第十二章 マルタの虐殺 3 ハーディアラ自然保護区
3 ハーディアラ自然保護区
おきまりの遅延を経た後、一九八〇年三月十九日、塩が堆積した固いハーディアラの粘土に一台の掘削機が乗り入れられた。私は、最初のひと掘りを始める指揮をとった。マルタにおける鳥類保護の歴史に残る日であった。そして、マルタ鳥学会のメンバーにとっては、彼らの長い戦いの中で、自国の最初の国立自然保護区がスタートを切るところを目のあたりにするという感動的な瞬間であった。偉大な第一歩が踏み出されたのだ。
ハーディアラは聖域であると布告され、発砲を禁止された四五〇メートルの緩衝帯を備えていた。マルタ島の主要な猟場であったところに、最初のほんものの鳥の保護区域が設立されるというめぐりあわせを十分に味わってもらうために、私は昔ながらの石の標的を作って、悪しき昔の日々を記念するよすがとして、小さな島の一つに残しておいた。
資金の続くかぎり、そして政府所有地の限界が許すかぎりの広さで、島をそなえた湖が恒久的な開水面として造成された。周囲には、防御システムとして歳月を経た実績を持つ排水溝がめぐらされ、岸には密生したとげのあるやぶが植えられることになっていた。夏にはすさまじい蒸発が日に十二ミリにも達するので、水を補うために深い淡水の貯水池が掘られるはずだった。地中海では潮汐はわずか二五センチしかないため、潮の動きを利用することはできなかった。実際のところは、海から陸に向かって吹く風によって生じる大波で海水が入るのを防ぐため、たいへんな配慮が必要であった。ハーディアラには、既に十分すぎるほどの塩分があったからだ。
何千本もの樹木や灌木、もっと小型の植物などが植えられることになっていた。この中には、ここかしこで建築工事のために脅かされている希少な植物も含まれていた。自然歩道、ハイド、土地の石を用いたビジター・センターなどは、ヴィンセントの手によって、利益抜きで建設されることになっている。
わずか六ヘクタールの広さしかないこの場所は、私がこれまでに手がけた中ではもっとも小さな保護区であり、単位面積あたりではもっとも高価についた場所でもあった。しかし、世界最悪の鳥ごろしの汚名をかぶった地域にあって、面積の一平方メートル、一平方メートルがもっとも重要なものになった保護区でもあった。
一九八〇年、私は三回にわたってマルタに出かけた。最後のものは、十一月に開催された国際鳥類保護協会;ICBPの第十二回大会である。その時には、仕事は順調に進んでおり、寄付してくれたヨーロッパの多くのメンバーは、どのように寄付金が使われたかを見ることができた。
この大会はたいへんすばらしいもので、ジェーン・フェントンをはじめ、ICBPの他の友人たちと再会することができた。マルタのために巨額の資金が拠出された。ICBPはこの島の十九におよぶ別々のプロジェクトのために三万ポンド以上の金額を調達したが、これはおもにオランダの資金提供によるものである。ドイツ鳥学協会は、重機による生息地の改善事業を完成させるため、一万マルタ・ポンドを提供した。マルタ地中海銀行は、ビジターセンターのために三千マルタ・ポンドを出した。そしてRSPBは私の時間のすべてを提供し、私が提出したレポートの転載を認めることで協力した。最初のハイドを作る経費のほとんどは、ベティ・コクソンとマルタ鳥類保護区海外委員会によって組織された、サー・ピーター・スコットの絵画のくじ引き即売によるものであった。
ハーディアラの南側の斜面にあるデンマークの休暇センターが、池から掘り上げた泥を丘の向かい側に積んでくれないかと提案してくれたおかげで、何千ポンドもの経費を節約することができた。泥をトラックで運び、処分するためには、莫大な経費を必要としていたものだ。デンマークの人々は、運賃を提供してくれたばかりか、別荘の一つを私の住居として四週間にわたって提供してくれた。この休暇村はむきだしの石灰岩に建てられていたものだ。翌年の春、泥中の塩分が雨によってどれほどすみやかに海へ洗い流されたかを目のあたりにして、私は驚いたり喜んだりした。以前には何もなかったところで、花咲く灌木や他の植物が庭を埋め、小道を縁どっており、数多くの鳥が土にひきつけられて安全に餌をとり、巣をかけていた。じっさい、周囲の緩衝帯のなかでも、ここは本当に効果を上げている場所になっている。
