第十三章 はるかな東 遠い西 6 フィジー島 7 ダバイ 8 マレーシア 9 シンガポール
6 フィジー島
大洋州に住んでいる自然保護家で、やるかたない憤懣の対象を話してくれたもう一人は、フィジー博物館の館長であるファーガス・クルーニーだった。
フィジー島におりた最初の日は、どんな一瞬たりとも眠気に負けてむだにするわけには行かないと思ったものである。飛行機の機中ですごした前夜のほとんどは、手紙やノート書きに費やして眠らずにいたけれど。私が泊まったナディ・ホテルの庭は、かつてケージの中でしか見たことがなかったあざやかな色彩の鳥たちでにぎわっていた。ハナレインコ、セイキヒノマルチョウといった土地の固有種を自分で探すことができてよかった。しかし、ベニスズメ、ブンチョウ、シリアカヒヨドリ、インドハッカといったよそから導入された外来種がのさばって、この土地本来の種類とけんかしていたりするのを見るのはうれしくない。在来種は今のところはまだ分がよかった。しかし、ナウアソリ・ハイランズに向かって車を走らせている時に、巨大な伐採用のトラックと何台もすれ違った。後に会った時に、ファーガスは土着種ががんばっていられるのはいつまでのことだろうかと自問していた。きれいに伐採され、破壊しつくされた地域では、どこでも畑をひっかいて餌を探している家禽や家畜がいた。鳥たちは高い山地の森林など、残された部分に集中せざるを得ない。
サバへ向かう一三〇キロの飛行を経て、ヴィティ・レヴ島の広い熱帯雨林を目にできた時はほっとした。風に面と向かう島の東側に現存している密生した森林である。
ファーガスは、フィジー島でただ一人、保護活動に熱心な鳥学者と見受けられた。一時間をかけてファーガスからくわしい現状説明を受けた後、翌日には現場を案内してもらった。知る人もない蒸し暑いジャングルの小道をとぼとぼとたどる一日だった。この人が何とかして救おうとしている生息環境である。鳥にせよ、他のものたちにせよ、存在を示すような声や物音をほとんど立てないか、聞かれてもごく短いものだった。守られるべき無垢な厳正環境とは、まさにこうしたものだろう。
ファーガス・クルーニーのような人々は、こうした秘密の場所を守ろうとして長いこと戦っている。たとえばアメリカ内務省漁労野生生物局のような強大な組織と比べ、フィジー博物館の持ちうる権威はずっと弱いものだ。しかし、漁労野生生物局の人々でさえ、たちはだかる数々の厚いレンガの壁にむかって、言うなれば、頭をぶつけ続けているのである。
フィジー島では、固有の動植物の消滅の度合いは、他の太平洋の島々と比べれば、まだましな方だった。しかし、クルーニーの言によれば、野生生物の生息環境破壊の激しさに対する人々の無関心さからみると、こうした状態は長くはもたないだろうとのことである。
一九八四年、私の訪問の時から十年を待たずに、クルーニーの「フィジー島の藪地の鳥」が出版された。たいへん必要とされていたフィジー島の鳥のフィールドガイドで、わがニュージーランドの友人であるポーリン・モースの美しいイラストによるものだ。この中で彼は「フィジー島における自然史研究は、いまだに未開地開拓の状態である」と書いている。このことは、かつて図鑑類を探した時に、十分すぎるほどよくわかっていた。当時からこの島の鳥はたいへん興味をひいていたにもかかわらず、土地で唯一の鳥の図鑑と言えば、ロビン・マーサーが一九六六年に著した、博物館の絵画を一四点の白黒写真で示した小さなブックレットのみだった。
フィジーの鳥は、土地の留鳥と渡り途上のものをあわせても一〇〇種に満たないが、七〇年代当時から、はるか遠方のトウィッチャーを何人も確実にひきつけていた。五八種の在来種のうち、なんと二三種もがフィジーの固有種であったからだ。世界をかけめぐるバーダーは、現在でははるかに数が増え、目撃した鳥の最多リストを競う競争の中で、探検していない場所をほとんどなくすまでに至った。まだ見ていない鳥をさがすため、この人たちが特別な生息環境の減少に対して上げている抗議の声は、たいへん効果的なものといえる。
