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第十二章 マルタの虐殺  2 マルタ鳥学会

   2 マルタ鳥学会


 退職してゴーゾ島で暮らしているジョー・アタードは、一九六二年に他の人々といっしょにマルタ鳥学会を創立した。そして、しばしばおそろしい脅迫を受けているにもかかわらず、活動を推進し、さらに活発に続けていた。

 ジョーはゴーゾ島で、オックスフォードの自然保護活動家、エリザベス・コクソンに出会った。彼女のすすめもあって、ジョーはグループの活動を拡大し、マルタにおける鳥を保護する会をスタートさせることになった。

 ジョー・アタードは一九六二年と一九六八年にミンズメアを訪れ、私たちのところに滞在して、どうやって鳥の保護区を運営して行くかを目にした。私もまた、ジョーを通じてマルタ鳥学会に所属することになった。一九六八年の休暇のおり、私はジョーン、ロデリックといっしょにマルタに出かけ、小さなマルタ鳥学会を構成している少数気鋭の勇敢な人たちに会うことができた。銃猟に夢中になっている島の風潮に対する慚愧の念、そして鳥たちの大量虐殺を何とかして減らしたいという切実な必要から結成された会である。ジョー・アタードの頼もしい仲間たちは、ジョン・アゾパルディ、アルフレッド・バルダチーノ、ガイド・ボネット、チャーリー・ガウチ、ヴィンセント・サマット、マルタ鳥学会の会長のジョー・サルタナ、後に理事長となったポール・ボルテリといった面々だった。

 マルタ鳥学会の活動に対して、ヨーロッパの自然保護団体からは、当初は同情以上のものはまったく得られなかった。RSPBの事務局長であるフィリップ・ブラウンは、ジョー・アタードの招待に応じ、マルタ鳥学会の「バード・ウィーク」にマルタを訪れた。フィリップはこの人たちが取り組んでいる問題にたいしておおいに共鳴したが、RSPBからの実質的な援助は何年か経ってからで、それも教室で使うリーフレットのシリーズを提供するという程度のものだった。 

 マルタ鳥学会のメンバーは、イギリスからの公式の援助が手薄なのに少々失望したということを、おだやかな言い方ではあるが、私にこぼしていた。なお、現在ではRSPBと国際鳥類保護協会;ICBPからの援助はかなりのものになっている。

 マルタの人々は、イギリス海軍が一八〇二年に基地を構えて以来、忠良なる女王陛下の臣民だった。一九六四年にイギリス連邦から独立し、一〇年後に共和国となった後も、イギリスに対する愛情を保ち続けている。

 一九七九年のある日、私はグランド・ハーバーに停泊しているアーク・ロイヤル号に乗船するマルタ鳥学会の若いメンバーに付き添っていた。少年たちは、来歴を知りつくしているこの偉大な古い船を見学することばかりでなく、船の売店でキャドベリーのチョコレートを買うことにも、おおいに情熱を傾けていた。イギリスの「ぜいたく品」の大半は輸入を禁じられており、彼らに言わせると、マルタのチョコレートはひどいものなのだそうだ。

 何日かして、出航するアーク・ロイヤル号を見送るために、私は高みにある城壁にのぼった。アーク号の出航命令は、昔ながらの植民地とイギリス海軍との最後の絆を断つものである。何千人もの人々が街路や歩道に列をつくり、グランド・ハーバーを見下ろして、目に涙を浮かべながら「我らまた会わん」を歌っていた。かつて、ヨーロッパ戦勝日、そして対日戦勝日にイギリスの地方都市で目にしたような、壮大な群衆の感動の光景であった。

 

