六十二、聖女来訪
王都ルクス=アークの城壁が、街道の先に見え始めた頃だった。
昼の陽はまだ高い。白く乾いた街道は、馬の蹄が打つたびに薄く砂を舞い上げる。風も穏やかで、つい先日まで血と殺気のただ中にいたことが嘘みたいに静かだった。
――こういう静けさのあとには、たいてい嵐が来る。
馬を走らせていると案の定、前方から三騎、王国の紋をつけた騎士たちが追ってきた。
「勇者殿! グラトス殿下! エリシア殿!」
馬上のまま深く一礼し、息を整える間も惜しむように告げる。
「陛下が至急お呼びです。ご帰還次第、ただちに登城をとのこと」
俺たちを探し回っていたのだろう。
ただの帰還報告ではない――それは、騎士の顔を見れば分かった。
声は整っている。姿勢も崩れていない。礼儀を忘れてはいない。
それでも、目元には隠しきれない焦りがあった。
王都で何か大きなことがあった――そう顔に出ていた。
俺は手綱を軽く引いた。
「やっぱり、法国関係だろうな」
「休ませる気はないのでありますな……!」
グラトスが嘆いてみせる。だが、声音は思ったより真面目だった。
エリシアは騎士を一瞥しただけで、小さく頷く。
「参りましょう。ここで立ち止まる理由はありません」
俺たちは、騎士達に案内を任せ、そのまま速度を上げ、王都へ向かった。
⸻
城門をくぐった瞬間、違和感ははっきり形を持った。
白い。
とにかく、妙に白かった。
通りの柱には白布が巻かれ、広場には白百合に似た花が次々と運び込まれている。だが、整っているというより――整えようとして、まだ途中だった。脚立を抱えた職人が走り、文官が紙束を片手に怒鳴り、騎士たちまで幕や香炉の配置に駆り出されている。教会の聖印が描かれた幕も、片側だけ結ばれたまま風に煽られていた。
甘い香が漂ってくる。だが、それすら落ち着いた儀礼の匂いじゃない。慌てて数を増やしたせいで、場所によって濃すぎたり薄すぎたりする。巡礼を迎える時期でもないのに、王都全体が急ごしらえで“清らかな顔”を整えさせられている最中だった。
誰が見ても、急に決まった来訪だ。
教会の人間だけじゃない。騎士も、文官も、使用人まで引っ張り出され、城下じゅうがその準備に振り回されている。白い花を抱えた侍女が小走りに駆け、聖印旗を運ぶ若い兵が通り角でぶつかりそうになって怒鳴り合っていた。
なのに――民衆だけは浮き立っていた。
「法国から法王様が来るらしいぞ!」
「聖女様も一緒だって!」
「祝福を授けてくださるんだろ?」
「帝国との争いの慰霊も兼ねてるんじゃないか?」
笑い声。期待。興奮。
まるで平和の象徴でも来るみたいな空気だった。
だが俺には、その浮かれ方が妙に現実離れして見えた。
白い花も、白い布も、白い香も――本来なら、もっと時間をかけて整えられるものだ。それを半ば無理やり、王都じゅうへ一気に行き渡らせている。歓迎のための支度というより、歓迎している“形”だけでも急いで整えようとしているように見えた。
急拵えのはずなのに、目指している形だけは妙にはっきりしている。
それが逆に、この来訪がどれだけ突然で、どれだけ重いものとして王都に降ってきたのかを物語っていた。
横でエリシアが低く言う。
「デュラン様からの報告通りなら、法王は魔王に乗っ取られている可能性が高い」
「恐らく、“聖女”も魔族と見るべきでしょう」
「分かってる。……だからこそ、何も知らずに浮かれてる王都が、ひどく危うく見える」
俺は風に煽られる白い幕を見上げた。
「ロイドが歓迎の舞台を整えてるんだろうが……それにしたって急すぎる。隣国の法王が来るなんて、本来なら何日も前から触れが回る話だ」
「歓迎の準備にしたって、王都全体が間に合わせで走ってる。普通じゃない」
グラトスも珍しく笑っていなかった。
「聖女お披露目に見せかけて、王を狙いに来た……そういうことでありますか?」
エリシアが即答する。
「少なくとも、そう疑っておくべき状況です」
王都の喧騒が、妙に遠く聞こえた。
誰も知らない。この歓迎の先にあるものが、祝福なんかじゃないことを。
⸻
通されたのは玉座の間ではなく、宰相府に近い小会議室だった。
厚い扉。少ない灯り。長机と、最低限の椅子だけ。ここが、余計な人を遠ざけて話すための部屋なのだと、一歩入っただけで分かった。