7 ダバイ
遠いへき地であればあるほど、自然愛好者たちがもたらすお金は歓迎される。イギリスの小さなシリ―諸島は、晩秋の数週間、トウィッチャーでぎゅう詰めになる。球根を栽培している人たちは、もはや「バードウォッチャー立入禁止」の立て札を出さなくなった。
ケニヤでははるかにスケールが大きい。六三ヶ所の野生生物保護区には年間七〇万人が訪れ、国家収入のなんと三五パーセントを提供するとともに、地域の人々をも潤している。もっと北の乾燥地帯、トゥルカナ湖の砂漠化した岸辺では、探鳥、ワニの観察、釣りがたいへん盛んで、胸づき豊かな若い母親は、よくふとった乳飲み子といっしょに写真を撮られるたびに、シリング貨を獲得している。わずか一二〇キロ北方は、戦争に引き裂かれた貧しいスーダンの一部であり、何千人もの人が飢えに苦しめられているのだが。
新興でがんばっている自然保護家の圧力をよそに、人類が増殖するとともに地球上の資源は消滅の速度をはやめている。熱帯諸国ではことに著しい。自然が大気を浄化するためにデザインした環境と言うべき熱帯雨林は、皮肉なことに、目先の利益のために伐採されている。熱帯雨林の皆伐は、一〇〇万年の長きにわたった自然のメカニズムを破壊するものだ。林床にあった肥沃な土壌の薄い層は、畑作と、樹木という緩衝物を失った雨のために消失し、洗い流された土はシルトとなって河口に堆積する。野生生物の隠れ場になる残された森林は、ますます少なくなってゆく。
隠れ場がなくなった状態の極致とも言うべき場所を、ダバイのまわりで見たことがある。東アングリア人の旧友であるスティーブ・デクスターと奥さんのジャンは、この土地にペルシャ湾の石油事業の基地をおいていた。海岸の浅い湖では、たくさんの鳥が餌をとっていた。こうした湖は、渡り鳥にとって、いわば敵地の真ん中にあるオアシスで、長いこと生命のみなもとになっている。しかし、まったいらに広がる地平線には、工業開発のための巨大な重機のシルエットが空に浮き出し、湖をせっせと埋め立てていた。浜辺のまわりには、娯楽のために撃たれたカモメやアジサシの死体が横たわっていた。
スティーブのジープで砂漠の探検に出た時には、こんな不毛な土地にどんな生きものが生活し得るかをみることができてすばらしかった。私たちは、何羽ものセイカ―ハヤブサがくいにつながれ、ビロードでおおわれた止まり木に止まっているところに行き合って車を停めた。どこからも何マイルも離れたところに作られた、巨大な真新しい宮殿の前である。偉大な鳥たちのうちの何羽かはフードをかぶせられ、何羽かは鶏を食べているところだった。一羽はこともあろうに、フサエリショウノガンの残骸を食べていた。アラビア人の鷹匠によれば、貧弱な獲物しか獲れなかった狩りから戻ったばかりだそうだ。フサエリショウノガンは、アラビアではもう生息していないものと考えられている。
翌週、鷹匠の雇い主は鳥たちを引き連れ、二〇台のランドローバーでパキスタンに向かった。そこでは、ノガンはまだ殺戮されつくしてはいない。
8 マレー半島
一九八二年になって、世界をかけめぐっているスティーブとジャンに、私はまた追いつくことになった。ジョーンと二人で、マレー半島での六週間を夫妻とともに過ごしたのだ。新しい任地は、砂漠であった前任地とはこれ以上かけ離れようがないほど異なった環境だったが、スティーブはここでも前任地と同様、どこに行けば鳥が見られるかをしっかりと把握していた。