 マルタにおける鳥の虐殺にぞっとしたイギリスのバードウォッチャー、なかでもエリザベス「ベティ」・コクソン、グリン・デイヴィス、ジョーとアンのハードマン夫妻、モント・ハイアンズ、キャプテン・マーク・テイラーといった人々は、マルタ鳥類保護区海外委員会(Malta Overseas Bird Reserves Comitee)を設立して基金を集め、この島にほんものの鳥のサンクチュアリを作る必要があることを詳しく説明した。素朴な趣味としての罠かけに対抗するため、これらの人々はバンベリー鳥学会の助けを借りて、マルタで標識調査者リンガーを訓練し、イギリス鳥学会は標識足環を寄贈した。そして、イギリス、デンマーク、オランダ、ドイツ、スウェーデンほかのヨーロッパの自然保護団体は、マルタ鳥学会がやりたいと思っているプロジェクトに対して、資金援助や助力要請を気前よくアピールした。

 立場の向上とともに、マルタ鳥学会の委員会のメンバーは、テレビ、ラジオ、協賛してくれる新聞でキャンペーンを行った。そして大胆にも銃猟を非難し、鳥類保護のための現実的な法律制定を主張するパレードを実施したものである。これに対して、何千人もの熱狂的なハンターが通りを埋めつくし、おそるべき抗議行動を起こした。ささやかなマルタ鳥学会のメンバーの何人かは、勇気の代償としてじっさいに負傷することになってしまった。

 マルタの熱狂的な鳥撃ちハンターには、現在、警官や神職にある人々も含まれているが、精力が弱まるどころか、改心の余地などまったくない。保護を進めるためになし得ることは、青少年が野生動物に対していくらかでも同情を持って育つように、教育を行うということである。イギリスは一九〇〇年代のはじめまで、世界最悪の鳥ごろしの国というべき立場にあったのに、ほんの数世代のうちに、世界でもっとも鳥の保護に熱心な国へと軌道修正をしたのではないか。


 ジョー・サルタナ、チャーリー・ガウチ、ジョン・グレッチのような教師たちは、マルタ鳥学会の宣伝を学校へと持ち込み、生徒たちを鳥の標識調査の授業に連れ出した。鳥を手に持たせてもらって、同情しない女の子がいるだろうか。父親から熱心な狩猟本能を受け継いできた男の子は、タマリスクの木立をこっそりと抜けて歩き、ナイロン製のカスミ網に鳥を誘導して飛び込ませることにスリルを感じるにきまっている。しかし、首尾よくとらえた鳥には標識足環がつけられ、種類や年齢などについて討議をした後で、放して野外に戻してやるのだ。これはたいへんなカルチャーショックだが、きっと、よいことをしたと感じるに違いない。よいことをしたという感覚は長く続くものである。

 まもなく、年若いメンバーたちがたいへん数多くマルタ鳥学会に入会したので、青少年部門が設けられた。鳥の保護、銃猟に対する非難で、一般会合で彼らがみせてくれた熱意は、自国の自然を守る上で、おおいに役に立つものだった。私は現実のものとしてこんな情景を思い浮かべることができる。マルタ鳥学会の「アイ・ラブ・バーズ」のTシャツを着た小さな男の子が、父親のズボンにしがみついて、父さん、今日は鳥撃ちに行くのをやめてよ、と頼んでいるところだ。「私に若き日の心を与えよ、そうすれば、世界は本来あるべき姿にできるだろう」とレーニンも言っている。

 鳥の標識調査は、マルタ鳥学会の重要な活動だった。私はこの活動が生来の狩猟本能を昇華させるということだけでも、たいへん好もしいものと思っていた。その上に、地域における鳥学上の知識を新たに加えることができるのだ。ただし、標識調査で使われているのはカスミ網だけだった。初めてマルタを訪れた時、「恒久的なヘリゴランド・トラップを設置するのに、どこか安全な場所はありませんか」と聞くと、彼らはいたって皮肉な笑いを浮かべたものである。