そこには、すでにアルトリウスとロイドがいた。
「来たか!」
王の声はいつも通りよく通った。だが今日は、豪快さの奥にひとつ硬いものがあった。
「よく戻った、勇者たちよ! ダリウスから盾は借り受けたようだな! だが、今、我が国は火急の時だ。すぐ本題に入るぞ!」
ロイドは椅子に腰掛けたまま、静かに頷く。
「明日、法国法王と聖女が王都へ入る」
それだけで、部屋の空気が一段沈んだ。
ロイドは続ける。
「名目は、帝国との争いで生じた死者への慰霊と、王国との友好確認。加えて、法国の“聖女”による祝福の披露だ」
机上に山と積まれた書類を見るだけで、今回の段取りがどれほど急だったかは十分に伝わった。
「急な申し入れだったが、断る余地はない。断れば、王国が教会を敵視したと受け取られる」
「そして――勇者である君にも同席してもらいたい」
俺は眉をひそめた。
「俺にも?」
「ああ」
今度は王が答えた。
「王と法王。勇者と聖女。その構図自体に政治的価値がある。民衆に示す意味も大きい」
勇者と聖女。
その響きだけで、喉の奥がざらついた。
「……聖女、か」
俺が小さく繰り返すと、ロイドが視線を上げる。
「何だ?」
「いや、俺はあまり詳しくなくてな。聖女ってのは、どういうものなんだ」
答えたのは、ロイドより先にエリシアだった。
「教会における特別な象徴です。魔法の才が突出して高く、祈りと奇跡を体現する存在とされています」
そこで一度言葉を切り、静かに続ける。
「近年の有名な例では、“灯火の聖女”と呼ばれた方がおりました。法国大神殿で魔族や魔獣の騒ぎが起きた夜、炎で避難路を作り、人々を導いて救ったと伝えられています」
「人を焼く炎ではなく、人を生かす灯火――その振る舞いから、“灯火の聖女”と呼ばれるようになったそうです」
「そんなことができるのか……」
「少なくとも、そう語られる程度には規格外です」
エリシアの言葉を、ロイドが引き取る。
「加えて、その聖女は、数年にわたり法国各地を襲った魔族・魔獣被害の折、防衛と救護をほぼ一人で支え、戦況そのものを覆したとまで語られている。」
「……一人で?」
「無論、誇張はあるだろう。だが、誇張込みでも常軌を逸していることに変わりはない」
ロイドは淡々と続けた。
「ただし、普通は公の場へそうそう出てこない。聖女は教会にとって宝だ。大々的に披露するものではなく、内部で手厚く保護される存在だ」
「それをわざわざ王都へ連れてくる時点で、すでに通常ではない」
やっぱりか。
ただの儀礼で済む話なら、こうはならない。
アルトリウスは腕を組んだまま、俺を真っ直ぐ見た。
「法王がきな臭いという話は、すでに報告を受けている」
「だが、王が逃げれば国が揺らぐ。相手が何者であろうと、私は王として迎える」
一拍。
「だからこそ、お前たちにもいてほしい」
この王は、豪胆と言われるだけある。この危険な状況でも退かない。
無鉄砲とは違う。退いた時に何が崩れるかを知った上で、それでも王の位置に立つ覚悟だ。
ロイドはもっと冷たかった。
「表向きは歓迎する。だが、ただ暖かく迎える気はない」
「むしろこれは、見極める機会でもある」
その言葉に、俺は少しだけ前へ身を乗り出した。
「なら、はっきり言う。法王は魔王、あるいはそれに類するものに乗っ取られている可能性が高い」
「聖女も、ただの聖女じゃないだろう。会談そのものが仕掛けられた舞台だ」
グラトスが、そこで珍しく軽口を挟まず真面目に補足した。
「暗影魔法で、王や重臣をまとめて落とすつもりかもしれませぬ」
「あるいは、祝福や慰霊の形で王都へ楔を打ちに来るか……」
言いながら、自分でも何を警戒しているのか輪郭は曖昧だった。
だが、危険だという感覚だけは揺らがない。
ロイドは小さく頷く。
「その懸念は当然だ」
「だが、こちらも無策ではない。王と私には、暗影魔法への耐性を持つ装備を用意してある。直で落とされることは避けられるだろう」
「避けられる、か」
俺は言った。
「守り切れるかは、別だろ」
一瞬の沈黙。
アルトリウスが口元をわずかに上げる。
「そこそこはやれるぞ、私は」
「兄上はダリウスに鍛えられてきましたからな」
グラトスが真面目な顔で続ける。
