芽生えた疑問
「……私とは、ずいぶん違う方だったのね」
思わず零れた言葉に、ミレイユがわずかに首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「ええ。私は、陽だまりなんて言葉が似合う人間ではないもの」
セレナは自嘲するように笑った。
温かくもない。
明るくもない。
誰かを包み込めるような優しさだって、自分にはもう残っていない気がする。
これまで失ってきたものを数えるうちに、いつの間にか心の中には、誰にも触れられたくない場所ばかりが増えてしまった。
ミレイユはしばらく黙っていた。
「……ですが」
やがて、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「アリシア奥様も、いつも明るく笑っておられた方ーーというわけではないそうですよ」
セレナは彼女を見る。
「そうなの?」
「はい。晩年はお身体を悪くされていたので、寝室から出られない日も多かったとか……」
ミレイユは窓の外へ視線を向ける。
「それでも、体調の良い日には庭へ出て、花の手入れをなさっていたそうです。ご自分では鋏を持てないほど弱ってからも、庭師に『あの花は手入れが大変だから、毎日、気にかけてちょうだいね』『来年はそこに白い花を植えてね』などと、よくご指示をなさっていたとーー」
「……来年?」
セレナがぽつりと聞き返す。
ミレイユは小さく頷いた。
「はい」
その一言が、妙に胸に残った。
自分がその来年その花を見られるかも分からないのに、どうしてそんなことを考えられるのだろうか。
「……不思議ね」
「何が、でございますか?」
「自分が見られるかも分からないのに……どうして来年の花なんて植えようと思えるのかしら」
セレナは窓から庭を眺めた。
ミレイユは少し考える。
「グレイ様が、似たことをアリシア奥様に尋ねたことがあるそうです」
「グレイが?」
「はい。ずっと昔のお話だそうですが。その時、アリシア奥様は――自分が見られなくても、この屋敷に来る誰かが見てくれるでしょう、と仰ったそうです」
ミレイユの表情が、わずかに柔らかくなる。
「変わった方ね」
「アリシア奥様は、旦那様とよく似ておられますよ」
「……ユリウスと?」
思わず眉を上げる。
ミレイユは小さく笑った。
「ご本人に申し上げたら、否定なさるかもしれませんが」
「確かに。否定しそうだわ」
それは容易に想像できた。
母親に似ているなと言われたユリウスが、困ったように眉を寄せる姿まで浮かんでしまう。
ーーその瞬間。
セレナは自分が、ごく自然にユリウスの表情を思い浮かべていることに気づいた。
「グレイ様によれば、旦那様は、とても可愛らしい坊ちゃまだったそうですよ」
「あら、そうなの?今度、本人に言ってみようかしら」
「ほどほどにして下さいね。私が旦那様に怒られてしまいますから」
ミレイユの声には、わずかな愉快さが滲んでいた。
セレナも小さく口元を緩める。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
本の古びた表紙を、指先でなぞる。
「ユリウスが、お母様を亡くした時ーーユリウスは八歳だったのよね?」
「……はい」
ーー八歳。
あまりにも幼い。
「……ユリウスは、お母様が亡くなってからどうしていたのか、知っている?」
ミレイユは少し困ったように眉を下げる。
「申し訳ございません。そこまでは、私も詳しくは……」
「そうよね」
当然だ。
ミレイユは直接その頃を知らない。
それでも彼女は、何か思い出したように続けた。
「ーーただ、ひとつだけ」
「何?」
「アリシア奥様が亡くなられた翌年、この庭の花がほとんど咲かなかったことがあったそうです。冬がとても厳しい年だったそうで。庭師たちも、いくつかの花壇は諦めるしかないと考えていたとか……。ーーですが、旦那様が毎日庭へ出て、庭師たちのところへ通われたそうです」
「……ユリウスが?」
「はい。花のことなどほとんどご存じなかったはずなのに、アリシア奥様が残された手帳を持って、これは残せないのか、これは来年咲かせられないのか、と」
ミレイユは少しだけ笑う。
「ーー結局、庭師たちも根負けして、なんとか花を生き返らせようと必死だったそうですよ」
セレナは窓の外を見る。
ーー色とりどりの花。
ーー整えられた生垣。
ーー午後の風に揺れるコスモス。
ただ美しいと思っていた庭だった。
だが今は、少し違って見える。
これは、ユリウスの母親が残した大切な庭で、幼いユリウスが必死に守った場所なのだ。
「……そうなのね」
ミレイユが静かに頷いた。
「形は少しずつ変わっておりますが、基本となる配置は今もアリシア奥様がお考えになったものだそうです」
セレナはしばらく庭を眺めた。
「……ねえ、ミレイユ」
「はい」
「私、庭を歩きたいわ」
「今からでございますか?」
「ええ」
ミレイユが窓の外を見る。
「もう少しで日が傾きますが……」
「だからいいのよ」
「かしこまりました。では、カイラスにも声を掛けてまいりますので、少しお待ちくださいね」
「ええ。お願い」
ミレイユが一礼して部屋を出ていく。
一人になったセレナは、もう一度だけ本へ目を落とした。
八歳の少年が、母を失ったあとも手放さなかった本。
その本を、彼はあの時ーー初対面のはずのセレナに渡した。
(どうしてだったのかしら……)
セレナの眉が、わずかに寄る。
ずっと以前から、胸のどこかにあった小さな疑問だった。
けれど今になって、それが妙に引っかかった。
(……そういえば)
ユリウスは、あの頃から時々。
自分のことを――まるで、ずっと前から知っているような目で見ていた。
思い返そうとした、その時ーー。
《コンコン》
扉が鳴った。
「奥様。準備ができましたので、お庭に参りましょう」
ミレイユの声に、セレナは現実へ引き戻される。
「……ええ。今行くわ」
立ち上がりながら、セレナはもう一度だけ『月の雫』を振り返った。
胸に残った違和感は、いつまでも消えなかった。