 マルタ鳥学会のメンバーのうち、わずか六名で、年間八千羽もの鳥に標識足環をつけていた。渡り鳥がどこから来て、どこへ行くかというのは、驚異の事実である。ショウドウツバメのうち、アフリカからイギリスに向かう途中でマルタを通過するものがあるなどということを、誰が考えただろうか。この国で記録された珍鳥の多くは、長年にわたる銃猟の結果だった。マルタの鳥のリストはなんと三五〇種にものぼる驚異的なものだが、これに、カスミ網で捕えられ、リングをつけて放鳥されたものが更に何種類も追加されることになった。

 マルタには、鳥にとって安全な場所が一か所だけあった。南海岸の岸から三キロ沖合にあるフィルフラ岩礁で、面積二・四ヘクタールである。長年にわたってイギリスとアメリカの砲撃目標とされてきた結果、ここはへりの尖った大きな岩くずの巨大な堆積と化していた。上陸はきわめて困難で、静かな天候の時に限り、二、三の秘密の場所からしかできなかった。ころがり落ちた岩の間のおびただしい隙間は小さな洞穴となり、海鳥の繁殖には理想的である。

 夏の短い一夜、七名のメンバー(私も参加させてもらった)がフィルフラ岩礁に上陸し、十二メートルのカスミ網四枚のみで、一一四〇羽のヒメウミツバメ、一八羽のオニミズナギドリ、一羽のマンクスコミズナギドリに足環をつけた。困難で危険な仕事だった。新しい繁殖種として、この時初めてイワツバメ一つがいが見られたが、この巣は珍しいことに上がひらけた場所にあり、岩の表面にあいた丸い貝の穴にぴったり合うように作られていた。新しい発見、知識の追加という意識は、マルタ鳥学会の活動に拍車をかけているものである。

 夜が明けてすぐに帰路についた私たちは、なめらかな海面すれすれに滑空しながら獲物を漁っているミズナギドリを、船に満載された鉄砲撃ちがねらっているところとすれ違った。もちろん、船からの銃撃は違法である。

 

 マルタ共和国は、鳥が安全に餌をとったり、巣を作ったりすることができて、観察路やハイドから鳥の観察が楽しめるような、ほんものの保護区を必要としていた。こうした保護区は、戦後間もないころからヨーロッパ全土やアメリカで新設されており、存在価値を明白に示していた。

 一年の大半に水があり、良好なアシ原ややぶや木立に囲まれた場所といったら、マルタには一か所しかなかった。この場所はハーディアラ(マルタの言葉で「プール」という意味)と呼ばれ、島の北のせまい首をなしているメリーハ湾にあり、かつては塩沢だった。おもだった鳥撃ち場のひとつで、じっさい、イギリス軍から鴨撃ち場として貸し出されていた。

 わずか七〇メートル先の海岸では、太陽をもとめてやってきたおびただしい観光客の群れが砂浜にごろごろ横たわり、北側の丘の中腹には、胆汁のような緑色に塗られたキャラバンや山荘が建てられていた。反対側の岩だらけの斜面には、デンマークの休暇村があって、沼を見下ろしていた。鉄砲撃ちがいない時にうまく行きあいさえすれば、ロマンチックな雰囲気の残る場所であった。

 マルタは中世以来、地中海の塩業の中心であり、ハーディアラには巨大な製塩用のなべが設置されていた。塩からあがる収益は高く、一五〇三年にセント・ジョンがひきいる十字軍が到来した時には、彼らの手に利益がわたった。十字軍は不気味な「赤の塔」を建てたが、高台に建てられた塔からは、ハーディアラを見下ろすことができた。

 マルタ島北の首にあたるこの地域には、長年にわたって海賊やトルコ人が襲来し、住民をおびやかし、追いやってきたため、塩業はすたれ、この地域は「パルテ・インアビタータ(Parte Inabitata);住まれざる港」として知られるに至った。風にさらされた灰色の「ガレージ;地中海沿岸に見られるやせた砂利地」、マルファ・リッジでは、イシチドリが巣を作っていた。イシチドリはたそがれ時に、まるで泣きわめくバンシイのような声を上げる。この声の骨身に染みる恐ろしさをご想像いただけるだろうか。

