#1
右、異常なし。左、異常なし。
前方。異常、大アリ。
「響ー! 頑張れー!」
喧騒の中、凛とした彼女の声だけが俺の耳に届いた。客席の最前列。つまり俺の目の前。見慣れたツヤツヤのボブヘアーがぴょんぴょんと上下に跳ね、乱れている。まだ曲も始まってないのに。
文化祭名物、軽音部バンドライブ。超満員のライブ会場、いや、正確にはただの高校の体育館なのだが、そんなことは今はどうでもいい。
問題は彼女――四宮琴音が、ライブを観に来ているということだ。音楽なんてこれっぽっちも興味無かったはずの陸上馬鹿が、どうして?
まさか……後ろを振り返ると、友人であり俺をこの舞台に誘った張本人である弦本陸が、エレキギターと繋がった機材(エフェクターだっけ?)を足先でイジイジしていた。俺の視線に気付くと、ばちこぉんっ!と血走った目で下手くそすぎるウインクをする陸。
くそっ、さてはお前が琴音を呼んだな? 余計なことしやがって!
そもそも俺はバンド経験がないどころか、軽音部員ですらない。先日テニス部を退部したばかりのいわゆる帰宅部だ。
だけど今こうして、俺はステージに立っている。バンドのボーカルとして。
出演が決まったのは今日の朝だから、琴音が知る由なんてなかったはず。つまり陸がわざわざ教えた以外に考えられない。
「ボーカルが熱で学校休んでさ、マイナーなアニメ曲だから、お前以外に代役できそうな人がいないんだよ。な? 頼むよ。後で露店の物何か奢るからさ」
「うーん……3-2の『和牛マグロバーガー〜白トリュフソースを添えて〜』を奢ってくれるなら」
「は!? あの一個3000円の!?」
「無理なら、今回は遠慮を……」
「くっそぉ、足元見やがって! 乗った!」
なんて、数少ない友人の頼みについ安?請け合いをしてしまった数時間前の自分を殴り飛ばしたい。
琴音が観に来るなんて知ってたら、絶対に受けなかった。
だって、俺は人前で歌ったことなど生まれてこの方一度もないのだ。自分が音痴でないのかどうかすら分からない。あぁもうこんなの、ま|た失敗するに決まっている。彼女の前で恥をかくぐらいなら、友達一人失う方がよっぽどマシだというのに。
なんて思っている間にドラムがスティックでカウントをとり、陸がギターをかき鳴らし始めた。ギュインギュインと唸りを上げるギターは、素人の俺から見ても明らかに常軌を逸したパフォーマンスだ。だけど今は、そんな素晴らしい演奏に耳を傾ける余裕なんてこれっぽっちも無い。
俺の焦りを嘲笑うように、客席のどこからともなく手拍子が沸き起こり、次第に一つのリズムに収束してゆく。琴音も、他の観客も、この場に居る全員がステージ上で始まる何かに期待している。
瞬間、頭が真っ白になり、マイクを握る手の感覚が無くなった。口が渇き、汗が吹き出し、足元から震えが猛スピードで這い上がる。
だめだ。もう逃げられない。
リフの終わりを合図におずおずと口を開く。原曲を超えるほどの疾走感に歌い出し早々置いていかれそうになるが、なんとかメロディーラインの端っこにぶら下がり、あとはひたすら、無我夢中で声を振り絞る。
足を引っ張らないように。悪目立ちしないように。朦朧とする意識の中ただただ必死で歌い、唄い、唱った。
いつのまにか、体育館は地鳴りのような大歓声に包まれていた。