イギリスで、兵士たちがよくキャメロン・ハイランズやフレイザー・ヒルで過ごしていたように、クアラ・ルンプールのねっとりとした空気から何日か息抜きに出て、起伏にとんだ森林の中で過ごすのは悪くない。広大なタマン・ネガラ国立公園の中の丘陵のひとつからの眺めはすばらしかった。熱帯雨林のジャングルは、一億三千万年にわたる生態学的な生長の過程で、樹木だけに限っても、なんと一ヘクタールあたり二百種を下らない多様な植生を生み出していた。
世界でももっとも年を経た森林の中では、どこでも鳥たちが呼びかわしていた。しかし、幾重にもかさなった常緑樹林の中には、光を求める競争のために、七五メートルもの高さに成長している樹木もある。鳥をちらっと目にするよりも、もう少しましなことを期待するなら、「波」の通過を待たなくてはならない。「波」というのは採餌に出て行く大群のことで、チメドリ類、ムシクイ類、ヒタキ類、コウライウグイス類、その他多くの鳥が混群をなしており、ゴジュウカラ類まで混じっている。
波打つ緑の樹冠は、あらゆる方角に向けてどこまでもどこまでものび広がっているように見えた。しかし、じっさいはそうではなかった。こうした場所をめざしてドライブし、保護区域以外の土地を通過する時には、巨大な広葉樹の死骸ー伐採された材木ーを運んでいる伐採トラックの、まるで葬列のようなものものしい流れと、おそるおそるすれ違ってゆくことになる。草木ひとつなく、空虚そのもののような灰色をした錫の鉱山や、鳥の減少の原因でもあるゴム、ヤシ油、茶などを栽培している広大な大農場地帯を延々と通過することになるのだ。
マレーシアで、生息環境破壊の様相がそれほどひどいようには見えないところは、平野部の森林や灌木林に置き換わっている水田だった。ヨーロッパ西部では迫害されているカタグロトビがここにはたくさんいて、人馴れしている様子は見ていて楽しかった。越冬中のアジサシ類―大半はハジロクロハラアジサシーや、何種類もいるモズ、ツバメ、ハチクイなどが、ふんだんにいてやかましく鳴きたてているカエルや、ぶんぶんいう昆虫を漁っていた。
田植えをしている婦人たちは、見ていていたましいほど腰を低くかがめているのに、こちらに顔だけ向けて笑いかけることができるのだ。ジョーンに言わせると、「あなたのかっこうがおかしいのよ。バックパックに双眼鏡、テープレコーダー、カメラ、望遠鏡まで背負っているでしょう。まるで飾りつけができたクリスマスツリーみたいじゃないの。」
ペナンで一週間過ごした後、スティーブといっしょに水田地帯をドライブして戻る途中で、道路ぎわの汚い溝にカワウソがいるのを見つけてびっくりした。働いている人たちの小屋のすぐ前の、だ。走って道を横切ろうとした一頭を、私たちはひき殺してしまう羽目になった。これはアジアコツメカワウソで、イギリスでも動物園などで飼われている。私たちが住んでいる東アングリア地方では、アーシャムやグレート・ウィッチンガムなどだが、フィリップ・ウェイアがヨーロッパのカワウソの増殖に成功している。カワウソはイギリスでは川の汚染でたいへん少なくなっているものだ。こういった環境で、このアジアのカワウソはどうしてうまくやって行けるのだろうか。
私はクアラ・ルンプール大学で講演し、ジャンが自宅で催したパーティーでは、立場をかえて地域のナチュラリストの話の聞き手にまわった。WWFを運営しているケン・スクライヴンや、メドウェイ卿(現在ではクランブルック伯爵)といった方々である。メドウェイ卿は他の研究に加えて、最近は大学とアメリカの財源による「渡りをする動物の病理学調査」の一〇年間にわたる鳥類標識調査をリードしていた。
東洋ではどこでも、「国家存続と繁栄のための唯一の方策」というごく短いことばから根本的な問題が生じている。田園地帯の自然はいつも犠牲になるのだ。世界が必要としているのに、マレーシアが錫の採掘や、可能なかぎりのゴム、植物油、茶の栽培をしないでいることなど、できはしない。お腹をすかせた家族のために、森林を伐採して焼き畑農業をする農夫に対して、ジャングルを大切にしないのは悪いことだとどうして言えるだろうか。吹き矢を持ったマレーシアの少年に、今殺したばかりのアカエリエンビシキチョウは、どんどん数が減っている種類だと言っても、どんな意味があるのだろう。山の中では吹き矢で鳥をとるくらいしか楽しみがないのだ。
