第十一章 コスタ・ブラバ 3 アイグアモルス自然公園
3 アイグアモルス自然公園
私は毎年エンポルダを訪れた。ジョルディは一九八二年に兵役を終え(この時期、彼はほとんどを地方ですごし、おもにバードウォッチングに時を費やしたことになる)、地域の防蚊対策事務所の長になった。まもなくフランセスクもここで働くことになった。仕事のかたわら、沼沢地の鳥と開発の状況を監視するには、まさに最高の機会を得たわけである。
翌年の春、市長は彼らを通じて、ジョーンと私に三ヵ月間にわたって宿泊施設を提供してくれた。広々とした宿舎は防蚊対策事務所と同じ街区で、アムピュリアブラバのへり、ムーガ川の北岸にあった。この建物は町の診療所で、冬は五月末まで閉鎖されている。ここで私たちはとびきりの上等な時間を過ごすことができた。川岸にはハチクイが巣を作り、アシとラッシュのしげみにはコヨシゴイがいた。ツリスガラ、キガシラコウライウグイス、クロガシラムシクイほか、イギリスでは見られない数多くの鳥が、川沿いの灌木林や柳に巣をかけている。浅い川には魚が豊富で、上流部からくる汚染を気にする様子もなく、ムラサキサギ、ゴイサギ、バンなどが餌をとり、砂地の島にはコチドリの巣があった。川岸の植物に咲き乱れる花々には、様々な蝶が集まっていた。
ある暑い午睡の時間、日当たりのよいバルコニーで昼寝をしていた私たちは、上流でうなりを上げているブルドーザーの轟音に起こされた。おそろしいことには、ブルドーザーは川の中と川岸の植生を根こそぎはぎとっているではないか。掘り上げた土は岸にうず高く積み上げられ、何百ものヒナや卵のある巣もろとも、あらゆる野生生物を追いやってしまった。この工事は数年ごとに行われており、川が浅くなって流れがゆるやかになると、川底をけずって、汚染された水を早く確実に海へ流すためのものだと聞いた。
エンポルダでの長期滞在のはじめに、私はある閣僚に手紙を書いていた。環境および公共事業大臣であるセニョール・ヨセップ・クリエルに宛てたものだ。ジョルデイやフランセスクといっしょに私はバルセロナの政庁に再び招待され、湿地の将来について話し合った。たいへん暖かく友好的な会合であったが、土地買い上げの予算が議会にかけられる前に請求がつきつけられるだろうというニュースを聞いて、私たちは勇気づけられるどころの話ではなかった。
しかし、予算獲得にはだいぶ時間がかかるものの、政府がその間には塩性湿地についていかなる開発も許可しないという確約を得ることができた。この塩性湿地はカタルーニャの人々にとっての自然遺産として宣言されるべきものであり、野生生物の保護区域として、私たちのプランに従った開発が行われるべきであるとされたのだ。私たちの計画は、今や公式に認定され、受諾されたことになる。わが友人たちは有頂天になった。
お祭り気分の中で、私たちはスペイン縦断の大旅行に出かけた。ジョーンと私は、ポルトガル国境に近いエクストレマデュラの乾燥した平原に行ったことがなかった。この地域に住むノガンやヒメノガン、オオサケイ、まして、小さい洞窟の中で巣を作っているナベコウなども見ていない。一方、わがカタルーニャの友人たちは、ラ・マンチャのダイミエル保護区で私が計画を策定したアグア・パルマネンテや、ドニャーナのアセブーチェを見ていなかった。ジョーンにとっては一九六六年以来初めてのアンダルシア再訪であり、新しいラグーンが申し分ない状態であることを目にして、私はおおいに安心した。
「これですよ。これこそ、僕らがエンポルダに欲しかったものなんだ!」彼らは夢中になっていた。