「ダリウスも居てくれれば頼りになったのでありますが……帝国との争いで、そうも言っていられませんな」
少しだけ、空気が落ちた。
だがロイドは、そこで落とさせない。
「勇者がタイミングよくこの場にいるのだ。贅沢な事はいってられん」
「むしろ、奴ら法国の言葉でいえばこれこそが神の試練ということなのだろう」
低い声が、部屋の中心へ落ちる。
「明日は、この機に“証拠を掴む”」
「魔族とわかれば、この大陸一丸となって取り組む問題だ。帝国と戦争している場合でもなくなる」
そして、俺をまっすぐ見た。
「明日は、勇者としての勤めを果たせ。」
その言葉は妙に重かった。
兄じゃなく。
男じゃなく。
勇者として。
俺は小さく息を吐く。
「……分かった」
「頼りにしているぞ」
ロイドはそこで話を切り替えた。
「では、作戦を詰める」
⸻
そこから先の打ち合わせは、ひたすら具体的だった。
まず決まったのは、儀礼と会談を分けることだ。
法王と聖女を迎える最初の謁見は、王としての格を示すため玉座の間で行う。
だが、それはあくまで“迎える場”に留める。
形式的な挨拶と歓迎の言葉だけを交わし、実際の慰霊と祝福の会談は、別棟にある「祝福の間」へ移す。
王国が礼を失していないことは見せる。だが、敵に都合のいい舞台を丸ごと渡す気もない。
ロイドのその線引きに、異を唱える者はいなかった。
卓上へ広げられたのは、王城の見取り図と、玉座の間から祝福の間へ続く導線図だった。
王の位置。
法王側が連れてこられる人数。
聖女の立ち位置。
香炉、聖水、献上品、祝福具――持ち込みを許すものと許さないもの。
近衛の配置。出入口。控えの間までの退避経路。民衆の見学範囲。
エリシアが図面の上へ指先を滑らせながら、一つずつ潰していく。
「まず、玉座の間での謁見は短く切り上げます。あくまで儀礼上の歓迎のみ。長話は避けるべきです」
「その後の会談と祝福の儀は、祝福の間で行う。こちらの方が出入口も多く、王と民衆を切り離しやすい」
ロイドが頷く。
「使節団の人数制限は?」
「法王本人、聖女、随員二名まで。神殿騎士は玉座の間にも祝福の間にも入れません」
「護衛を名目に人数を増やされれば、それだけ暗影の混入先が増えます」
「香炉は?」
と、ロイド。
「王城側で用意します」
エリシアは即答した。
「先方が持ち込む香炉、聖水、献上品、祝福具はすべて別室で検分を。中身だけでなく、器具そのものも確認します」
「“神聖な儀礼具”という名目ほど、細工を忍ばせやすいものはありません」
アルトリウスが腕を組む。
「私が座る位置と、法王の席の距離は?」
「玉座の間では通常通りに近い形を取ります。儀礼で不自然さを出さないためです」
「ただし、祝福の間では長机の両端へ。言葉を交わすには十分、しかし不用意に踏み込めない距離を確保します」
エリシアはそこで、一度指を止めた。
「王の背後にはグラトス殿下を。アマテリア持ちとして、最初の一撃を止めていただきます」
グラトスがびしりと背筋を伸ばした。
「某が兄上の盾になりますぞ!」
「冗談抜きでお願いします」
「……はい!」
返事まで早い。
珍しく、完全に空気を読んでいた。
ロイドは別の紙束を軽く叩いた。
「会談とは別に、宰相府の兵と近衛を裏で動かす。教会使節の荷は再検分。宿もこちらで抑える」
「供回りの中に、取り憑かれた者がいないかも確認しろ。礼の角度、歩幅、呼吸――そういう些細な揃い方に出る」
何も起きないなんて事はないだろう。
そして起きてしまえば、最初の数秒で全部決まる。
「俺はどう動けばいい」
そう問うと、ロイドが答えるより先にエリシアが口を開いた。
「ジーク様には、法王と聖女の“気配”を見ていただきます」
「敵意、暗影、あるいは明らかな異常が出た瞬間、最短で制圧できる位置へ」
「……王のすぐ横じゃなくていいのか?」
「王のすぐ横にはアマテリアがあります」
エリシアはグラトスを顎で示した。
「ジーク様は“止める人”ではありますが、“断ち切る人”です」
「届く位置にいてください」
言い方はいつも通り冷静だったが、やけに的確で何も言い返せなかった。
アルトリウスが、そこでふっと笑う。
「頼もしいな。我が王国は」
「笑いごとではありません、陛下」
「分かっているとも」
そう返した王の顔に、妙な軽さはなかった。
