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君は愛しのメランコリア  作者: 桔梗


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18/29

侯爵邸

ユリウスのその微笑みに、セレナの心の奥で凍っていた何かが、ほんのわずかに揺れた気がした。


けれど、それが何なのかは分からない。

分かりたくもなかった。


名前をつけてしまえば、それはきっと――不幸な結果になってしまう。

期待は裏切られるものだと、セレナは知っている。

もう、何度も思い知らされてきた。


「……帰りましょう」


そう言うと、セレナは先に石段を降りた。


神殿の白い石段は昼の光を反射して眩しく、足を踏み出すたびにドレスの裾がやわらかく揺れる。

背後から、ユリウスの足音が一定の間隔でついてくる。


決して近づきすぎず、離れすぎない。

まるで、彼女の歩幅を測っているかのようだった。


石段の下には、アーデルハイト侯爵家の馬車が待っている。

御者と従者が深く頭を下げた。


そのとき、神殿の鐘が遠くで鳴り始める。


ーー祝福の鐘。


空へ澄んだ音が広がる。

だが、セレナの胸には何も響かなかった。


(祝福……)


そんなものを信じていたのは、遥か遠い昔の話だ。


ユリウスが先に馬車へ乗り込み、手を差し出す。

セレナはその手を見た。


騎士らしからぬ綺麗な細長い指。

整った形をしているが、薄く残る傷がいくつもある。

確かに、剣を握る男の手だった。


(……この人はこの美しい顔に似合わず、本当に騎士なのだものね)


それを今さらのように実感する。


セレナはその手を取った。

強く引かれるわけでもなく、ただ静かに支えられて馬車へ導かれる。


扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。

車輪が石畳を叩く音が、一定のリズムで響く。


しばらく、二人は何も話さなかった。

だが、不思議とその沈黙は重くない。


「……セレナ」


やがてユリウスが呼ぶ。


「なに?」


「疲れているだろう」


「少しだけね」


嘘ではない。

神殿という場所は、思った以上にあらゆる過去を彼女に思い出させた。

忘れたいことほど、まるで呪いのように忘れられないのが人間だ。


「君は屋敷に戻ってゆっくり休むといい」


「あなたは?」


「俺はまだ仕事があるんだ」


そう言ってユリウスは、セレナの頭を優しく撫でた。

その手の温かさに、セレナはそっと目を閉じ、小さく息を吐いた。


(本当に言葉の少ない人ね)


結婚したばかりの夫とは思えないほど普通の会話。

けれど、その普通さが妙に安心する。


セレナはふとユリウスの横顔を見る。

まだ十八歳の青年の顔だ。

それなのに――帝国の英雄と呼ばれ、そして今は、アーデルハイト侯爵でもある。


***


ーー三年前。


ユリウスが魔獣討伐に行く直前のことだった。

ユリウスの父親であるアーデルハイト侯爵が突然病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


その葬儀の日のことはよく覚えている。

その日は雨が降っていた。

まだ十五歳だったユリウスは、黒い喪服をまとい、誰よりも静かに立っていた。


泣きもせず、取り乱しもせず、まるでーー初めから父親の死を受け入れていたかのようだった。

そして、若すぎる当主が誕生した。

貴族たちはその姿を見て、囁き合っていた。


「あまりに若すぎる」

「彼はあんなにおとなしい性格なのに、侯爵としてやっていけるのか?」

「でも、アルフォンス・アーデルハイト侯爵のご子息は彼一人でしょう?」

「アーデルハイト家は終わりかもな」


だがその三年後、誰もそんなことは言わなくなった。

いや、言えなくなったのだった。


彼は”帝国の英雄”ーーユリウス・アーデルハイト侯爵。

その二つの名は、今や帝国中に知れ渡っているのだからーー。


***


馬車はやがて広い並木道に入った。

木々の隙間から光が差し込み、地面にまだらな影を落としている。


その先に、巨大な鉄門が見えた。

アーデルハイト侯爵邸だ。


門がゆっくりと開き、馬車は庭園の中へ進んだ。


まるで、なぜか懐かしいーーそれが最初の印象だった。

整えられた芝生、白い噴水、左右対称の花壇。

コスモスの花が咲き乱れていた。


中央の道を進むと、大きな屋敷が姿を現した。

エヴァレット公爵家と比べれば、少しだけ小さい。

だが、それはセレナが公爵家に生まれたからそう思うだけだろう。


(ここが……)


私の家になる場所。


馬車が止ま理、ユリウスが先に降りた。


再び差し出される手。

今度は迷わずしっかりと掴んだ。


「お帰りなさいませ」


二人が馬車から降りると同時に、執事が深く頭を下げた。

白髪が混じっているが、姿勢は真っ直ぐで、動きに無駄がない。


その後ろには、十数人の使用人たちが並んでいた。

全員の視線がセレナへ向けられる。


「奥様」


その呼び方に、セレナの足が一瞬止まった。


奥様ーー。


「初めまして。これからどうぞよろしくね」


セレナがそう答えると、執事は満足そうに頷いた。


「ようこそお越しくださいました、奥様。私はこの屋敷の執事を務めております、グレイと申します」


落ち着いた声だった。


「長旅でお疲れでしょう。お部屋はすでに整えてございます」


「ありがとう」


セレナは静かに答える。


そのときーー


「ユリウス様」


若い従者が駆け寄ってきた。


「北方から至急の報告が――」


ユリウスの表情がわずかに変わる。


「……書斎へ持ってこい」


従者は深く頭を下げ、去っていった。

セレナはその様子を見ていた。


「忙しそうね」


「そうでもないさ」とユリウスは優しく微笑む。


「そう」


「すまないが、俺は仕事に戻る。君は部屋で休んでいてくれ」


「ええ。わかったわ。無理はしないでね」


セレナはそっとユリウスの手を握った。


「ああ。ありがとう」


ユリウスは後ろを振り返り、「妻を頼んだぞ。部屋で休ませてやってくれ」とグレイに言うと、

足早に屋敷の中に入っていった。

その背中を、セレナはしばらく見送っていた。

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