それから間もない一九八三年の一〇月になって、バルセロナ自治政庁は約束を実行に移し、ポルト・リエバント社の所有地でないアイグアモルスの淡水域と水田の部分を野生生物の保護区域とし、銃猟を禁止すると宣言した。若者たちは政府の補助金でフェンスを設置し、保護区域であることを示した立て札をたくさん立てたーじっさい、少々多すぎるほどの本数であった。夜の間に立て札は二本を残してすべて引き抜かれ、投げ捨てられていた。残された二本の立て札には、どちらにも射殺されたばかりのノスリが吊るされており、「次はお前だ」と書かれていた。テントに泊まって保護区の作業を手伝いに来ていた少年少女たちのキャンプでは、引率してきた教師たちの車のタイヤに穴があけられ、ガソリンタンクには砂が入れられていた。
「気にしなさんな!」私は忠告した。「マルタではもっとひどいんだよ」
スペインでは町なかでの発砲はない。しかし一歩町を出ると、土地の九〇パーセントは狩猟区域になっていた。地主が農場全体に「私有地につき立入禁止(Coto Privado de Caza)」という立て札をまんべんなく立てておかないことには、いかなる無責任な鉄砲撃ちであれ、入ってきて撃ちまくる権利があるのだ。
行楽客は、この事実をじゅうぶん味合わされることになる。とりわけマヨルカ島では、渡りの時期になろうものなら、ちょっと足をのばしてこの小島に来た人は、いっそ耳が聞こえないほうがましというような状態になっている。鳩、ツグミ、もっと小型の鳥たちに向かって炸裂する散弾銃の銃声はすさまじいものだ。マヨルカ島では毎年何百万羽もの小鳥が殺されており、ウタツグミ一種をとっても三二五万羽にのぼる。大半はグルメのための食材として輸出されていた。私がダンジネスでリングをつけたノビタキのうちの二羽がマヨルカ島で殺されている。
エンポルダから海岸を下ったところのタラゴナ地方では、娯楽のため、そしてフランスのレストランに輸出するために、毎年一三〇〇万羽もの小鳥が罠で捕えられていた。フランセスクは、五〇〇ばかりの小さな罠がぎっしりつまった袋を見せてくれた。ネズミとりのパチンコ罠に似たようなものである。いくつかの店から押収してきたところだった。この罠の使用は最近になって違法と定められたにもかかわらず、店では自由に買うことができたのだ。
ところが、チェルノブイリの原子力発電所の事故が起きたため、タラゴンの人たちは、突如として野鳥を食べるのをやめてしまった。放射能汚染の地域とはまったく関係がないマガモさえ食べなくなった。「風が吹けば桶屋がもうかる」という理屈である。
エンポルダ保護区の生息環境の拡大について、経費をかけずにできた仕事が少しあった。古い囲い地を何か所か放棄していた米作農家の協力のおかげである。塩性湿地の南端に土地を持っていたアルマータ基地が、土地のかさ上げのために土を必要としており、保護区の中の乾燥した地域から土をとって、冠水する「スクレイプ」を作ってくれた。こうしたチャンスはめったにないもので、若者たちの熱意によってのみ、作り出し得たものである。
一九八五年の十一月、いきなり劇的な大展開が起こった。カタルーニャ自治政庁は、ポルト・リエバント社の所有する海岸の沼沢地、五三一ヘクタールのすべてを購入すると発表したのだ。デベロッパーに対する支払いは、これに続く五ヵ年にわたって行われることになったが、驚くなかれ、なんと一四九五ビリオン(一兆四九五〇億)ペセタにのぼった。フランセスクが電話でこのニュースを伝えてくれた時、私は十億じゃなくて百万だろう、と言ったものである。これは総額七七〇万六千ポンド(約十六億円)にのぼる。塩性湿地のやぶ地、潟、そして砂丘の価格は、一ヘクタールにつき一万四五一五ポンド;約二六〇万円にあたった。
カタルーニャ政庁は、このニュースを誇りとともに取り上げた。新聞は、政庁が国家の自然遺産の重要な部分の死滅を防いだと述べていた。
ジョルディは、エンポルダのアイグアモルス自然公園のディレクターに任じられた。彼らの正しさを証明するための仕事である。フランセスクはロンドン大学で一年間環境保護学を学び、RSPBの各地の保護区を研修のために訪れた後、生物学者としての資格を得て、保護区で旧友の片腕として働くようになった。
