【解説】押されて、土俵を変えて、勝った ――第七十八話〜第八十話、会談をわかりやすく読む
第七十八話から第八十話にかけて描かれる、糸子と松下村塾の会談。
これを一言でまとめるなら、「十二歳の姫が、久坂玄瑞と高杉晋作を交渉術で完膚なきまでに打ち負かした」……という話ではない。
むしろ、前半はかなり逆だ。
糸子は、久坂と高杉に押されている。
ここを見落とすと、第八十話の大逆転が分かりにくくなる。
この会談は、大きく三段階に分けて読むと非常に分かりやすい。
久坂に論理で詰められる
高杉に言葉の隙を突かれる
とうとう限界が来て、糸子が会談そのものの土俵を変える
そして最後に、二人を自分の側へ引き込む。
順番に見ていこう。
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【まず、会談が始まった時点では糸子が強い】
舞台は冬の朝、一橋上屋敷の奥御殿。
御簾の向こうに糸子。
その前に松下村塾の二十三名。
刀は玄関で預けさせ、四隅には旭狼衛が立っている。
普通に考えれば、糸子のほうが圧倒的に有利だ。
ところが、会談が始まると様子が変わる。
久坂玄瑞が、かなり踏み込んだ質問を次々に投げてくるからだ。
しかも、ただの質問ではない。
「お前は何を考えている?」
では終わらない。
正当性。
覚悟。
戦略。
人を使う責任。
そして最後には、「独りで泣きたい時は、どこで泣かれるんかね」まで来る。
つまり久坂は、糸子の政策ではなく、その政策を動かしている本人そのものを掘りに来ている。
ここが第一局面だ。
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【第一局面――久坂には「守る」ことで対応する】
このとき糸子がやっていることは、意外と地味だ。
派手に論破しているわけではない。
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① 護衛を下げる
久坂の問い方は、かなり無礼だ。
普通なら、護衛に止めさせてもおかしくない。
ところが糸子は、「近藤、控えよ」と言う。
そして、「面白い問いじゃ。続けよ」と続ける。
これ、何をしているのか。
単純に「寛大な姫君」を演じているだけではない。
自分が力を持っていることを見せたうえで、その力を使わないと決めている。
これによって、「久坂が姫に無礼を働いている」という構図が、「姫が久坂に質問を許している」という構図に変わる。
会談のルールを決める側に回っているわけだ。
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② 弱点を、自分から認める
次に面白いのが、近衛家についての話。
糸子は、「近衛家の御威勢は、当然、増す。これも、事実じゃ」と認める。
ここで否定しない。
「そんなことはありません」と言えば、久坂からさらに突かれる。
だから先に認めてしまう。
しかも、そのうえで、「副産物じゃ」と返す。
つまり、「その結果が生じることは分かっています。でも、それが目的ではありません」という形にする。
相手が攻撃材料にする前に、自分から出してしまうわけだ。
心理学や説得研究では、反対意見にも触れたうえで自分の主張を示す「両面提示」という考え方がある。
ただ、この場面を難しく考える必要はない。
要するに、「そこは弱点ですよね?」と突かれる前に、「はい、弱点です。でも、それを承知でやっています」と言ってしまった…ということだ。
これだけでも、相手は攻めにくくなる。
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③ 「覚悟はできています」と言わない
そして、この会談でかなり重要なのがここ。
久坂に覚悟を問われて、糸子は、「その覚悟は、まだ、わたくしの中で完全には固まっておらぬ」と答える。
ここ、格好よく見せようと思えばいくらでも見せられる場面だ。
「すべて覚悟しております」と言ってしまえばいい。
でも、糸子は言わない。
本当に固まっていないから、固まっていないと言う。
そして、ここで久坂が初めて揺れる。
なぜか。
それまでの糸子は、政策も考えているし、相手の利害も理解している。
だから久坂からすると、「この姫は、全部分かったうえで動いている」ように見えていた。
そこに突然、「いや、まだ分からない」が入る。
この落差が効く。
心理学には、能力の高い人物が小さな失敗や弱さを見せることで、かえって親しみや魅力を感じさせる「しくじり効果」と呼ばれる現象がある。
もちろん、糸子がこれを計算していたとは書かれていない。
むしろ本文を見る限り、そんな余裕はない。
ただ結果として、「完璧な姫」ではなく「本当に悩んでいる十二歳の少女」という姿が見えた。
これが久坂の揺れにつながっている。
