父と兄2
ーー翌日、セレナは父であるエヴァレット公爵の書斎に呼ばれていた。
重厚な書棚に囲まれた部屋の空気は重たく、沈黙さえ威圧する。
窓から差す午後の光が、深い影を床に落としている。
「お前は、本気でユリウス・アーデルハイトと婚約するつもりなのか?」
公爵の声は低く、静かだった。
だがその裏に潜むのは、ただの父の疑問ではない。
公爵家の未来を背負わせる者としての、鋭い探りの目だった。
セレナは、その視線を正面から受け止めた。
「ええ、私は彼と婚約します」
「……理由を聞こう」
その問いに、セレナはほんの少し目を伏せた。
(理由……ね)
本当のことなど、言えるはずがなかった。
《私は五度、自分の命を断ちました。一度目の人生で、皇太子殿下は私の元夫でした。今回は六度目の人生ですが、同じ過ちを繰り返さないためにこれまで関わりのなかった、ユリウス・アーデルハイトを選びました。》
なんて言えば、気が狂ったと思われるに違いない。
「ユリウス様は、私の好みなのです。皇太子殿下は好みではありません」
冷静に、穏やかに。
だが一片の揺らぎもなく、そう答える。
(10歳の子供らしい、けれど十分に通用する理由のはず)
父を欺くことに、もはや罪悪感はなかった。
彼女が信じるものなど、この世界にもうほとんど残っていないのだから。
「……なるほどな。好みか」
公爵は腕を組み、しばし沈黙する。
窓の外で木々が揺れ、風の音がわずかに耳に届いた。
「だが……お前は、皇太子殿下がお前に好意を持っていることに、気づいていると思っていたのだが…。違うか?」
セレナは、息を吐いた。内心では軽く舌打ちしたいくらいだった。
(わかってたわよ、そんなこと……)
「気づいておりましたが、私は皇太子殿下を好きではありません。それに、皇太子殿下にはもっと他にふさわしいお相手がきっといるでしょう」
その声音には迷いがなかった。公爵は何も言わず、娘を凝視する。
(この娘は……何を考えている?)
目の前の少女は、確かに自分の娘セレナである。
だが、ここに座っているのは、まるで別人のように成熟し、冷徹な意思を宿していた。
以前のセレナなら、父の前では言葉を濁し、目をそらし、ただ従うだけの少女だったはずだ。
だが今――
「もう良い……分かった。ひとまず、陛下と皇太子殿下には、私からも話をしてみよう」
「はい、お父様」
礼を失さず、ただ淡々と。
セレナは一礼し、部屋を出た。
廊下に出ると、そこにはレオンが立っていた。
「お兄様…私を待っていたの?それともお父様に用?」
「セレナを待っていたんだ。話は終わったのか?」
「ええ、話したわ。ユリウス様との婚約の件を、ね」
「……本気なんだな?」
その問いに、セレナは瞬きもせず答える。
「ええ、もちろん」
レオンはしばし沈黙した。
まるでその言葉の裏を探るかのように、彼女の横顔を見つめていた。
「父上は……納得されたのか?」
「完全に、とは言い難いけれど…。でも、反対はされなかったわ」
レオンはふっと苦笑するように唇をゆがめた。
「そうだろうな。……お前が、あそこまで真っ直ぐ自分の意見を言うなんて…珍しいことだからな」
どこか寂しげな声だった。
兄としての率直な感想。けれどそれが、セレナの胸には刺さる。
(レオンお兄様……)
かつては、兄をとても愛していたし、心から信じていた。
だが、その信頼は裏切られた。
(私が絶望の中で死を選んだとき、あなたはーー)
セレナの瞳がわずかに陰る。
「……俺は、セレナの意思を尊重するよ。だけど、もし何かあったら……俺に言うんだぞ?」
「ありがとう、レオンお兄様」
そう口では言ったものの、その胸中には冷たい霧が立ち込めていた。
(あなたに、一体何ができるというの?)
兄の目は優しい。けれどその優しさは、今のセレナには、どこまでも無意味だった。
(私が命を落としかけたとき、あなたは見て見ぬふりをした……いや、それどころか――)
胸の奥に棘が刺さる。
何度も何度も、心をえぐってきた棘。
何度、声にならない叫びをあげただろう。
何度、夢の中で愛する者が、血に濡れた光景を見ただろう。
それでも彼は、こうして何も知らずに馬鹿みたいに優しい顔をしている。
「……セレナ?」
ふと、レオンが心配そうに声をかけてきた。
「……なんでもないわ」
セレナは微笑んだ。完璧な、作り笑いだった。
兄の存在に、もはや何の期待も抱かない。
そのことを、自分でも冷たすぎると思うことはない。
すでに、心は閉ざされているーー。
ーーその夜、セレナは部屋の窓辺に腰かけていた。
外は静かで、遠くの森の木々が風に揺れる音だけが聞こえてくる。
窓から差し込む月光が、彼女の白い頬を照らしていた。
机の上には、ユリウスにもらった本がある。
幾度も読み返した童話は、今や彼女の心の慰めとなっていた。