豪胆なだけじゃない。何が起きるかを承知した上で、それでも王の席から退かない顔だった。
ロイドが最後に、全体を見回して言う。
「玉座の間では礼を尽くす。だが、祝福の間では決して隙を見せるな」
部屋の空気が、そこで静かに張った。
明日やるべきことは、もうはっきりしている。
先に斬ることじゃない。
先に怯えることでもない。
黒い顔をした敵が本当に来るのかどうか。
まずは、それを見抜くことだ。
⸻
会議が終わり、部屋を出た頃には、外はもう深い夜だった。
白い飾りの増えた王都は、昼より静かで――そのぶん、不気味だった。
灯りに照らされた白布が、風もないのに揺れて見える。気のせいだと片付けるには、今日は神経が尖りすぎていた。
軽い食事が運ばれ、俺たちは控えの小部屋で一息つくことになった。
扉が閉まった途端、グラトスが椅子へ崩れ落ちるように腰を下ろし、これ以上ないくらい深く息を吐いた。
「……久しぶりに、冗談抜きで胃が痛いでありますな……」
「珍しいですね」
エリシアが、水差しを手にしたまま淡々と言う。
「殿下にも、そういう機能があったのですか」
「某を何だと思っておられるのでありますか!?」
「王族です」
「王族なのに扱いがひどい!」
いつものやり取りだった。
だが、今日はグラトスの声が少しだけ裏返っている。
俺は小さく笑って、皿の上のパンを手に取った。
食欲はない。だが、何も食べないと余計なことばかり考えそうだった。
聖女。
法王。
祝福。
肩書きも名目も、並ぶものはどれも白い。
なのに、その奥にあるものは少しも白くない。
ぼんやりとパンをちぎっていると、不意にエリシアがこちらを見た。
「……ジーク様」
「ん?」
呼びかけたくせに、エリシアはすぐには続けなかった。
珍しい間だった。
やがて、彼女は静かに口を開く。
「以前のことを……お詫びしておきたく思います」
俺は少しだけ眉を上げた。
「以前?」
「初めて、バストリアでお会いした時のことです」
一拍。
「私はあの時、ジーク様だけを見ていました」
声は落ち着いている。
だが、落ち着かせすぎている時の声だった。
「“勇者”として。王国を動かす象徴として。ロイド様を助け、この国を立て直すために必要な存在として」
「……そこに嘘はありません。今でも、その判断自体は間違っていたとは思っておりません」
エリシアはそこで、わずかに目を伏せた。
「ですが同時に、私はカミナ様に気圧されていました」
「軽く見ていたわけではありません。むしろ、予想以上の熱量と圧力に、一瞬受け方を誤ったのです」
「どう向き合うべき相手なのかを測り損ね、正面から受け止めきれなかった」
一拍。
「……そのことが、今も少し引っかかっています」
短く息をつき、それから続ける。
「分かたれた道、その最初の一歩に、私の見誤りもあったのではないか――そう思っています」
「もしあの時、もう少し違う向き合い方ができていれば……今とは別の形もあり得たのではないかと、考えることがあります」
エリシアらしい言い方だった。
感情をそのまま出さない。
けれど、だからこそ重かった。
俺はパンを皿へ戻した。
「……その話は、もういい」
エリシアが顔を上げる。
「ですが――」
「俺も、あいつを引っ張って来られなかった」
言ってから、少しだけ喉が詰まる。
「兄貴のくせにな」
部屋が静かになった。
グラトスまで、今は口を挟まない。
俺は椅子の背に身体を預け、天井を見た。
「でも、終わったとは思ってない」
「弟なんだ。今は派手に拗れてるだけで、そのうちぶん殴ってでも話を聞かせる」
「衝突は避けられないものとしてお考えなのですね」
エリシアが小さく返す。
「カミナの猪突猛進さは、もう体感しただろ」
俺は苦笑して、肩をすくめた。
「穏便に済む気がしないんだよ」
「……そこは同意します」
そこでようやく、少しだけ空気が緩んだ。
俺は一度、指先でカップの縁をなぞってから続けた。
「ただ、明日は別だ」
「カミナの分かりやすさとは違って、法王の狙いは単純ではなさそうだ。意図が読めない」
「読めませんね」
エリシアは頷いた。
「王を狙うのか、勇者を試すのか、ただの様子見なのか……どれもあり得ます」
「明日……戦闘になるのでしょうか」