彼らがついにスタートを切ることができたことで、私は喜んだ。ジョルディはカタルーニャ最高のフィールド・ナチュラリストであり、農民たちの誰も、とまでは言えないにしても、地元の人々から好かれていた。まさにその仕事に生まれついたというべき男である。フランセスクについては、この職が長い階段の最初の一段になることを私は望んでいた。年月を経て、野外での経験でみがかれた技術と知識は、彼をして、現場に出て靴を泥でよごすことをいとわない実践的なスペイン人科学者となすことだろう。彼は、政治的な面でも中央に入るべきである。スペインの広大な野生の土地は、真に貴重なもので、ヨーロッパの渡り鳥のいわば生死の鍵を握る地域であった。ここには彼のような人材が必要なのだ。
私はエンポルダの最初のハイドの位置を選んだ。放棄された水田跡にほど近く、大きな淡水湖のへりに正しく位置したものだった。ハイドは正確にRSPBのデザインに従ったものだが、マルタで建てたものと同じく、レンガと石で作られた。アプローチ路もうまく遮蔽されていたので、ハイドからはすぐ間近にアオサギ、ムラサキサギ、アマサギ、コサギ、そして七種類のカモ類をはじめ、クイナ、オオバン、カワセミ、その他数多くの種類を見ることができた。
学校からの見学が多かったので、一グループの利用は三〇分に制限されていた。生徒たちがどれほど熱心に鳥を眺め、面白がっているかを見るのは、まさにうれしい驚きだった。まだ発展の最初の段階であったとは言え、この保護区は野生生物に接し、ほんものの生きた教育を得ることができるカタルーニャ唯一の施設だった。
保護区ができてから五年目にあたる一九八九年には、三万人にのぼる利用者があり、大半は学童で、そのうちの半分は往復で二七〇キロもの距離を日帰りするバルセロナからの遠足だった。私たちがイギリスで見出したのと同じく、この国でもこうした経験が必要とされているのだ。スペイン第二の都市であるバルセロナの子供たちは、ヒヨコの絵を描くように言われると、肉屋の店に吊るされている羽をむしられた鶏を描く子がけっこう多かった。皿に盛りつけられたローストチキンを描いた子もひとりいた。
一九八七年、私は農業省のホアン・ヴィラの要請によって三回にわたってカタルーニャに出向き、翌年春にも訪れた。保護区の半分を占める淡水部分の発展計画のためである。付近の山々から十分な降水量が得られるので、主な改善対策は、古くはカステリヨ湖であった二・八キロ×一・二キロの池であると考えられた。二〇〇年前の記載によれば、この湖は「鳥でまっ白であった」とされている。
ここには鳥が巣を作ったり、休息したりできるような島々がもっと多くなくてはならない。岸の勾配はゆるやかにして、アシやラッシュ、アヤメ、そして他の水扁植物が生えられるようにする必要がある。家畜による植生コントロールも、統制された形である程度は必要になるだろう。また、周囲を大きくとりまくように溝を掘り、農地からの肥料分や毒物の流入を防ぐ必要もあった。
ヨーロッパ経済共同体;EECにスペインが加盟するという事態に至って、地方の農民との間には、通常のあつれきの域を越えた問題が生じてきた。農作物の価格保証は、目新しさもあっていっそうの拍車がかかり、農民は質の悪い土地を排水して、大麦、ヒマワリ、トウモロコシなどを栽培するようになった。将来への見通しや、ヨーロッパの山岳地帯からの食料供給や、ブリュッセルのEEC本部からの禁輸措置のおそれなど、まるでないようなやり方である。
独立自尊の意識がきわめて強い農民たちは、保護区の存在に反発しており、こうした態度が表面化してきた。バーなどで保護区などの話題が上ると、イギリスでは二本の指をまげてみせる侮辱のしぐさが、はるかに嘲笑的な身振りで示された。地中海沿岸ではふつうに見られるもので、左手で右手の二の腕をぴしゃりと叩き、かためたこぶしを突き上げるというしぐさである。エコロジストが土地を欲しいというなら、法外な値段を払わせてやる、というわけだ。カタルーニャ自治政庁は、土地を徴発するという手段に訴えてもよいのではないか、と私は思った。しかし、どこでもふつうに見られることだが、政庁は政治的に強力な農民とよけいな紛争を起こすことは避けたがった。