 ハーディアラは、長さ一三〇〇メートルの囲われた小さな谷あいで、陸地の大半は小区画に区切られた農地になっており、ヤシの木が生えている。風力ポンプと蜂蜜色のちいさな家々があり、平たい屋根の上には金橙色になった巨大なカボチャが干してあった。残存している塩沢地、イル・ハーディアラは、今ではわずか一・八ヘクタールしかなかった。ある地元のハンターが、撃つ鳥をもっとひきつけようとして、水を長く保つため、ブルドーザーで深く掘ったにもかかわらず、夏の焼けつくような何か月かの間、ここは干上がって、赤くひびわれた粘土になってしまうのだった。 

 一九六二年に初めてジョー・アタードに会った時から、ジョーはマルタ鳥学会がハーディアラを手に入れて、小規模なミンズメアをつくることを心底から望んでいた。翌年、ジョー・アタードと、マルタ鳥学会の事務局をひきうけているドミニク・クータヤが、マルタの司令長官だったラスベリー将軍を訪ねて、国防省の土地の小部分を保護区として使用することができないかと相談したことを、将軍は私に話してくれた。もちろん、彼は大賛成だったが、マルタ政府が植民地から独立したため、すべての土地はマルタ政府に帰属することになり、明け渡さなくてはならなかった。

 

 一九六八年の最初のマルタ訪問の時、ヴァレッタとフロリアナで行った二回の講演で、私はハーディアラの保護の必要性を強調した。外交部のスティーブン・ターナーとディック・ホルマン陸軍中佐は、旧植民地の撤収をしているところだったが、私の見るところでは、既に何かと手助けをしてくれていた。政治的な背景についてのアドバイスはたいへんありがたかった。新しいマルタ政府は土地の所有者であったが、マルタ鳥学会の目的に対してじゅうぶんに共鳴していて、政府が経費をかけずにすむのであれば、会がハーディアラを発展させることは、大変喜ばしいことであると言っていた。

 国際的に活動している自然保護団体は、それぞれより大きな影響力を持つようになっており、援助ももっと現実的なものになっていた。しかし、じっさいに行動が起こされるまでにはおびただしい手紙のやりとりが必要であり、年月が過ぎて行った。ジョーンと私が再びマルタに出かけたのは一九七七年のことだった。私は春早くの休暇の大半を費やして、ハーディアラをはじめ、マルタ鳥学会がかかわる他の場所の発展計画について、実行可能な案を作るために過ごした。マルタ政府はすぐにマルタ鳥学会とWWFに発展プラン作成のイニシアチブを譲り、私が仕事をすることを承認した。RSPBの会長のイアン・プレストは、既に私の出向を認めており、国際鳥類保護協会のイギリス支部が私の給与を支払ってくれることになって、私は公式に仕事を始めた。

 いつも協力してくれる建築業者のヴィンセント・サマットは、自分のアパートのうちの一戸を住居として提供してくれた。ここはありがたいことにメリーハ湾にあり、歩いてハーディアラに行くことができた。ヴィンセントは、たいへん珍しいことには改心した鉄砲撃ちであり、かつての罪深い仲間が傷つけたハチクマを一羽世話していた。私はミンズメアで救護用の鳥舎を二つ持っており、猛禽類はスズメやウサギを餌にしてたいへん楽に世話ができることを知っていたが、まさか野生のハチクが手首にとまり、蜂蜜のびんからじかにスプーンで蜜をもらうなどとは思いもよらなかった。この鳥は申し分のない健康状態で、まもなくイギリスの猛禽類保護センターに送られることになっていた。

 私のプランは、マルタ人間環境委員会事務局長のルイス・サリバ博士および厚生環境大臣のヴィンセント・モラン博士と討議された上でWWFに送られた。WWFはこのプロジェクトに対して、既に一万マルタ・ポンドを提供してくれていた。

 



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