もし、この子が学校に行っていたとしても、この鳥にとって絶対に必要な生息地は森林の中の渓流であり、守ることがますますむずかしくなっている環境などと教わることはないだろう。水域の多くは汚染が進んでいる。かつては人を寄せつけなかった森林の奥へ奥へと入り込んできた人々によって、川岸も攪乱されている。マレーシア人は川辺のピクニックが好きで、岸辺に新聞紙を敷いて座ったあと、新聞紙も他のゴミもそのままにして帰るのだ。
9 シンガポール
シンガポールでは事情はずいぶん異なっている。よく言われるとおり、ここは世界でもっとも清潔な都市である。ここでは誰であれ、どこであれ、どんなものであれ、ゴミを落としでもしようものなら手厳しい罰が待っている。
私たちは、ヒュー・バック博士と奥さんのキャロルのお客として、ここで数日過ごした。マラヤ自然協会でイギリスの生息地管理についての講演をした時、質問のほとんどが現地のメンバーから出たことはうれしかった。
キャロルは有名なジュ―ロン・バード・パークに連れて行ってくれた。ここでは三五〇種、七千羽にのぼる鳥が飼育されている。そして、なんと二万㎡もの広さがある世界最大のフライングケージがあり、長いこと見たいものだと思っていた。
園長のチョイ・パク・コン博士は、「ここがどんなによくできているかとはおっしゃらないでください。どこがよくないかを言ってください。」と言われた。ここはじっさいすばらしかった。なかでも、岩でできた峡谷にかかる一五メートルもの高さの滝は圧巻だった。私はおもに人の雑踏と教育的側面の改善についての短いコメントを書いたが、彼らは丁重に感謝してくれた。
現代のシンガポールには、野生生物の生息地がほんとうにわずかしかないのは何と悲しいことだろう。この国の在来種と、地球上で最大の渡りのルートであるマレー半島、そして、そのなかでも重要なこの狭い土地にじょうごのように集中してくる何百万羽もの渡り鳥たちは、どこであれ、ともかく場所を探さなくてはならない。おもだったオープンスペースであるいくつかの貯水池の間に自然保護区があったが、ここで最も活動的なのは、ジョギングをする人たちだった。ジョギング愛好者たちは、一日の終わりである夕方を好んでいるが、夕方の時間帯には鳥たちも同じく活動的である。人通りの多い道路で仕切られた二百㎡ほどの草地で、私たちは珍しいナンキンヒメウズラを四羽も飛び立たせてしまったが、留まっていられる場所はここしかなかったものだ。もっと数が少ないベニバトは、かつて日本の捕虜収容所だったチャンギ飛行場のまわりの高いフェンスをちょうどよい止まり場にしていた。
セラングーンのボングゴルの岸辺は最高の場所だった。ヒューは、餌をとっている何百羽ものダイサギ、コサギ、ゴイサギ、ササゴイの間にいる珍しいカラシラサギ一〇羽と、一羽のチュウサギを指さしてみせた。この場所とチャンギで見られたシギ・チドリ類の中には、それぞれ五〇羽ほどのアオアシシギとアカアシシギ、数百羽のメダイチドリとムナグロ、もっと少ない数のクサシギ、コアオアシシギ、イソシギ、そしてソリハシシギとトウネンがいた。オオアジサシ、コアジサシ、ハジロクロハラアジサシが水面で獲物をねらっており、こうした鳥たちすべての上空には、巨大なカラフトワシが一羽、悠然と帆翔していた。「すごいところじゃないか!」と私はヒューに言った。
しかし、ほんの数か月後にヒューからもらった手紙には、これらの場所はビル建設のために立入禁止になったと書かれていた。バードリスターは、もし大急ぎで出かけさえすれば、シンガポールでよい成果が得られるに違いない。ここには、鳥たちの隠れ場がごくわずかしかないからだ。




