【解説】相場師をアメリカへ送り込めば、富は奪えたか――幕末のIFを本気で算盤にかけてみた
感想欄で、ときどきこんな問いをいただきます。
アメリカに相場師を送り込むなり何なりして、逆にアメリカの富を奪えないのか。開国でさんざん金を持っていかれたのだから、今度はこちらの番だろう。
気持ちは痛いほど分かります。実は私も、本作の設計をしていたころに一度、本気でそろばんを弾きました。
答えは「無理」でした。
ただ、なぜ無理なのかを一つずつ拾っていくと、幕末の日本が世界の中でどんな位置にいたのかが、妙にくっきり見えてきます。今日はその話をします。少し長くなります。
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まず、「奪う」とはどういうことかを決めておきます。ここが曖昧だと、話がすぐに「儲かるかどうか」にすり替わってしまうので。
アメリカが失い、その分を日本が得る。これが「奪う」です。互いに得をする商売は、どれだけ儲かってもここには入りません。
この物差しで測ると、開港直後の金の流出は、紛れもなく「奪われた」話です。
当時、金と銀の交換比率は、欧米で金一に対し銀十五ほど。日本では五ほどでした。外国の商人はメキシコドル銀貨を横浜へ持ち込み、一分銀に替え、それで小判を買って海の向こうで売りました。研究者の整理によれば、20ドル金貨と同じ重さの金は、金同士で比べれば2.93両分。
それが銀貨と一分銀を通すと、15.55両分の扱いになったといいます。同じ金が、通り道を変えるだけで五倍を超える値段に化ける。流れ出た金は10万両とも、50万両とも言われ、幕府が万延元年(1860)に小判の金を減らす改鋳に踏み切るまで、止まりませんでした。
ここで注目してほしいのは、外国の商人の手元に三つのものが揃っていたことです。条約のおかげで横浜へ堪々と来られた。銀を持ち込んで両替えできた。そして、日本の貨幣制度に大きな穴が開いていた。
行けること。動かせること。穴があること。「奪う」には、この三つが要ります。では、幕末の日本からアメリカへ向かうとき、この三つは揃うでしょうか。
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いちばんよくいただく案から試してみます。腕のいい相場師を、アメリカの相場へ送り込む。
当時のアメリカには、賭場には事欠きませんでした。ニューヨークのウォール街では鉄道株が飛び交い、シカゴでは1848年にできた商品取引所で穀物が売り買いされている。堂島の米相場を渡り歩いてきた相場師なら、仕組み自体はすぐ飲み込めるはずです。そこは疑っていません。
ところが、一つ目の「行ける」で、いきなり身動きが取れなくなります。
日本人が海を渡ることは、寛永年間からずっと禁じられていました。幕府が商人や学生の渡航を許したのは、慶応2年(1866)になってからです。それまでにアメリカを踏んだ日本人は、幕府の使節とその供回り、あとは命がけの密航者くらいのもの。日本が初めてアメリカに外交官を置くのは、明治3年(1870)に森有礼が任命されてからです。相場師が様子を見に行くことさえ、国法を破らないと叶いません。
小説ですから、ここは何とか理屈をつけて越えたことにしましょう。問題は、着いてからです。
二つ目の「動かせる」。ニューヨークに降り立った日本人には、英語がありません。合衆国の法律も知らない。口を利いてくれる知り合いも、金を預けてくれる銀行もない。取引所は仲間内で回っていて、シカゴが1865年に先物取引を整えたときも、売り買いできるのは会員だけでした。堂島でも、よそ者がいきなり場に立って米を動かせたわけではないはずです。相場の腕というのは、だいたい信用と人脈の上に乗っています。
しかも江戸との連絡がつかない。太平洋を横切る定期汽船がサンフランシスコと横浜を結ぶのは1867年の元旦で、海底に電信の線が通るのはなんと1903年です。それまでの手紙は、上海や香港へ回してイギリスやフランスの郵便船に託すしかありません。「あの株を売れ」と書いた手紙が届くころには、相場はとっくに別の顔をしている。判断は現地の番頭に丸投げするしかなく、その番頭が、先ほどの言葉も人脈もない男なわけです。
そして元手。私はここが一番重いと考えています。