もう一つ、一九八〇年にあった歴史に残るできごとは、鳥の保護のための新しい法律が八月に公布されたことである。これは、ハンターからの抗議の渦を巻き起こした。この法律制定は遅れに遅れたものだった。撃つことを禁止された鳥のささやかなリストは、一九一一年に島の総督によってつくられていたが、この人自身、当然のことながら、鉄砲撃ちだった。一九三七年、大英帝国政府によって、保護すべき鳥が二二種に増やされた。これには猛禽類は一種も含まれていなかった。猛禽類は害鳥という極端な偏見が残っていたためである。しかし今では、マルタのハヤブサ類、タカ類、チュウヒ類は保護されることになったばかりか、五月二二日から八月三一日までは狩猟禁止期間になったのである。
鉄砲撃ちはこうした措置に激怒したが、むろんこの禁止期間は不十分なもので、おもな渡りの季節は除外されていた。とりわけ罠猟師にとっては、これは大きな抜け穴だった。サギ類、ヨタカ類の狩猟がすべて自由なままであったことも、同じく痛恨のきわみである。制定された法律は、本来はハンターから抗議されるどころか、狩猟者側の政治的な影響力がじゅうぶんに尊重された結果と言うべきものである。
法律の制定は大切なことだ。しかし、施行はまた別の話になる。マルタの鉄砲撃ちや罠猟師は、数の上での圧倒的な力を持って、新しい法律が議会を通過したことなどなかったも同然に、法をあざける行為を続けた。マルタ鳥学会のメンバーがハーディアラの新しいサンクチュアリに到着してみると、スクレイプの中で鳥が死んだり死にかけたりしていて、鉄砲撃ちが緩衝地帯の中であるはずの丘に座り込み、保護区に飛来したり、飛び去ったりする鳥を撃っているのを見る羽目になった。保護のための溝には夜の間に岩や板で橋が渡され、生け垣は切り裂かれてすきまが作られていた。門の鍵はこわされ、新しいビジターセンターは荒らされ、標識調査用のリングは隠し場所から盗まれていた。
ハーディアラは、もっと多くの鳥を呼ぶために作られた場所であるはずだった。好戦的な鉄砲撃ちのために作られたことになってしまうのだろうか。撃つべき鳥が見当たらない時には、彼らは渡って行く蝶まで撃ち落とすやからである。
マルタ鳥学会は必死になって、貴重な保護区を守るため、徹夜の監視を開始し、単独で入ってくる侵入者を追い払った。しかし、覆面をした侵略グループを暗闇の中で誰何し、相手がまっこうから発砲してきた時は例外である。重傷者がひとりも出なかったことは、ほんとうに幸運だった。
一九八五年五月、私は何人かのアメリカのバーダーといっしょにマルタに行った。自然保護事業といういわばコインの表裏両面を見てもらい、マルタ鳥学会の必死の活動に対する支援をひろめるためである。私たちは、もちろんケネディ・メモリアル・ガーデンに行った。公式に銃猟が禁止された保護区域であるが、車二台でやってきた鉄砲撃ちのグループとちょうど同時に到着することになって、早々に退散した。バスケット・ガーデンは新しい法律のもとで、鳥のサンクチュアリであることが再び確約されている場所である。しかし、散弾銃の発砲による騒音は、まるで戦場さながらであった。友人は、血を流しているコキジバトを何羽も拾った。散弾銃のこまかい弾丸がもっとひどくふりそそいできた時、マイク・マクヒューが言った。「すまないね、ハーブ。われわれは敵の砲撃から退却しなくちゃならんようだ」
マルタの新聞には、鳥を愛する観光客の同様な経験が数多く投書されている。毎年一九〇トンもの鉛がマルタに輸入され、それは七〇〇万発もの薬莢となって、島全体にばらまかれているのだ。
ジョー・サルタナは私たちのために、大統領のヴェルダラ・パレスを訪問するという、めったにない特権をとりつけてくれた。バスケット・ガーデンの樹木におおわれた丘の上にある古めかしい印象的な入口に到着した私たちは、道路ぎわの札を読むために立ち止まった。ボール紙に乱暴になぐり書きされて、木々に列をなして吊るされている。「我々の法律に口出しするな」「くそったれ鳥野郎、帰れ」そしてもっとも意味深長な、私もよく知っている標語「猟がだめなら票もなし」。
ジョーンは私といっしょに何回かこの島を訪れていた。一度は近くのシチリアで週末を過ごしたこともある。ここにももちろん鉄砲撃ちはいたが、マルタの規模に及ぶものではなかった。ジョーンはマルタの人々に愛情を抱いており、サマット一家とはたいへん親しくしていたにもかかわらず、現状にあまりにも嫌気がさしていたため、二度と再びマルタには行きたがらなかった。
ハーディアラに標識調査に出かけて、キガシラコウライウグイス、ヤツガシラ、小さなコノハズクといった愛らしい鳥たちを手にしたり、よく似たニシトウネンとオジロトウネン、セグロビタキとシロエリヒタキ、チャバラムシクイとノドジロハッコウチョウといった種類を見くらべたりすることができたのは、ジョーンにとって、ぞくぞくするようなすてきな経験だった。しかし、ゴーゾ島で、ジョン・グレッチといっしょに標識調査をしていた時、放した鳥が目の前で撃ち落とされるというおそろしい目にあったジョーンは、ハーディアラのサンクチュアリでも同じことが起こりはしないかと心配していた。
