陽だまりの人
部屋の前に着くと、カイラスが静かに扉を開けた。
「ありがとう」
「いえ」
セレナは部屋に入ろうとして、ふと足を止めた。
「カイラス」
「はい」
「あなたは……ユリウスを信じているのよね」
カイラスは少しだけ目を伏せた。
「はい」
唐突な問いかけにも関わらず、迷いのない返事だった。
「……そう」
「奥様」
カイラスが珍しく、自分から呼びかけた。
セレナが顔を上げる。
「旦那様は、言葉の少ない方です。ですが、決して、約束を破る方ではありません」
低く、静かな声だった。
「私はそれだけは、確かだと思っております」
セレナは一瞬、息を止めた。
ーー約束。
過去には、破られた約束ばかりが積み重なっている。
けれど、カイラスの目は揺れていなかった。
あの赤い瞳は、嘘を言っていない。
「……覚えておくわ」
それだけ返して、セレナは部屋に入った。
一人になった瞬間、膝から力が抜けそうにな理、セレナは窓辺の椅子まで歩き、そこに腰を下ろす。
『約束を破る方ではありません』
”約束”ーーその言葉は嫌いだ。
愛している。
守る。
ずっと一緒にいる。
幸せにする。
誰もが簡単に口にする。
けれど、そのほとんどは、時間が経てば色褪せる。
あるいは、都合が悪くなれば捨てられる。
一度目の人生で、アレクは何度も愛を囁いた。
あの頃のセレナは、それを信じた。
愚かなくらい、まっすぐに。
けれど最後に残ったのは、冷たい寝台と、暴力と、罵声と、壊れていく自分だけだった。
二度目の人生で、ルシアンも約束した。
死が二人を引き裂いても、魂は共にあると。
その言葉は今も宝物だ。
けれど、彼は死んだ。
自分の目の前で奪われた。
彼の約束が嘘だったとは思わない。
それでも、約束は人を救わない。
少なくとも、失う痛みからは誰も救ってくれない。
「……信じるなんて、もう私にはできないのに」
セレナは小さく呟いた。
ユリウスは、約束を破らない人間なのだろう。
カイラスがあれほど迷いなく言うのなら、きっとそうなのかもしれない。
けれど、それを信じた先に何があるのか。
信じたら、また失うのではないか。
期待したら、また壊れるのではないか。
愛してしまえば、また――。
そこまで考えて、セレナは強く目を閉じた。
***
《コンコン》
「奥様。ミレイユでございます」
「……どうぞ」
扉が開き、ミレイユが静かに入ってくる。
その手には小さな盆があった。
上には淡い色の茶と、焼き菓子が二つ。
「お疲れかと思いまして。甘いものを少しお持ちしました」
「ありがとう」
ミレイユは机の上に盆を置くと、セレナの手元の本に気づいた。
「『光の雫』でございますね」
セレナは少しだけ驚いて彼女を見る。
「知っているの?」
「はい。この屋敷では有名な本ですので」
「有名?」
ミレイユは少し微笑んだ。
「亡くなられたアリシア奥様がお好きだった本だと、グレイ様から伺っております。ユリウス様も幼い頃、よくその本を読んでいらしたそうです」
セレナは本へ視線を落とした。
「……そうなのね」
「グレイ様が以前、仰っていました。ユリウス様は、アリシア奥様が亡くなられた後も、あの本だけは誰にも触れさせなかったと」
セレナの指が止まる。
「……誰にも?」
「はい」
ミレイユは頷いた。
「けれど、奥様にお渡しになったのですね」
「……」
「奥様、お茶が冷める前に、どうぞ」
「ええ」
セレナは茶器を手に取った。
温かい香りが、ふわりと立ちのぼる。
口に含むと、ほんのりとした蜂蜜の味が広がる。
疲れた体に、じんわりと染み込んでいくようだった。
「美味しいわ」
思わずそう言うと、ミレイユの表情が少しだけ明るくなった。
「よかったです」
「……ミレイユ」
「はい」
「ユリウスは、この本を私に渡したことを後悔していないかしら」
ミレイユは少しだけ目を丸くした。
「後悔、でございますか?」
「大切な本だったのでしょう。お母様の思い出の品なら、私なんかに渡すべきものではなかったかもしれないわ」
言ってから、自分で胸が痛んだ。
”私なんか”ーーその言葉は、思ったよりもすんなり口から出てきた。
ミレイユはすぐには答えなかった。ただ、静かにセレナを見つめている。
「奥様」
「なに?」
セレナは本を見下ろした。
古びた表紙。擦り切れた角。何度も読まれた紙の匂い。
「ユリウス様は、大切だからこそ、奥様にお渡しになったのではないでしょうか?」
大切なものだからこそ、誰にも見せず、誰にも渡さず、胸の奥に沈めておくーー。
そうでなければ守れない。
けれどユリウスは、違うのだろうか。
「……本当に、変な人よね」
「ユリウス様が、でございますか?」
「ええ」
セレナは小さく息を吐いた。
「本当に、変な人」
ミレイユは困ったように、けれど少しだけ楽しそうに微笑んだ。
「旦那様がお聞きになったら、きっと喜ばれると思います」
「どうしてよ」
「奥様が旦那様のことを考えていらっしゃるからです」
セレナは茶器を持つ手を止めた。
「……別に、考えてなんか」
セレナは顔をそらし、窓の外を見た。
「ねえ、ミレイユ」
「はい」
「アリシア様は、どんな方だったの?」
ミレイユは少しだけ驚いたようだったが、すぐに表情を整えた。
「私は直接お仕えしたことはございません。アリシア奥様が亡くなられた時、私はまだ幼かったので……」
「……そうよね」
「ですが、グレイ様や古くから仕えている者たちは、今でもよく話しております」
ミレイユは少しだけ視線を柔らかくした。
「とてもお優しく穏やかで、陽だまりのような方だったと。花がお好きで、この庭園も、アリシア奥様が長い時間をかけて整えられたものだそうです」
セレナは窓の外を見る。
”陽だまりのような”か。
自分とは真逆だな、とセレナは思った。




