第十一章 コスタ・ブラバ 1 計画策定 2 カタルーニャの勇者たち
スペインのカタルーニャでは、勇者とも言うべき若者たちといっしょに、コスタ・ブラバにあるエンポルダの沼沢地の保護と、その中のアイグアモルス自然公園の造成にかかわることができました。
第十一章 コスタ・ブラバ
1 計画策定
夏来たりぬ カッコウの歌ぞひびく
まったく、その通りだった。ホテルの寝室の窓からは、いまいましいカッコウの求愛の歌が、やかましく、はっきりと、容赦なく入ってきた。中世の純朴な吟遊詩人にとっては、インスピレーションそのものと言うべき声だったのだろう。しかし、鳥が好きでも足がくたびれた老夫婦にとっては、それどころではなかった。ジョーンと私はただひたすら眠りたかった。
スコットランド北西端の六月は、ほとんど一日中ずっと明るいままである。長い長いエキサイティングな一日をすごした後だった。私たちは友人のテッド・ボイヤーといっしょに、サザランド西海岸の探鳥に来ていた。ここは驚異にみちみちた土地である。重い食料を背負ってRSPB保護区のハンダ島を踏破したあと、白夜の薄明かりの中で、ホテルの付近の野原を歩いてウズラクイナを探した。たっぷり二時間以上もとぼとぼ歩きまわったが、とうとう一羽の姿を見ることができた。学名(Crex crex)そのまま、まるでスプーンで洗濯板をひっかいているような、「クレック、クレック」という声をちょっと止めて、ちらりとだけではあったけれど。サセックスで育った子供のころ以来、この黄褐色をした地上性の小型のクイナを目にしたことはない。そこで、満足してベッドに倒れ込み、すぐさま眠りに落ちるはずだった。ところが、まだ夜明けの光など射してもこないうちに、精力的かつ乱交的なるカッコウが窓の外の木にとまり、彼自身の方針に従って歌いはじめたのだ。
カッコウが沈黙する夜の時間は、わずか二〇分間だった。真夜中の一〇分前から、カッコウにとっての新しい一日がはじまる〇時一〇分過ぎまでである。「六月の半ばからカッコウは歌いはじめる」 あれ、そうだっただろうか?「七月には渡去する」 いやいや、コンゴへの帰路につく前には、体力回復のためにももっと十分な時間が必要である。
一九七六年、記録的な干ばつのためにイギリス全土が褐色に変わってしまった年のことだった。魅力的な初夏のこの日、私は保護区の管理についての本を書く準備のため、スコットランドにあるRSPBの保護区訪問の旅に来ていた。中でも、初めて訪れる人里離れた北端の崖では、海鳥が数多くの大規模なコロニーをなしており、ぜひとも見たいと思っていた。シロカツオドリ、カワウ、フルマカモメ、ウミガラス、トウゾクカモメ、カモメ、アジサシといった鳥たちは、一〇〇万つがい以上に達している。海鳥が大集結しているコロニーは、ヨーロッパでももっとも重要なものである。私は最終的にはこうしたコロニーのほとんどを訪れることができた。この中には、北はシェトランド諸島のハーマネスから、オークニー諸島のわくわくするような小島、パパ・ウェストレイまでもが含まれている。
スコットランドの海鳥の大コロニーは、この風景の中に人類が登場してくるよりもはるかに昔から、独自の生態系を発達させ、維持してきたものだ。今なお彼らは繁栄を続けている。ただし、哀れなオオウミガラスだけは例外である。空を飛ぶかわりに水中を進むのに都合がよいように翼が進化した結果、この鳥は飛ぶことができなくなった。そのためこん棒でたやすく撲殺され、ついには絶滅という形で代償を支払うことになってしまったのだ。
イギリスの北の浅い海には、暖かいメキシコ湾流が流れ込み、海水が入り混じるために豊富な栄養がもたらされ、おびただしい魚がいる。断崖にある壮大なコロニーは常にこの魚で養われてきた。人間にとられたり、卵が採取されたりした繁殖地も少なくなかったものの、被害は比較的軽いものですんでいた。
これらの断崖の繁殖地は、自然保護会議、ナショナル・トラスト、RSPBなどの団体の傘下で高名な保護区としての位置を占めるようになり、安全な状態が保たれるようになった。このようなすばらしい大規模なコロニーを所有することは、どの団体にとっても、最小限の管理作業と最大限に得られる利益を意味していた。
私が訪れた当時のみごとな状態からは、わずか一〇年後、ヒナのほとんどが育たずに死んでしまうという事態が起ころうなどとは、想像もできなかった。ふんだんにいて、主要な食物になっていたイカナゴが捕れなくなってしまったためである。いったいどうしたことだろうか。一九八九年、一万つがいに及ぶキョクアジサシのコロニーでは、わずか一〇〇羽のヒナが巣立ったのみだった。他の三ヶ所の繁殖地では、一〇万羽にのぼるニシツノメドリのなんと九〇%までが繁殖に失敗した。