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④ 三者を「同じ考え」にしようとしない
さらに、久坂が三者をどう動かすのかと問う。
ここで糸子は、「三者は、合わぬ。ならば、合わせようとせぬ」と言う。
これも非常に分かりやすい。
幕府。
雄藩。
朝廷。
それぞれ欲しいものが違う。
ならば、「みんな同じ目的を持ちましょう」ではなく、「それぞれが欲しいものを取れるようにすれば、結果として同じ方向に動く」と考える。
幕府には朝廷の権威。
雄藩には貿易による富。
朝廷には祭祀の復興。
目的は違っていい。
目的を一致させるのではなく、利害を噛み合わせる。
これは交渉論でいう「立場ではなく利害を見る」という考え方に近い。
「何を要求しているか」ではなく、「なぜ、それを欲しがっているのか」を見るわけだ。
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【それでも、久坂の最後の一撃は通る】
ここが大事。
ここまで読んで、「糸子、久坂を完全に攻略したじゃん」と思ってはいけない。
まだ久坂が勝っている部分がある。
最後に久坂が聞いた、「独りで泣きたい時は、どこで泣かれるんかね」という問い。
これに糸子は、「お主の問い……答えられぬ」と答える。
これは交渉術でかわしたわけではない。
本当に答えられなかった。
つまり第七十八話の時点では、糸子は久坂を論破していない。
むしろ、最後まで追い込まれている。
この「答えられなかった」が、次の高杉につながっていく。
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【第二局面――高杉は、論理ではなく「言葉の隙」を狙う】
第七十九話になると、高杉晋作が出てくる。
ここで攻め方が変わる。
久坂は、「お前の理屈はどうなっている?」と詰めてきた。
高杉は違う。
「今、その言葉を言ったよな?」という感じで、言葉の端を拾ってくる。
本文でも糸子自身が、「久坂は、言葉の中身を、論理で詰めた。高杉は、言葉の端々を、感覚で、掴んでくる」と感じている。
この違いが面白い。
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① 「幸せですか?」に、予想外の答えを返す
高杉の質問は、「姫君様は、今、幸せに、ござりまするか」だった。
ここで糸子が返したのが、「京に帰れば、一番幸せじゃ」という答え。
高杉は「答えを持たぬ」と返されると思っていた。
ところが、答えが返ってきた。
これだけで、高杉の次の一手がずれる。
交渉では、相手の論理を打ち負かすことだけが重要ではない。
相手が「こう返してくるだろう」と予想しているところから外れることも、かなり強い。
糸子はここで、高杉の予想を外している。
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② 沈黙に、後から意味を与える
さらに、「沈黙は、答えを持たぬ時にする、とは、限らぬ。答えが、多すぎる時も、する」という言葉が出てくる。
ただ、実際の糸子の内心を見ると、「あほらしくなった」とか、「父上のことを思い出していた」という話だったりする。
つまり、最初から「深い沈黙を演出してやろう」と考えていたわけではない。
でも、沈黙した後に、「こういう意味だったんです」と説明することはできる。
これは、この会談の糸子を理解するうえで大事なポイントだと思う。
全部が最初から計算されているわけではない。
その場で起きたことを、後から使える形にしている。
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③ 高杉を褒めながら、自分の行動を縛る
さらに、「お主は、嘘を見抜くゆえ、嘘はつかぬ」という言葉。
これも一見すると、ただ高杉を褒めているだけに見える。
でも、よく考えると二重になっている。
「あなたは嘘を見抜ける人間だ」と言いながら、「だから、あなたには嘘をつかない」という関係まで作っている。
高杉からすれば、「そこまで俺を信用するのか?」となる。
実際、高杉の内心も、「ぶち、おそろしい」から、「いや、逆におもしろいのう」へ変わっていく。
つまり糸子は、高杉を警戒させながら、同時に興味も持たせている。
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④ 「今は教えない」を、約束にしてしまう
計画の先を問われたときも同じだ。
糸子は、「今は答えぬ」と言う。
さらに、「お主らが、まだ、聞く器に至っておらぬ」と続ける。
これ、普通に言えば「教えません」で終わる。
でも、この言い方だと、「今は教えない。でも、いつか教える可能性はある」という形になる。