一九九〇年春、いくつもの島を備えた私たちの最初の「スクレイプ」が完成し、冠水して、何千羽ものカモ、シギ、アジサシ、その他多くの鳥が入るようになったのを見て、土地の冷笑家は動揺することになった。ここは、四〇ヘクタールの乾燥した畑地だったところだ。正面にある「エル・コルタレット」と名付けられた農家がビジターセンターの建物になっていた。
バルセロナ空港と海岸道路に隣接した二六四ヘクタールの湿地で保護区の計画策定を依頼される前に、実にうまくできた「スクレイプ」であるこの場所が完成していればよかったのに、と思わずにはいられない。デモンステレーションには最高の場所だ。バルセロナ空港では、飛行機から小さな潟を見下ろすことができるが、ロンドンのヒースロー空港に隣接したペリー・オークの古いタイプの汚水処理場が、鳥を見るにはたいへんよい場所であることを思い出させるものだ。ペリー・オークのことを私はよく話したものだ。スペインで二番目に汚染が進んだ川であるリヨブレガードのデルタは、バルセロナ近郊の市街地と密集した工業地帯になっており、わずか二ヶ所の指状にのびた潟が、昔の水域の名残をとどめている。
カタルーニャ自治政庁が、コスタ・ブラバのような面影をわずかに思い起こさせるこのささやかな湿地の野生生物に関心を持っているのは、たいへんうれしいことだった。
自然保護局長のホアン・デル・ペソと、陸地部分の大半を所有しているエル・トロ・ブラボ基地の指揮官であるイルデフォンソ・ギサード将軍は、どちらもたいへん高い認識を持っており、たがいの目的が全く異なっていても、野生生物の利益になることをなんとかして導き出そうとしていた。
この湿地の発展のためには、様々なギブ・アンド・テイクが必要である。保護区域の中にゴルフコースがのびる予定があり、水上スキーのために作られた広い水路は、一九九二年のバルセロナ・オリンピックの行事であるスキー・ジャンピングのために、幅を倍にしたいという要請があった。火を噴くような問題が山積していた。
ハーバート・ジョンソンがニューヨーク市のために愛すべき小さなジャマイカ・ベイ保護区を作ることができたのなら、きわめて似通った状況にあるこの場所についても、何かができるに違いない。ジャマイカ・ベイで鳥を見ていると、すぐ近くのケネディ空港を離着陸する飛行機の姿や、ロング・アイランドの高速道路を通る車の轟音や振動が、境界をなしている木々をこえてひびいてくるのを、いつも忘れてしまったものだ。
新たに追加された問題点は、新しい水路を利用した娯楽のために、川の汚濁が更に進んでしまうというものである。ここではテントやキャンピングカーを持ってきて、大きくひろがった笠松の樹冠のかげで、キャンプをする人たちが多い。こうした人たちや、きれいな砂浜に近い木立の中で、他人の視線を避けるヌーディストたちは、バードウォッチャーにもなりうる人種だ。それに、大都市の子供たちは、まさに玄関先にある保護区域で、野生生物に対する敬意を学ぶことができる。
小さい保護区域の計画はむずかしい。膨大なレポートが提出され、教育のための自然歩道、遮蔽、ハイド、巧みな生息環境整備―とりわけ開水面と植生についてーといった展望が強調して述べられた。しかし、ゴルフに対する需要や、まもなくオリンピックの開催国になるという威信が優勢を占め、保護区の計画は何年か棚上げされることになった。
まあ、仕方のないことだろう。少なくとも、ゴルフコースの多くはラフやグリーン、小川や池などがあって、鳥たちにとってはよい環境になっている。ここのゴルフ場にも鳥がたくさんくることだろう。
それでも、バルセロナに住むおびただしい人々、なかでも子供たちのうち、どれほどの人数が鳥を見はじめるようになってくれるのだろうか。




