プロローグ 天才魔道師長ルーファスの醜聞
新連載開始です!
── あの天才魔道師長ルーファス・セファロが呪いにかかった ──
そんな前代未聞の醜聞が宮廷のあちこちで、まことしやかに囁ささやかれはじめたのはいつのことだっただろうか ──
流れるような銀色の髪、透き通った肌に氷のような青い瞳を持つ美貌の宮廷魔道師長、ルーファス・セファロ。
彼の魔術を操る才能は卓越し、数百年に一度現れるか現れないかの稀代の魔道師長が何者かの呪いによって完全に魔力を封印された。
宮廷内の煌びやかな回廊の柱の影で従者たちは声を潜めて耳打ちし、貴族たちは華やかな舞踏会の片隅で密やかに噂に興じる。
だが宮廷内で広がっている噂は本当だった。
宮廷の副魔道師長ゲラルドは険しい表情で魔道師長の執務室に向かっている所だった。
彼が大事そうに持っている大きな盆には鎮痛剤が入った瓶、パン粥と果物がのっている。
食べ物を全く受け付けなくなってしまった主のために、ゲラルドがわざわざ厨房から持ってきたのだ。
少しでも食べやすいものを、ひと口でもいいから召し上がっていただきたい。
日に日にやつれていく主が、ゲラルドは心配でたまらなかった。
通常であれば、このような仕事は魔術師見習いの役目である。しかし、今日はもう一つ大事な用事があった。ゲラルドが東方のはるか遠い所まで出向いてルーファスにかけられた呪いの解除や対策法について調査したことを報告しなければならなかった。
魔道師の長いローブを翻して、魔道師が管轄する建物の回廊を幾つも曲がる。
時折、若い魔道師たちとすれ違うと、彼らはうやうやしい仕草でゲラルドに向かって礼を取る。その都度、ゲラルドは女性がこの区画内に入ってきていないか鋭い目を向ける。
主にかけられた呪いは非常に厄介なもので、それはルーファスの心身を蝕むだけではない。
ありとあらゆる女性に拒否反応が起きるような悪意に満ちた代物であったのだ。
女性が近づくだけで魔道師長様の体調はさらに地に落ちる。
考えてみれば主はその卓越した魔術の技量だけでなく、その美しさからも沢山の令嬢たちからも愁眉のこもった視線を送られてきた。ルーファスは世俗的なことに全く興味がないようで、そんな彼女たちを冷たく一蹴し続けてきたが、その恋慕が募り募ってルーファス様を呪ったか、それとも誰かが彼の才能に嫉妬をしたのか。
魔道師界の頂点に君臨する彼を呪えるほど、犯人がかなりの手練れであるのは間違いない。しかも、この呪いをかけた者はルーファスに対してにかなり屈折した悪意を持っていたはずだ。
そんなことを思いつつも、魔道師塔の区画で働く全ての人の中に全く女性がいないことを確認して、ゲラルドはひとつ、安堵のため息をついた。主を苦しめる要因は一つでも少ないほうがいいからだ。
そうして魔道師長の執務室まで来ると、いったん止まり、扉を軽くノックする。
「はいれ」
低くかすれた声がドア越しに聞こえる。その声色だけでも彼がすでに地獄に落ちていることがはっきりと分かる。
天才魔道師が魔力を全く使えなくなってしまっただけではない。眠ることも食べることもできずに日がな一日魂と肉体を蝕む苦痛を伴う強烈な呪いだ。
その苦しみを和らげる方法を宮廷副魔道師長であるゲラルドは知らない。もし、その方法があるとしたら、彼は己の命すら投げ出しているだろう。
扉をあけた視線の先には大きな魔道師長のデスクがありその後ろには本棚がある。古今東西から集めた魔術関係の書物が床から天井にまでびっしりと並んでいる。
そのデスクの前で、魔道師長ルーファスは机の上で肘をついて頭を抱えており、いかにも苦しそうな呼吸をしていた。周囲には飲み散らかしたであろう鎮痛剤の瓶が至る所に転がっており、どの薬もルーファスの苦痛すら軽減できていないことが一目瞭然だった。
「鎮痛剤をお持ちしました。ルーファス様」
無言で彼を見上げたルーファスの目は真っ赤に血走っている。もう何日も眠れていないのだろう。
見るも無残にやつれはてた主の姿を見て、ゲラルドの心は重く沈む。
「…ああ、ゲラルドか。ありがとう」
そういって伸ばした手もやせ細り、彼の命はもしかしたら長くないのではないか、そんな不吉な予感すら頭をよぎる。
ありとあらゆる薬草、治癒薬を試してみたが、どれも効果がなかった。
たった今、ゲラルドが持ってきた鎮痛剤、そして最後の頼みの綱であるポーション。
主を救えるかもしれない薬の存在を知り、直々に遠方の教会にまで出向いて入手したものだった。
「ルーファス様、こちらが鎮痛薬です」
主に差し出すと、彼はすぐさまそれを手に取り、ごくごくと飲み干す。
「なんとひどい味だな。しかし、全く効く気配がない」
失望と落胆のこもった声でルーファスが呟く。
ゲラルドはパン粥と果物もテーブルの上にことりと置いた。
「ルーファス様、ポーションばかりではなく、きちんとお食事もとられませんと」
「そんなもの、役に立つ訳がない。食べ物などいらん」
苛立ったように声を上げるルーファスに、ゲラルドの心配は加速する。
「しかし!」
「いらんものはいらん!」
なんとしてでもこの主の苦しみを少しでも和らげたい。ゲラルドは懐からもう一つのポーションを取り出し主の前に差し出した。ありとあらゆる手は尽くした。このポーションだけが最後の頼みの綱だった。