だから高杉は、「これは――約束にござりまする」と受け取る。
糸子は「約束した」と明言していない。
なのに高杉は、約束として受け取った。
このあたりには、「手に入りにくいものほど欲しくなる」という希少性の心理や、途中で中断されたものほど記憶に残りやすいというツァイガルニク効果に似た働きを見ることができる。
ただし、ここも「糸子が心理学を完全に理解して使っている」とまでは考えないほうがいい。
作中で起きている現象に、後から心理学的な名前を付けるなら、こう説明できる、という程度だ。
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【それでも、高杉にも糸子を崩した場面がある】
ここも忘れてはいけない。
糸子は第七十九話でも、完全無欠ではない。
例えば、「吉田殿は、嘘を見抜かぬゆえ、嘘はつかぬ」と言い間違えてしまう。
高杉に突っ込まれて、「見抜かれるから」と言い直す。
さらに高杉を、「そなた」と呼んでしまい、「言い間違いじゃ。おぬしじゃ、お主」と慌てて訂正する。
しかも本文には、そのとき糸子の指が「焦ったように、動いた」とある。
つまり、わざわざ、「今の糸子、焦ってますよ」と地の文で教えてくれている。
ここはかなり重要だ。
糸子は、ずっと余裕だったわけではない。
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【そして、とうとう糸子が限界になる】
久坂が戻ってきて、高杉と二人で糸子を挟む。
ここで糸子の内心が、「真面目に答える気力が、もうありませーん」になる。
そして、「……仕方ない。特大爆弾、落とそう」と続く。
ここから「ぐすん」が始まる。
いわゆる嘘泣きだ。
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【嘘泣きは、「交渉術」なのか?】
ここは少し違う。
もちろん、結果だけ見れば非常に効果的だ。
話題を強制的にリセットできる。
泣いている少女を、二十人以上の前でさらに追及するのは難しい。
そして糸子自身も、次の一手を考える時間を得られる。
だから、ものすごく役に立っている。
でも、「糸子が巧妙な交渉術として嘘泣きを選択した」と読むと、本文の面白さが少し減る。
なぜなら、その直前の内心に、「真面目に答える気力が、もうありませーん」と書いてあるからだ。
これはつまり、押し切られそうになったので、一回逃げたのである。
泣いて勝ったわけではない。
泣いて、会談をいったん止めた。
その結果、次のターンを作ることができた。
しかも、この手が成立するのは、その場にいる全員が「泣いている少女を追い詰めるのはまずい」という感覚を持っているからだ。
だから、これは「心理テクニック」というより、その場にある規範を利用した力の行使と考えたほうが近い。
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【第八十話――ここで初めて、糸子が土俵を変える】
そして第八十話。
ここからが本当の逆転だ。
泣き止んだ糸子が、「ご愛敬でございます」と言った瞬間、空気が変わる。
内心も、「こいつらに、現実というものを見せつけてやろう」「ぺしゃんこにしてくれる」へ変わる。
ここから糸子は、質問に答える側ではなくなる。
自分から話題を出す側になる。
これを私は「土俵を変える」と読む。
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① 「私には力があります」と見せる
まず、「御門様に泣きついて、言い方ひとつで長州を終わらせることもできるのだぞ」と言う。
さらに刺客の話を出し、旭狼衛が無言で頷く。
ここで重要なのは、「糸子が怖いと言っている」だけではない。
第三者が裏付ける。
つまり、「本当にそういう力を持っているんだ」と相手に認識させる。
ここで会談の問題が変わる。
それまでは、「この姫は何を考えている?」だった。
ここからは、「この姫は、実際に何ができる?」になる。
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② 地図を出して、「知らない」という事実を見せる
次に世界地図。
印度。
安南。
朝鮮半島。
清国。
松下村塾の面々が見たことのない精度の地図が広げられる。
ここで糸子は、武力だけで勝負しているわけではない。
知識の差を、目に見える形にした。
これが大きい。
相手は、
「自分たちが知らない情報を、この姫は知っている」という事実を目の前で見せつけられる。
すると、自然に力関係が変わる。
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③ 「幕府対長州」という話をやめる
さらに糸子は、代理戦争の話を持ち出す。