エリシアの問いに、俺はすぐには答えなかった。
否定したかった。
だが、できない。
この状況で「大丈夫だ」と軽く言えるほど、俺は楽観的じゃない。
「……なるかもしれない」
ようやく、それだけ言った。
グラトスがごくりと唾を飲み込む。
「そうなると、某が兄上を守り、勇者殿が法王と対峙し、叔父上とエリシア殿が全体を裁く……そういう形でありますかな……」
「概ねその通りです」
エリシアが即答する。
「ただ、陛下も血気盛んなお方です。土壇場で前へ出られる可能性は十分あります」
「アマテリアを託された以上、兄上は命に代えてでも守りますぞ!」
「その意気です」
エリシアが即答した。
グラトスが少しだけ胸を張る。
強がりだ。だが、強がってくれるだけ助かる。
俺は二人を見た。
「まあ、そうなったら……時間を稼いで、王とお前たちくらいは逃がしてやるさ」
「ジーク様なら、逃がすだけで終わらせないでしょう」
エリシアの返しは早かった。
「倒してください」
「簡単に言うなあ……」
「勇者でしょう?」
「一応な……」
そこでようやく、グラトスが突っ込んだ。
「勇者殿が弱気なことを言うと、急に不安になるのであります!」
「お前の『某がやりますぞ!』よりは不安にならないだろ」
「えっ、そんなに頼りないでありますか!?」
「殿下は勢いはありますが、精度に難がありますからね」
「エリシア殿まで!?」
グラトスが本気で傷ついた顔をして、俺は思わず笑った。
窓の外では、白い布が夜の灯りを受けてぼんやり浮かんでいた。
まるで王都そのものが、明日のために息を潜めているみたいだった。
夜は静かに、更けていった。
⸻
翌朝。
王都の鐘が、いつもより長く鳴った。
城門の外から、使節到着の報が入る。
王の間の準備は、夜のうちにすでに整えられていた。
アルトリウスは玉座に座る。
その半歩前には、アマテリアを構えたグラトス。
ロイドは玉座のすぐ脇。
俺は王の間の下段、王にも使節にもすぐ動ける位置についた。
エリシアは側面へ下がり、侍従や近衛の並びに溶け込むように立ちながら、会場全体を見渡していた。
白い。
やはり、今日はすべてが白い。
花も、香も、敷かれた布も、儀礼の衣も。
王の間の豪奢さが、今日は妙に寒々しく見えた。
やがて、近衛が高らかに名乗る。
「法国法王猊下、ならびに聖女殿、御到着!」
扉が開いた。
白い旗。
白い法衣。
白い花。
民衆の歓声が、遠くから波みたいに届く。
王都はこれを“祝福”だと思っている。
――だが。
法王が入ってきた、その瞬間だった。
胸の奥が、理屈より先に拒絶した。
黒い。
視界に映るのは、白金の法衣を纏った法王の姿だ。
なのに、その奥にあるものだけが、吐き気がするほど黒かった。
暗影。
粘りつく。沈む。染み込む。
光を嫌って身を潜める黒じゃない。光の上から堂々と覆いかぶさり、白ごと腐らせるための闇だ。
息を吸うたび、喉の奥がざらつく。
肌に触れてもいないのに、内臓だけが薄く掴まれる。
“嫌な気配”なんて言葉で済ませていいものじゃない。あれは、人の心を折るために熟れきった魔族。
祈りの香がする。聖歌も流れている。侍従も神官も頭を垂れている。
なのに、その全部が逆に見えた。
あれは、ただの魔族ではない。
人を壊し、人を器にし、人の形のまま中身を喰い尽くす――そういう破滅を運ぶ者だ。
――だが、違う。
俺が知っている魔王の闇とも、また少し違っていた。
五百年前、祭壇の前で封じたあの魔王とは闇の質が違う。
もっと細い。もっと狡い。人の形に綺麗に収まることだけを覚えた闇だ。
法王は間違いなく“魔族”だ。
それだけは、はっきり分かった。
なのに、その横へ白い影が入った瞬間――世界が一度、止まった。
小柄な影。
白いヴェール。
細い肩。
祈りの形に揃えられた指先。
顔はまだ見えない。
なのに、気づく。
胸の奥へ埋めたはずの五百年前が、いっせいに目を覚ました。
祭壇。黒雷。光。封印。あの最後の声。
汗が噴き出る。
指先が痺れる。
足が、一歩も前へ出ない。
白いヴェールの奥から、ほんのわずかに漏れた気配があった。
雷。
祈り。
そして――忘れようがない、妹の気配。
――レイだ。
封印の棺に眠っているはずの妹が、白い聖女の衣をまとい、法王の隣に立っていた。