「ルーファス様、こちらは東方の教会から入手したポーションです。なんでも天界の調合がなされているということで、呪いの解除まではできませんが苦痛を和らげる効果はあるそうです」
「なぜ天界のポーションを持ってきた?」
ルーファスの眉が怪訝そうに顰められる。
天界とは人間界とは異なる種族である天族がいる場所である。
滅多に人とはかかわらない天族のポーションが、いかに貴重なものであるかはルーファスも知っていた。
そんなものをどうやってゲラルドが入手してきたのだろう。
「ルーファス様、実は教会で耳にしたのですが」
「なんだ」
「天界と魔界の乙女がこの世界にいて、その者がルーファス様の呪いを癒せると聞きました。もしそれが本当でしたら天界に係わる者の調合が効くのではないかと思いまして」
ルーファスは口元に皮肉な笑みを浮かべる。そんな呪いの解除方法など聞いたこともない。
「いや、そんなものは必要ない。この私がこの身にかかった呪い一つ解けずにどうするというんだ」
呪いにより魔力を封じられた今、主が己の呪いを解除することは不可能だということはわかっているだろうに。ゲラルドは懇願するように口を開く。
「お願いです。このポーションを一口だけでもいいのでお飲みください。呪いを解くことはできないけれど苦痛を和らげる効果はあるそうです」
彼の必死の願いが通じたのだろうか。
ルーファスは気乗りしない仕草でそのポーションを手に取りしげしげとそれを見つめた。
蓋を開けると、鼻を近づけその香りを嗅ぐ。
バニラのような甘い香りの中に香辛料のようなピリリとした刺激。しかし、その香りは全く不快ではなかった。
「香りは悪くない。これはなんだろう」
「中身は秘密だということで教えてはもらえませんでしたが、信頼に足る人物から入手したことは確かです。この私が直々に確認しましたから」
「そうか」
意を固めたルーファスはおもむろにポーションを傾け、ぐびぐびと喉に流し込む。
毒食らわば皿まで。
得体の知れないポーションではあるが、飲んでも飲まなくても結果は同じだ。
そう思えるほどルーファスは追いつめられていた。
ポーションを飲み干してみると思ったほど味はひどくはなかった。むしろ喉から胃に流れていく薬液は柔らかな感じで、むかむかする胃を優しく包み込むようだ。
「いかがですか?」
心配そうに見つめる副魔道師長にルーファスは驚いたように口を開く。
「…なんとなく効いている感じがする」
「本当ですか?」
ゲラルドの声が思わず弾む。
今までどのポーションを試しても全く効果が表れず、時によってはひたすら症状が悪化したこともあった。それなのに天界に係わる者が調合したというポーションで初めてまともな効果が出たのだ。
「ああ、苦痛が少し楽になってきたやもしれん」
ルーファスがそう言って立ち上がろうとした瞬間、彼が昏倒しそうになったことをゲラルドは素早く察知した。
「大丈夫ですか?」
ゲラルドは彼の肩を抱きかかえそうっと顔を覗き込む。気のせいだろうか、土気色だった主の頬に少し赤みがさしてきたような感じがする。
「ああ、すまない。なんだか急に眠くなってきたのだ」
「何日もお眠りになられていないのです。苦痛が軽減された反動でしょう」
本当にこのポーションが効いたとしか思えなかった。
「今、寝台にまでお連れします」
その時、聞こえるはずのない教会の鐘の音がルーファスの耳元で響く。
「ゲラルド、教会の鐘の音が聞こえないか?」
「はて、私には何の音も聞こえませんが」
強い睡魔に襲われて、途切れ途切れの意識の狭間でルーファスはぼんやりと考える。
本当に自分の身にかかった呪いを解除できる人間がいるのだろうか。
ルーファスは無神論者だ。信じられるのは己の魔力のみ。神がいるなどということは考えたことがなかったが、薄れていく意識の中でふとある言葉が脳裏に浮かんだ。いや、幻聴が聞こえたというべきだろうか。
── 旅に出よ。天界と魔界の乙女を探せ。さらばそなたの苦悩は癒えるであろう。
天界と魔界の乙女─それは一体何を意味するのだろう。
具体的に何をどうすればいいのかはわからなかったが、自分は旅にでるべきだと直感が告げていた。
しばらくは魔塔を離れていても大丈夫だ。ルーファスには信頼できる部下たちが何人もいたからだ。
そうだ、すぐにゲラルドに旅立ちの準備をしてもらおう。そうできるだけ早く。できれば明日にでも─
そう思った所でルーファスはがっくりと頭を落として意識を失った。
「ルーファス様!」
ゲラルドはよりしっかりと彼の肩を抱きかかえながら寝台まで連れて行く。
なんとか彼を横にならせた後、主の顔を見てはっと驚いたようにつぶやいた。
「なんと…ルーファス様が‥眠っておられる」
先ほどのポーションが効いたのだろうか。ルーファスは口元に薄い微笑みを浮かべながら眠っていたのだ。
この世界は主に三つの世界から成り立つ。天界と人間界、そして魔界。
人間界と天界はごく稀に接触することがあるが、人間界は魔界とは一切関わり合いがなかったはずだ。
天界と魔界の乙女。それがこの人間界にいる。
果たしてそれが真実なのかどうか、ゲラルドにもその答えはわからなかった。