こうした事態に対して、RSPBは大量漁獲による魚群の消失について抗議するだろう。グリーンピースは海洋汚染を主張するに違いない。一方、海鳥の専門家であるヒル・ボーン博士は、長期にわたるイカナゴの個体数変動傾向の一部であると考えている。
コー・ズウェーリスはオランダで、一九六八年の時点で既に鳥が全くいなくなってしまった島々を、哀切をこめて見せてくれた。かつてはあふれるばかりに繁殖していたサンドウィッチアジサシが、ライン川から流入する有毒物質のために姿を消してしまったところである。
一九八八年には、ついに何千頭ものアザラシが悲劇的な死をとげるという事態が起きた。海洋の不健全な状態のために体力が弱まり、アザラシの伝染病に対して抵抗力をなくしたためである。死にかけたアザラシの涙をいっぱいにためたまなざしがテレビで放映され、既にやましい気持ちを十二分に味わっていた世間一般の良心を、いやが上にも刺激した。そして、本来は青であったはずのイギリス保守党政治のシンボルカラーを、一挙に緑の保全へと塗り替えたのだ。
荒涼たるイギリス北辺の海岸と、この後まもなく私がかかわることになるスペイン地中海沿岸にあたるコスタ・ブラバとは、およそかけ離れた存在だった。
一九七五年から一九八〇年にかけての間、私はRSPBの土地利用アドバイザーとして、講演、新しい保護区の計画、既存の保護区の改良などにかかわって、忙しく過ごしていた。もっとも面白かったものは、ノーサンバーランドの二ヶ所の炭鉱で、露天掘りの廃坑跡に手を入れ、フェリー・メドウズ・パークの野生生物保護区の湿地にするという計画で、ピーターバラ開発公社によるものだった。
計画策定に携わったほかのものでは、ワイト島とハンプシャー州庁のためのもの・ロンドンの公園・デボンにある城の敷地・ガーンジー島の四ヶ所の小地域・ドーセットのブラウンシー島について、献身的な自然保護家であるヘレン・ブラザートンのために立案したもの・バークシャーとケントのテームズ河畔の土地について・エセックスとサフォークの森林について・サセックスにある英米煙草協会の訓練本部敷地について、といったものがある。
規模は小さいが変わった仕事としては、ウォールトン・オン・ザ・ネイズ(訳注:アーサー・ランサム全集にある「ひみつの海」の舞台となった町)の埠頭に停泊している救命艇の甲板に、キョウジョシギがねぐらをとらないようにするにはどうしたらよいかを調べる、というものまであった。甲板が糞で滑りやすくなって危険なためである。
ドニャーナ国立公園の基本計画策定の仕事もまだ続いていたし、マルタ共和国初の国立自然保護区計画のために、この島国にも出かけていた。一九七七年にはダーバンの海洋学会から、ウムラツジ川のシルト質の河口域で、野生生物のための環境整備と利用者のための施設の開発計画を手伝ってほしいとの要請があった。しかし、当時のRSPBの財政状態からみて、そのための期間、私の派遣に必要な経費と給与はそちらで持っていただきたいと言わざるを得ず、これは中止された。
2 カタルーニャの勇者たち
一九七六年九月、ベルギーのリエージュで開かれた湿地についての国際会議で、私は講演を行った。この会議には、若いカタルーニャ人のフランセスク・ジロー、マルティ・ボアダ、ジョルディ・サーガタルによって、それまでほとんど知られていなかったスペインの北東端にあるいくつかの沼沢地、アイグアモルス・ド・ラ・エンポルダについての報告が出されていた。彼らはミンズメアについておびただしい質問をした。
翌年二月、フランセスクはRSPBに手紙を送ってきた。保護区担当部のマイク・エヴァレットは数日のうちに協力の申し出を書いた返事を出した。スペインからこれに対する返事が来たのは、なんと十四ヵ月もたってからであった。フランセスクたちはちょうど国家遺産防衛機構;デパナ(Defence of the National Patrimony)を創立したところだった。これは学術的な側面の強いカタルーニャ自然史学会を補足する活動であった。スペインからの返事の手紙には、私が出かけて行って、エンポルダの湿地が直面している都市化の脅威、水田耕作、狩猟といった問題を見た上で、政府に提出する計画を策定してもらえないかと書かれていた。「喜んで」とRSPBは返答した。
再び、スペインからの手紙は途絶えた。一九七九年の八月になって、スコットランドからいきなりむこうみずな電話が入った。フランセスクとジョルディ、そしてジョルディのガールフレンド(後に結婚)のセタ・リエナスはフェア島から戻るところだった。彼らはミンズメアが見たかったのだが、お金がなくなってしまったのだ。
