま不自然な継ぎ足しをしていたら、私たちの飛行機もこの子たちと同じになってしまうのかも.....それじゃあ駄目なのね。」
胸の奥に沈めていた言葉がようやく舌の上に載った気がした。
父さんはランプの灯りの向こうで、静かに私の言葉を聞いている。
あとは宣言するだけだ。
「地下室で眠る飛行機なんて絶対に嫌よ。プロペラの増設、やってみたいわ。」
「そうこなくっちゃ。」
私の言葉を聞いた父さんは嬉しそうに頷いた。
ずっと待ってくれていたのだろう──私の覚悟が決まるのを。
なんだろう。
最近は父さんがとても「父親」という感じで、なんだか不思議な気分だ。
*****
翌朝、プロペラの駆動用チェーンについて相談するために親父さんの工房を訪ねた。
まずは一つの発動機から二本のチェーンを引き出して左右のプロペラを逆回転させる仕組みが必要だ。
素材の選定と加工の精度について、親父さんの意見を聞いてみたかった。
工房に入ると親父さんと肉屋のご主人がいて、カウンターの上には何本かの包丁が並んでいた。
飛行機の部品ではなく、肉を捌く普通の包丁。
「やぁ、おはようお嬢さん。すぐに終わるからちょっと待っててね。」
「おはようございます。でもお構いなく。」
二人は使い古した包丁を、研ぎ直すか新調するかの相談をしていたようだ。
熱処理は空冷にこそ真髄があるだの、刃の寿命は中子で決まるだの、なかなかマニアックな話しをしている。
こうして二人を見ていると、この人たちも意外と父さんと大差ないんじゃないかという気がしてきた。
結局みんな、好きなものには夢中になってしまうんだろう。
「じゃあねお嬢さん。今日はいい肉が入ってるから、よかったら覗きに来てね。」
話がまとまった肉屋のご主人は、ごく普通に挨拶をして帰って行った。
あの日、私の短い髪を見て戸惑っていた様子はもうどこにもない。
最近は悪魔憑きの噂もすっかり飽きられて、町は研究所の存在を日常の内に受け入れつつあるようだ。
ときおり丘の上から聞こえてくる発動機の音も、川辺の工場が出す騒音や列車の汽笛となんの違いもないらしい。
ちょっと──ちょっとだけね──退屈かもしれない。
「待たせたな。朝は町の注文から片づけてるんだ。一応こっちが本業なんでな。それで、今度は何が要るんだい?」
カウンターを片付けた親父さんが、金槌のような顔をこちらに向けた。
私が新しい設計やチェーン駆動の説明をすると、親父さんはしばし腕を組んで考え込んでいる。
それから棚の抽出しを開け、中から一本の鎖を引き出してきた。
「まず、こいつをどう思うかな。モーターバイク用のチェーンなんだが。」
「えっ?」
意外な答えが返って来た。
発動機につなぐチェーンといえば、私の頭には自転車用のそれ以外はなかったのだ。
例の兄弟は自転車屋だというし、世界中の好事家たちも兄弟の飛行機には自転車用のチェーンが使われていると睨んでいた。
低速での使用が前提で強度に不安もあるけれど、私としてもそれが最適な選択だと思っている。
自動車用や工作機械用じゃあ重すぎて他に選択の余地がない、という見方がより正しいのだけれど。
「お嬢さんの作ろうとしてる飛行機は、相当な速さで発動機を回すんだろう? 多分だが、自転車用のチェーンじゃあ耐えられないんじゃないかね。ありゃあ人間が脚で回すためのモンだし、それでも切れることはあるんだからな。その点こいつなら最初っから機械用だ。」
それは都の方で出回り始めたという小型発動機を積んだ「ペダルなし自転車」のためのものだった。
目の前に置かれたそれは、確かに一回り太いだけなのにとても頑丈そうに見える。
「とはいえウチは機械屋じゃあないんでな。その辺のことはお嬢さんの方が詳しそうだが、どうだい?」
確かにこれがいいかもしれない。
ピンもプレートも自転車用のものより肉厚で、だけど重さは少し増えるだけ。
ちょっとピッチが広いから回すのに大きな力が要りそうだけれど、発動機で動かすんだからそれは問題にはならないだろう。
「これ、もっと用意して親父さんの手で延長できるかしら? あとスプロケットも欲しいんだけど.....。」
「まかせなよ。既製品の改造なら替えが効くし、重量だって抑えられる。値段は少し張るけどな。」
簡潔で、合理的で、最適な提案だった。
地下倉庫の住人たちとは正反対の、職人の目が選んだ答えだ。
思わぬ掘り出し物に出会ってしまった幸運を喜ぶばかりだが、だけど...。
