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君は愛しのメランコリア  作者: 桔梗


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優しさという名の剣

「お疲れ様でございました、奥様」


年配の仕立て屋が深く頭を下げる。


「仮縫いが整い次第、改めてお持ちいたします。細部の刺繍や装飾につきましては、侯爵様のご希望通り、控えめに、けれど品よく仕上げさせていただきますわ」


「ええ。お願い」


その後ろで、侍女たちが手際よく布地や針箱を片づけ始めた。

応接室に広げられていた色とりどりの布は、少しずつ箱へ収められていく。

だが、部屋の中にはまだ、絹と香水と新しい布の匂いが残っていた。


セレナはようやく普段のドレスに着替え直し、椅子へ腰を下ろした。

ほんの数着を合わせただけのはずなのに、思っていた以上に疲れている。


「これ、全部本当に買うの?」


セレナが呆れたように尋ねると、ユリウスは当然のように頷いた。


「必要だろう」


「必要かどうかは、私が決めるものじゃないの?」


「君が決めたら、一着だけになるだろう」


「…………あなた、案外浪費家なのね」


「君に関してはそうかもしれないな」


セレナは思わずため息をついた。


「あなた、意外と強引ね」


「今さらか?」


そう言われ、セレナは言葉に詰まる。

確かに、今さらだった。


「……はぁ、疲れたわ」


思わず本音が零れた。


体力の問題ではない。

心が疲れていた。


鏡の前に立たされ、自分を見つめる時間が長すぎたのだ。


美しい衣装。

美しい髪飾り。

美しい侯爵夫人。


それらは、まるで自分に新しい役を与えようとしているようだった。


「旦那様、奥様。お茶をご用意いたしましょうか」


ユリウスはセレナを見る。


「飲むか?」


「……ええ、少しだけ」


「では、庭の見える部屋へ行こう」


***


案内されたのは、応接室からほど近い小さな部屋だった。


大きな窓の外には、午後の庭園が見える。

コスモスの花は、昼の光の中でゆるやかに揺れていた。

先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、部屋の中は静かだった。


セレナは窓際の椅子に腰を下ろす。

ユリウスは向かいではなく、少し斜めの席に座った。


グレイが静かに茶を置き、部屋を出ていく。


「……レベッカ様のことだけど」


セレナが先に口を開いた。


「そのことなら、気にしなくていい」


ユリウスはすぐにそう言った。


「……あなた、そればかりね」


「ほかに言うことがない」


「あるでしょう。たとえば、なぜ彼女があなたにあんな態度を取るのか、とか」


ユリウスは少しだけ考えた。


「昔から、少し執着されていたんだ。君は気付かなかったかもしれないが」


あまりにも淡々と言うので、セレナは思わず目を瞬いた。


「自覚はあるのね」


「ない方が不自然だろう」


「では、気付いていたのに無視していたと言うこと?」


「あぁ」


「……冷たいのね」


「期待を持たせる方が残酷だろう」


その言葉に、セレナは一瞬黙った。


それは正しい。

正しいのに、どこか胸に刺さった。

期待を持たせる方が残酷ーーでは、今のユリウスはどうなのだろう。


「ねえ、ユリウス」


「なんだ」


「あなたは、私と結婚したことで困っていないの?」


「何に?」


「……レベッカ様のような方は、これからも出てくるでしょう。あなたに好意を持っていた人も、私を面白く思わない人も。あなたにとって私は……面倒ごとを連れてきたようなものじゃないの?」


ユリウスは静かに彼女を見た。


「面倒だと思ったことはない」


「……本当に?」


「ああ、本当に」


迷いのない声だった。


「君が俺を選んだ日から、一度もな」


セレナは息を呑んだ。


ーー十歳の誕生日。

あの日の記憶が、ふいに蘇る。


皇太子の手を取らず、会場の隅にいた彼を選んだ日。

自分にとっては、生き延びるための選択だった。


彼を巻き込むことへの罪悪感はあった。

けれど、それでも彼ならば皇太子から自分を遠ざけられるかもしれないと考えた。


それなのにーーユリウスは、あの日から一度も面倒だと思っていないと言う。


「……あなたは本当に変わっているわね」


「よく言われる」


セレナは呆れたように息を吐いた。

あまりにも真っ直ぐなものを向けられると、どうしていいのか分からない。

自分は、こんなものを受け取れるほど綺麗な人間ではない。心も、体もーー。


「私は……あなたが思うような人間じゃないわよ」


ユリウスは黙って聞いている。


「セレナ」


名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。


「俺は、君に何かを強いるつもりはない」


その声は穏やかだった。


「侯爵夫人としての役目も、社交界も、屋敷のことも」


「……それでは、私は何のためにここにいるの?」


思わず口からこぼれた。

言ってから、自分でも驚いた。


ユリウスはすぐには答えなかった。


やがて彼は、低く言った。


「俺が君と共に生きていくためだ」


セレナの指先が止まった。


「……何?」


「この屋敷にいる理由など考えなくていい。君はただ、俺の妻として、ここにいてくれるだけでいいのだから」


真っ直ぐな金色の瞳。


これまで、誰もが自分に何かを求めてきた。


公爵家の娘として。

皇太子妃として。

皇后として。

女として。

妻として。


役目を与え、価値を測り、正しさを押しつけた。


けれどユリウスは、『ただ、ここにいればいい』と言った。

それが、なぜこんなにも苦しいのだろう。


何度死んでも終われなかった自分に。

何度も愛を失い、期待を捨て、生きることさえ諦めた自分に。

自分にそんなものが許されるのだろうかーー。



「簡単に言うのね」


「簡単ではない」


ユリウスは静かに答えた。


「だが、ただ、そうしてほしいと思っているだけだ」


優しさは、ときに刃より深く刺さる。


「……少し、疲れたわ」


「部屋まで送る」


「一人で行けるわ」


セレナはそう言って席を立った。

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