先ほどの「20ドル=2.93両」から割り戻すと、改鋳前の小判一両はおよそ6.8ドル。大雑把な目安ですが、これで数えると、開港で流れ出た金を30万両と見ても200万ドルと少しです。対するアメリカは、たとえば連邦政府の借金だけを取っても、1860年の6,500万ドルほどから1865年には27億ドルに膨らんでいます。それだけの金が動く国の相場に、日本が失った金をそっくり取り戻して全部張ったとしても、千分の一にも届きません。大きな水槽に匙で一杯水を足しても、水位は動かないのです。
元手が小さいなら仕掛けで補う、というのが相場師の発想です。品薄なところを買い占めて、値段を思いのままにする。けれども、これを実際にやってのけた地元の大物たちがどうなったか。鉄道王ジェイ・グールドと相棒のジェイムズ・フィスクは、1869年、政府の内側にまで手を回して金を買い上げました。結末は、財務省が手持ちの金を市場へ放出して相場が崩れ、「ブラック・フライデー」という名前だけが残った。
つまり三つ目の「穴がある」も、アメリカの側にはないのです。幕末の日本には、貨幣制度そのものに穴がありました。アメリカの相場にあるのは、地元の強者同士の殴り合いと、いざとなれば割って入る政府です。地元の大物ですら負けた土俵に、言葉も仲間もなく、太平洋の向こうから指示を待つ日本人が上がって勝てるとは、ちょっと思えません。
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相場師を送る以外にも、いろいろな案をいただきます。順に見ていきましょう。
まずは、やられた手をそのままやり返す案。金銀の比率の差で外国人が儲けたのなら、日本人が同じことをすればいい。
これは、一見もっともそうでいて、いちばん先に崩れます。あの儲けの出どころは、日本の貨幣制度の穴でした。穴は日本の側に開いているのですから、日本の商人がやれば、幕府や国内の金の持ち主からその商人の懐へ金が移るだけ。アメリカは一ドルも失いません。底の抜けた自分の水がめから、自分で水を汲み出しているようなものです。その穴も、万延の改鋳で一年と経たずに塞がれています。
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次によく挙がるのが、南北戦争の混乱に乗じる案です。1861年から四年、アメリカは国を二つに割って戦っていました。これを好機と見るのは自然な発想です。
実際、戦時中のニューヨークは賭場そのものでした。北部の連邦政府は1862年、金と交換できない紙幣を刷り始めます。裏が緑色だったので「グリーンバック」。金とこの紙幣のあいだに相場が立ち、北軍が勝てば紙幣が上がり、負ければ金が上がる。ゲティスバーグの勝利で金が下がったと、新聞が書いているほどです。紙幣が一番安かった1864年の夏には、金100ドル分を買うのに紙幣が250ドル以上要りました。
ただし、ここでも先ほどの壁がそのまま立ちます。戦争は渡航が許される前の年に終わっていますし、戦報で動く相場で、数か月遅れの手紙を頭りにしては勝負になりません。政府の割り込みもありました。1864年には、金の投機に業を煮やした議会が、金の先物取引そのものを法律で禁じています。さすがに半月ほどで取り消されましたが、賭場のルールは胴元の都合で変わるのです。
南部の綿花を狙う手もあります。北軍の海上封鎖で綿花が出てこなくなり、イギリスの綿花の値段は1864年7月、戦前の四倍を超えました。封鎖を破って運び出せば一航海で身代ができる。
ただしその役は、外洋船と海上保険と中継の港を揃えたイギリスの船主たちがとっくに押さえています。日本には外洋を往復できる商船すらない。南部に加担すれば、ペリーを送ってきた合衆国との条約にも傘がつきます。南部連合の債券を買う案に至っては、負ける側に張る賭けで、最後は紙屑です。
それでも、結末を知っている転生者なら勝てる賭けが一つだけあります。底値の紙幣を買って、北軍の勝利を待つことです。紙幣は戦争の終わるころには大きく値を戻しています。
けれども、北部の紙幣を買うというのは、北部に金を渡して、代わりに紙を受け取ることです。その金で北軍は兵を食べさせ、弾を買う。やっていることは、北部に戦費を貸して、勝ったあとで利子を受け取るのとほとんど変わりません。儲けは出ます。ただしそれは、アメリカから奪った金ではなく、アメリカの戦争を支えた礼金です。