それまで彼らが考えていたのは、幕府対諸藩。
つまり、日本の中で誰が主導権を取るかという話だった。
糸子はそこに、日本対異国という別の対立軸を持ち込む。
武器。
恩。
人。
混乱。
これらを示して、「戦って得をするのは異国だ」と説明する。
これはかなり大きな方向転換だ。
「お前たちの考えは間違っている」ではない。
「お前たちが戦おうとしている相手を、もう一度考えてみろ」と言っている。
つまり、敵そのものを置き換えている。
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④ 相手の志を否定しない
ここで高杉が、「それでも、戦わにゃならん時はある」と食い下がる。
このとき糸子は、「そんな考えは間違いだ」とは言わない。
まず、「――分かっておる」と言う。
そして、「お主らが命を懸けておるものが、軽いものではないことくらい」と続ける。
さらに、「日本は違う」という言葉にも、「その通りでございます、日本は違いまする」と一度受ける。
そのうえで、「違う。だからこそ――選び方を誤れば、清国よりもっと酷くもなりましょう」と向きを変える。
これが巧い。
相手の志を潰していない。
志はそのまま認めて、行動の方向だけを変えようとしている。
交渉論でいう「交渉柔術」に近い考え方。
相手の力を真正面から受け止めて、押し返すのではなく、別の方向へ流す。
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⑤ 「覚悟」ではなく「実績」の勝負にする
そして最後に、糸子は勝負する場所そのものを変える。
「そのような貴殿たちは、今何をしておる?」
これに誰も答えられない。
ここまで二人が語っていたのは、
志。
覚悟。
命。
だった。
ところが糸子は、そこに実績を持ち込む。
条約の三条項。
万次郎の派遣。
惣会所。
語学所。
教科書五巻。
浮世絵の輸出。
志士の地図。
つまり、「どれだけ覚悟しているか」ではなく、「実際に何を成し遂げたか」で比べ始める。
これはかなり強い。
なぜなら、久坂や高杉がどれだけ熱く語っても、今この場では「これまでに何をしたか」という比較になるからだ。
そして最後に、とどめを刺す。
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【「十二歳」は、最後だから効く】
「――ちなみに。わたくしはこれを、十二歳という年でやっておるぞ?」
ここで久坂が気絶し、高杉もまともに支えられなくなる。
でも、この台詞は最初に言っていたら、ここまで効かなかったと思う。
最初に、「わたくしは十二歳です」と言えば、「十二歳にしては大したものだ」で終わる。
ところが糸子は、実績を全部並べた後に、「しかも十二歳です」と言う。
だから、それまでの実績が全部、「十二歳の少女がやったこと」として再評価される。
同じ情報でも、出す順番でインパクトが変わる。
この会談の巧さは、ここにかなり出ている。
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【糸子は「権力」だけで勝ったわけではない】
ここまでの流れを整理すると、糸子はいろいろな種類の力を使っている。
心理学者のフレンチとレイヴンが1959年に整理した「勢力の五つの基盤」という考え方に当てはめると、かなり面白い。
近衛家の家格や綸旨は、「正当な権威」。
地図や国際情勢についての知識は、「専門的な力」。
御門様に訴えるという脅しは、「強制する力」。
「面白い仕事は回してやろう」は、「報酬の力」。
そして高杉に「自分と同じような人間だ」と感じさせる部分には、「同一視される力」がある。
つまり糸子は、「私は偉いんだから従え」だけで押しているわけではない。
権威。
知識。
脅威。
報酬。
共感。
これらを重ねている。
だから強い。
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【最後は、高杉自身に条件を出させる】
ここまで来ると、高杉のほうから、「面白い仕事を、わしに回してつかあさい」と言い出す。
ここが非常に面白い。
最初は糸子を問い詰めていた高杉が、最後には、「仕事をください」と言っている。
ただし糸子も、そのまま受けるだけではない。
「面白い仕事は、お主の言う通りに回してやろう」と認めたうえで、「休みなく死んでしまうくらいに、使い倒してやる」と付け足す。
相手の要求を受け入れながら、自分の条件を重ねる。
これで、主導権は糸子側に残る。
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【さらに松陰まで巻き込む】
そして最後。
書状による脅しは取り下げない。
松陰が懇願すると、「『少し』考えてもよい」と言う。
完全に許すわけではない。