この若い人たちは私たちのところに三日間泊まった。私は保護区を案内して、土地のコントロールがうまく行けばどれほどのことができるかという実例を見せた。ジョルディたちの言うことによれば、私がバルセロナ自治政庁の政治家や、地方都市の市長といった人々に私の話を聞かせてくれればとてもありがたいとのことである。私は彼らをサンディにあるRSPBの本部に送り出したが、スペインにもこんな機構がありさえしたら、と彼らはたいへん強い感銘を受けた。
カタルーニャへの私の最初の訪問は、一九七九年十一月のことだった。カタルーニャ自治政庁は、ジョーンの分の航空券も送ってくれた。ひとにぎりほどの勇敢な青年男女が、コスタ・ブラバの最北端にあるバヒア・デ・ロザスのエンポルダ沼沢地をなんとかして救おうとしているところだった。ここの湿地は確かに問題を抱えていた。わずか一一〇〇ヘクタールしかなかったが、たいへん重要な場所であることは明らかだった。ピレネー山脈の南のふもとにあり、山々はごつごつと荒々しく、地中海に向かって落ち込んでいる。まさしくコスタ・ブラバー勇者の海岸ーそのものである。フランスとの国境まではわずか三二キロ、カマ―グとエブロ・デルタの間にあって、開発や汚染にさらされていない唯一の湿地であり、西ヨーロッパとアフリカを結ぶきわめて重要な渡りのルートを通る水鳥や渉禽類に利用されていた。
重大な脅威に直面しているのは、この地域の半分を占める海岸部だった。ムーガとフルビアの二つの川にはさまれた沼沢地は、ポルト・リエバントと呼ばれる国際的な開発資本の連合体に所有されていた。この連合組織は、新興のリゾート都市であるアムピュリアブラバに付属するマリーナをこの場所に作りたいと考えていた。湖と干潟のひろがる静かで野生的なこの土地は、つい先ごろのフランコ政権当時、三億ペセタで買い取られていた。スペインの地中海沿岸地域の一部であるこの美しい土地は、この時に横領されたのも同然である。もしもこの時点でマリーナの開発計画を進めることができなくなるのなら、代償としてなんと二〇億ペセタ(一四二五万ポンド)が要求されていた。
私は地元の人たちが好きになっていた。たとえ、この人たちがいかにもスペイン人らしく手紙を書くのが苦手であるにしても、また私にとっては初めてのカタルーニャ語のせいで、ものごとがいっそうややこしくなるにせよ。新たに自治権を獲得したカタルーニャのために、何ごとかをなそうとする段になると、彼らはいたっててきぱきと行動した。スペインの裕福な自然保護省は、既に財政援助を行う用意があったが、独立したカタルーニャの自治政庁がそれを頼みとしないことは明らかだった。
彼らは私をこき使い、私は嬉々として働いた。かつて、ドニャーナのパラーショでジョーンと私が過ごした初期のころ、なすすべもなくただ待機していた時間とは、なんと様子が異なっていたことだろう。フランセスクの家族は私たちを親切にもてなしてくれた。バルセロナの広壮なアパートのみならず、市の北にあるティアナの松におおわれた丘陵地の別荘、マス・ジローでも同様である。ここではブドウ、果樹、花などを栽培しており、熱心な標識調査者であるフランセスクの弟、ジョルディ・ジローは、ここにスペイン初のヘリゴランド・トラップを作ることを計画していた。
私は干潟と淡水湿地の地域への徹底的な研修旅行に連れて行かれた。ここでは一か所で六種類もの猛禽類を見ることができて、この土地の潜在的な可能性を強く印象づけられた。秋遅くで、繁殖や渡りの季節をはずれていたのは残念だったが、少なくともツリスガラを多数見るのにはよい季節である。私は繁殖期の夏の光景を思い描くことができた。彼らが話してくれたように、アシ原や古くからの水田は、多数のムラサキサギやコヨシゴイ、ヨーロッパチュウヒ、ヒゲムシクイといった繁殖している種類の餌場になるに違いない。冬には塩水の潟に多数の鴨が群れ、渡ってきたコサギやフラミンゴが餌を漁っていることだろう。
バルセロナで、政庁の閣僚の何人かと会合を何回か持つことになっていると知らされた。カタルーニャ自治政庁が熱心に沼沢地を救おうとしていることは疑いの余地もなかった。土地購入の予算が今はまだとれないとしても、開発を中止する権限はあり、そうするつもりであると言っていた。RSPBの活動について私が講演した時、地方の新しい自然保護団体のバルセロナ市支部は、保護計画について、同様に楽観的な見通しを持っていた。