ある日の午後遅く、外では銃猟が始まっていたので、私はキガシラコウライウグイスとコノハズクを一羽ずつ家に持ち帰り、外が真っ暗になって銃声がやむまで、庭に放さずにおいた。これはよい考えだった。ただし、運搬中、車の後部座席に置いた箱から鳥が逃げ出して、飛び回る鳥といっしょに運転して帰る羽目になった時は例外である。マルタでの車の運転は、世界一安全とはとうてい言い難く、気を散らすものといっしょではとても無理だった。マルタには一マイルにつき約一台の小型車が走っている。世界のどこよりも数が多いばかりか、みな出せるかぎりのスピードで走るのだ。
ジョー・サルタナはどんなチャンスも見逃さなかった。私はマルタを訪れるたびに講演をさせられたリ(スライドやRSPBの映画を用いるものだ)、ラジオや新聞社のインタビューを受けたりした。タイムズ社の事務所は前年に放火によって大きな被害を受けており、厳重な警備が行なわれていた。壁の一つにあったタイル製のジョージ六世の肖像には穴があいていた。他の新聞社の事務所では、マーガレット・サッチャー首相のポスターが貼られ、「アイルランドの囚人どもに拷問と死を」と標題がつけられていた。
自然保護に熱心な「タイムズ」と、左翼紙の「ラ・オリゾント」「インタグナ」は、たいへん正確なインタビュー記事を掲載してくれた。私は、アメリカからの訪問者に対する無作法な態度はきわめて非生産的なものであり、無差別な銃猟に対するマルタ鳥学会の戦いに対して、むしろもっと多くの協力を呼ぶものになるだろうと話した。しかし、私の主な論点は、政府が常駐のワーデンを入れないかぎり、マルタ唯一の自然保護区域であるハーディアラを作るのに費やした国際的な努力や資金はむだになってしまうというものだった。
何年もの間、私はこの主張の手助けをしてきた。チャーリー・ガウチがこの職に推薦されていた。一九六五年、トラップでの標識調査を初めて以来、マルタ鳥学会の事務局の任をずっと献身的に果たしてきた学校教師である。イギリスで私たちのところに滞在し、保護区や鳥類観察ステーションを訪問した人々のひとりでもあった。
一九八六年の二月になって、彼はようやくこの職を得た。ただし、常駐ではなかった。保護区に住居を建てるだけの資金がなかったためである。そこで、彼はモスタにある自宅から通ってきて帰るという長い日々を過ごすことになった。しかし、大望を実現することができたため、彼はそんなことは気にかけていなかった。
仕事のうちでももっとも大切な目標は、保護区での新しい鳥の繁殖だと私は示唆していた。チャーリーの活動は、早々と成功をおさめそうだった。その年の四月のうちに、セイタカシギが三羽、ハーディアラのスクレイプに入り、三日間にわたってディスプレイをしてくれたのだ。しかし、夜明けに保護区に到着した彼は、三羽ぜんぶが撃たれてしまったことを発見した。
一九八七年五月、新しい政府に対する総選挙が実施された。選挙戦の追い込みの期間に、首相は鉄砲撃ちの票田を確実にするために、狩猟をしてはいけない期間を一ヵ月も短縮した。ヴァレッタ銀行は五千ポンドを寄付した。しかし、政権は交替することになった。
過半数ぎりぎりの得票と、選挙権のない鳥たちの支援は得られても、マルタ鳥学会の主張に対して、新政権は何もしてくれることはできなかった。地中海諸国のほとんどは、渡り鳥の殺戮を減らす方向に進んでいるというのに、マルタの時間は止まったままである。
一九八八年になって、ようやく小さなフィルフラ島がサンクチュアリに指定された。けっこうなことだ。これも、何がしかの貢献である。一九八九年のはじめ、ヨーロッパ・ノストラ(ヨーロッパの二〇〇の自然保護団体による連合組織)は、ハーディアラ自然保護区に対して賞を与えた。たいへん勇気づけられることである。しかし、この保護区の維持に出される資金は、ゼロではないにせよ、わずかだった。
チャーリー・ガウチはいまだに何マイルも離れた自分の家で眠らざるを得ない。マルタにおける鳥の虐殺は続いており、減少するどころか、むしろ増加してさえいるので、彼の仕事はいっそう困難になり、胸の痛むものになってきている。
狩猟期間に含まれている春の一ヵ月の間に、四〇〇羽以上のチュウヒ類ーそのほとんどはヨーロッパチュウヒであるーがこの小さな陽光にあふれた島々で殺され、もっと多くの猛禽類が海上で撃たれている。高速のモーターボートをとばし、接近して撃つことが、鉄砲撃ちの大きな楽しみになっているためである。