条件をつける。
晋作と玄瑞を寝食を忘れて働かせること。
そして、その二人について松陰自身が責任を持つこと。
松陰は、「命に賭けて」と約束する。
これで糸子は、自分で二人を監視する必要がなくなった。
松陰を管理役にしたからだ。
葵の内心にある、「二度の労なく、三人を確保された」という感想は、まさにそこを指している。
久坂。
高杉。
松陰。
三人まとめて、自分の条件の中に入れてしまった。
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【しかも、脅しは本当に消えていない】
ここも最後まで見ると面白い。
夕刻、糸子は本当に書状を書き始める。
「『少し』考えました。……で結論は報告です。書かないとは言っていないので、嘘はついておりません」
これ、完全に第七十九話の続きになっている。
糸子は「嘘をついていない」。
でも、相手が受け取る印象は別だ。
こうした「事実だけを述べながら、相手に誤った印象を与える」やり方は、交渉研究でも扱われている。
2017年の研究(※1)では、このような行為は、やっている本人には「嘘ではない」と認識されやすい一方、相手からはかなり不誠実な行為として受け取られうることが示されている。
つまり、「嘘をついていないから大丈夫」ではない。
相手からどう受け取られるかは別問題だ。
作中でも、土方の内心は、
「このお方を、敵に回せば……恐ろしい限りだ」
となっている。
「見事な交渉だった」と感心しているわけではない。
ここは、作品としてかなり重要なところだと思う。
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【この会談を「交渉術」だけで読むと、少しもったいない】
ここまで整理すると、「糸子、ものすごい交渉術を使ってるな」と思う。
実際、それは間違いではない。
ただ、本文を読むと、もっと面白い。
なぜなら糸子自身は、そんなに余裕がないからだ。
内心を見ると、
「はぁー、疲れた」
「甘味を、食いたい」
「京に、帰りたい」
なのである。
そして、明確に「狙ってやった」と言えることも、実はそれほど多くない。
嘘泣きをした。
第八十話で反転した。
「京でのんびり暮らす」と言った。
このあたりは明確に意図している。
でも、「そなた」と呼んでしまって焦る。「見抜かぬ」と言い間違える。答えられない質問には、本当に答えられない。
つまり、最初から全部を計算していた完璧な策士ではない。
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【この三話の本当の面白さ】
だから、この会談は、
「糸子が二人を鮮やかな交渉術で倒した話」
というより、
「二人に押し込まれた十二歳の少女が、最後に自分の勝てる場所を作って逆転した話」
として読むと、かなり分かりやすい。
第七十八話では、久坂に詰められる。
第七十九話では、高杉に言葉の端を拾われる。
そして、とうとう疲れる。
泣いて、一度逃げる。
そこから第八十話。
力を見せる。
知識を見せる。
相手の志を認める。
対立する相手を置き換える。
覚悟ではなく実績で比べる。
最後に「十二歳」を出す。
そして、二人に仕事をさせ、松陰に責任まで負わせる。
この流れを見ると、会談の構造がよく分かる。
押された。
逃げた。
土俵を変えた。
そこで勝った。
この順番なのだ。
そして、ここがこの三話の一番好きなところでもある。
もし糸子が最初から最後まで完璧だったら、単なる「天才少女の無双」になってしまう。
でも実際には、言い間違えるし、焦るし、答えられないし、最後には、
「甘味を、食いたい」と思っている。
それでも、追い込まれたところから立て直す。
だから第八十話の「十二歳」が効く。
天才だから勝ったのではなく、押された後でも勝てる場所を作ったから勝った。
そこまで含めて読むと、この会談はかなり面白いと思う。
(※1)
ハーバード大学ケネディ・スクールの行動科学者トッド・ロジャースらは、2016年末にオンライン先行公開し、2017年3月に『Journal of Personality and Social Psychology』へ掲載した論文で、「真実を述べながら相手に誤った印象を与える」行為を「パルタリング」と名づけ、その特徴を調べている。2つの予備研究と6つの実験を通じて、パルタリングは交渉で実際に使われる欺瞞の一形態であり、発言した本人と、それを受け取った相手との間で「自分は嘘をついていない」「いや、誤解させられた」という認識のずれが生じうることを示した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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