「──自転車屋ならともかく、なんで親父さんはこんなものを持っているの?」
「最近は歳のせいか歩くだけでも疲れやすくてな。...実は自分たちで一台組めないかと、自転車屋と一緒にパーツを集めてる最中なんだ。お嬢さんたちの火遊びに付き合って、どうも悪い影響を受けてるらしい。」
そう言って笑う親父さんの顔は、まるでイタズラを自慢する子供のようだった。
この町の人たちは理解してくれてはいないけれども、それでも私たちを受け入れてくれている。
変な親子の変な夢のために、ときどき丘から聞こえてくる騒音に付き合ってくれている。
それがどんなに嬉しいことなのか、最近はとてもよくわかるのだ。
***** A Short History of Crow Hill /
7月が終わりに近づくにつれて日差しは強く、丘の緑はより色濃く、そして図上の機体は現実の形になっていく。
私は最初、「飛べればいい」とだけ思っていた。
とにかく空に上がることだけが目的で、その先のことは飛んでから考えればいいと。
でも地下倉庫で見たガラクタたちも、きっとみんなそうだったんだろう。
「今、ここさえ越えてくれればいい」──そう思って作り始めて、それ以上はどこにも行けなくなってしまった。
たまごの中身を潰すことなく空へ運んで、安全に地上へ還す──。
それが今の私たちの「空を飛ぶ」の定義になる。
目的がはっきりした途端に設計が素直になった気がした。
どの部品が必要で、不要で、何を優先して、何を選べばいいのか。
それまで自信のなかった判断が一本の線で導かれていくのを感じている。
これはきっと地下倉庫の住人たちが教えてくれたことだ。
不自然な継ぎ足しではなく、目的に正直な設計を。
これまで積み重ねた経験が活きているというのもあるのだけれど、3号機の新規設計は自分でも驚くほど迅速に進んだ。
小手先の調整ばかりの日々に飽きていた職人たちも、一からの作り直しに喜んで取り組んでくれて、新しい飛行機は研究所という巣の中であっという間に育っていった。
機体構造は根本から見直されている。
二基に増えたプロペラは左右の翼へ移された。
取り付け位置も翼の中程に一基ずつ、後ろに向かってシャフトが伸びている。
前で引っ張るのではなく、後ろから押し出す推進式だ。
機首にあった発動機もたまごの後ろ──主翼の下へと移されて、そこから延びたチェーンは左右の翼の間を通って、二つのプロペラをそれぞれ逆方向に回転させることになる。
発動機が後ろに離れたことで振動と騒音も軽減できた。
たまごの前から発動機が消えて、操縦席からの視界は大きく開けている。
正直に言うと、それが嬉しくてたまらない。
3フィート浮くだけでいいと思っていたのだけれど、やっぱり空は広い方がいいに決まっているのだ。
それ以上に印象的なのは再設計した主翼かもしれない。
上の翼を少し長く、下の翼は少し短く、比率で言えばおよそ6対4で作り直したのだ。
さらには重心調整を兼ねて、下翼だけを2フィート前へずらして取り付けている。
翼端の位置を揃えてしまうと、そこから生まれる気流の渦が同じ場所でぶつかり合って、乱気流となり尾翼の安定を損なってしまう。
だけど上下の翼端が離れているなら、気流の渦はぶつかることなくそのまま後方に流れていく。
一方で、V字尾翼は美しい着想だったけど、今の私たちにはまだ扱いきれない可能性が残っていた。
いろいろ試し続けてはいるのだけれど、ひとまずは小ぶりな垂直尾翼を下向きに追加して、V字でなくてY字の構造で様子を見るつもりだ。
以上が試作3号機の概要だ。
これらの変更点によって機体のシルエットもずいぶんと変わった。
いまの3号機の印象は、図らずも理想に描いたからすの姿に近づいている。
先端に向かってすぼまる丸い操縦席。
左右に大きく開いて反った羽ばたくような翼。
その後ろで羽根が舞うようにひらめくプロペラ。
自慢げにピンと張ったY字の尾翼。
それらの全てが、町で見慣れたからすの姿に重なって見えた。
まだ滑走試験もしていないのに、一目見ただけで “正解はこれだったんだ” と確信できるほど自然なのだ。
7月が終わりに近づくにつれて日差しは強く、丘の緑はより色濃く、そして紙上の線は現実の形になっていく。
半分が青空の作業場で私たちは新しい機体を完成させつつあり、あとは発動機の完成と到着を待つばかりだ。
いよいよその時が近づいている──ひな鳥の羽ばたく音が聞こえる。
***** 続く *****