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貿易で取り返す、という声もあります。幕末の日本には生糸という強い売り物があった。これでアメリカの市場を握れないか。
生糸が幕末に飛ぶように売れたのは本当です。ただ、それはヨーロッパの蚕が病気でばたばた倒れていたからで、買い手は主にイギリスやフランスでした。幕末の貿易の相手はイギリスが一番で、アメリカの割合は南北戦争のあいだにかえって下がっています。日本の生糸がアメリカへ大量に渡るようになるのは、明治に入ってからです。
それに、貿易は本来、売り手も買い手も得をする商売です。高く売れれば結構なことですが、それは「奪う」ではなく「稼ぐ」です。幕末の日本にとっては、むしろこちらのほうがずっと大事な話になるのですが、それは後で触れます。
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最後に、投資。戦後のアメリカは西部へ鉄道を伸ばし、土地が値上がりしていきます。ここに早くから金を入れておけば、という案です。
これは儲かるかもしれません。ただ、アメリカの成長に金を出して分け前をもらうのは、奪うのとはまるで逆の行いです。アメリカは日本の金で線路を敷き、日本はその配当を受け取る。そして、その元手になる金こそ、軍艦も大砲も外国から買うしかない幕末の日本が、喉から手が出るほど欲しがっていた金でした。
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では史実の金は、日本とアメリカのあいだをどちら向きに流れたのか。ここを見ると、話はもう一段ぷっきらぼうになります。
1867年、小野友五郎を頭とする幕府の一行が、軍艦を買い付けにアメリカへ渡りました。通訳には福沢諭吉も加わっています。一行はワシントンの海軍工廠で、南軍がフランスで造らせた鉄甲艦「ストーンウォール」を見つけ、40万ドルで買い取ります。のちに「甲鉄」と呼ばれる艦です。
合衆国の政府がこの艦を手に入れたときに払ったのは、一万六千ドル分の借金の帳消しでした。日本はその二十五倍を支払ったことになります。アメリカから富を奪うどころか、当時の日本は、アメリカが持て余したものに正貨を払う上客だったわけです。
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ここまでの話を、最初の三つに戻してみます。
行けるか。幕末の大半、日本人はそもそも海を渡れませんでした。
動かせるか。言葉も人脈も信用もなく、江戸の指示は数か月遅れで届き、元手は相手の千分の一にも満たない。
穴があるか。穴が開いていたのは、むしろ日本の側でした。
どの案も、この三つのどこかでつまずきます。たいていは二つ三つ同時に。一つを小説の仕掛けで越えても、残りはそこに立ったままなのです。幕末の日本は、奪うには小さすぎ、遠すぎ、そして自分の足元に穴を抱えすぎていました。
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だからといって、何もできないわけではありません。
奪うのが無理なら、奪われないようにすればいい。自分の国の港で二度と金を持ち去られないように、貨幣と為替と代金の決済を自分たちの手に取り戻す。そのうえで、生糸のような売り物で堅実に稼ぐ。地味ですし、読んでいて胸がすくような話でもありません。けれども、そろばんを何度弾き直しても、割に合うのはこちらでした。
南北戦争も、この目で見ると役回りが変わります。大樽けの好機ではなく、黒船を送ってきた国が自分の家の火事で手一杯になる、四年だけの猶予です。糸子が海の向こうの賭場には目もくれず、江戸の屋敷で黙々とそろばんを弾いているのは、そういう理由からです。
海の向こうで大勝ちするより、自分の土俵で負けない。幕末の日本に許されていた勝ち方は、たぶんそれだけでした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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