エンポルダでも、私たちはカステリヨ・ド・エピューリアス、ローザス、そしてサン・ぺレ・ペスカドールなどの市長との会合を持った。こうした人々は、湿地には狩猟、鴨撃ち、水田耕作等の場としての価値しかないと考えていた。土地を開発から除外してとっておき、国立の野生保護区域とすることで、国家の自然遺産が保護されるという考え方は、それまでになかった画期的なものだった。子供たちはこうした保護区で生きたほんものの教育を受けることができる。また、資金提供も、主として外国のバードウォッチャーから得ることができる。海岸の都市化によって地元にもたらされる利益は、短期間しか続かないものだというのは、既に教訓として学ばれていた。
カステリヨの市長は、市庁舎で行われる私の講演会で、座席の半分も埋まらないだろうというほうに一〇〇〇ペセタを賭けた。フランセスク、ジョルディ、セタと、まだ遠い過去ではない大学時代の親しい仲間たちは、警察と報道機関に顔がきいた。この会合は新聞、ラジオ、官庁のポスター、チラシ、おまけになんとパトカーのスピーカーまで使って宣伝されたものである。ホールは聴衆で埋まり、賭けはみごとに私たちの勝ちだった。イギリスでの講演会よりも多くの質問が出され、新聞にもよいレポート記事が掲載された。
ジョーンと私はカステリヨのホテル・カル・アントンに滞在し、様々な地方料理をたんのうすることができた。ウズラと巻貝の取り合わせはたいへんけっこうなものだった。アントン夫人はきれいなオランダ女性で、完璧な英語を話し、魅力的な笑顔で、いつもちょっとしたおしゃべりをして行くのが好きだった。この小さなホテルは見るからに繁盛しており、経営者の彼女は、典型的なカタルーニャ人らしく、いたってしんらつなウィットの持ち主である。私たちの計画はおおいに論議され、冗談の種になった。「ええ、ええ、もちろん、どんどんやってくださいまし。アイグアモルスをね、私たちの鴨撃ちのためにもっと改良してね」
イギリスに戻る前、私たちはフランセスク一家のスキー用の別荘に招待された。ピレネー山脈の中腹、標高一五〇〇メートルほどの山間の町、セルラーにあった。セルラーは小さな牛飼いの町で、寝室の窓からは、この地方に住むヒゲワシ(巨大なハゲワシの一種)の巣が見えた。翼開長が二・七メートルにもおよぶヒゲワシの一羽が滑空してゆくところを見ることもできた。イヌワシ、オオモズ、ベニハシガラス、イスカ、シトロンヒワ、イワスズメなど、低地では見られない種類もよく見られた。
谷を下ったところには、流れの速いエセラ川の両岸にまたがるべナスクの町があり、川にはキセキレイやムナジロカワガラスがいる。エンポルダからの長い道中は、ずっとフランセスク、ジョルディ、セタといっしょだったが、この若い人たちも鳥を見る旅をおおいに楽しんでいた。そして、私たちがまだ見たことがないガケバシリを探して見せてくれようとして、労を惜しまなかった。
エンポルダの沼沢地を守るための彼らの仕事に対して、私は熱意をこめた長い報告書を書いた。彼らはこれを書き直してカタルーニャ自治政庁に提出し、快く受け入れられた。しかし、あいにくなことに英語訳はなかった。
ポルト・リエバント株式会社は、塩性湿地の狭い部分を保護区として提供するという案を出した。これには強硬な抗議が上がった。とりわけ強力な反論は、当時の国際鳥類保護会議スペイン支部長であり、常に油断なくエネルギッシュなイムレー・ド・ボロヴィンチェニーから出たものである。彼は私たちと同じく、国際水禽研究局のマイク・スマートに手紙を出した。マイクはまだ私たちの報告書を入手していなかった。というのは、この報告書はいまだにカタルーニャ語のままだったからだ。そして、エンポルダの沼沢地がスペインで九番目に重要であり、カタルーニャではエブロ・デルタに次いで二番目に貴重なものであることを知って驚いた。スペインは、ヨーロッパで最も重要な湿地を認定し、保護にあたっているラムサール会議にまだ加盟していなかった。同じく、エリック・カープによる新しい「旧北区西部の湿地一覧」にカタルーニャのアイグアモルスが含まれていることも知られていなかった。
国内、そして国際的にも多大な関心をひいたことを受けて、カタルーニャ自治政庁は、ポルト・リエバント社の塩性湿地における商業開発について、一九八二年三月初めまで、六ヵ月間の凍結期間を設け、国際水禽研究局;IWRBと国際鳥類保護会議;ICBPに援助を求めた。ICBPは国際自然保護連合から調査隊を派遣した。W・エンゲルハーツ教授を長とする六名の生態学者が、二月に四日間にわたって現地を訪れ、私たちと同じ結論に達した。ポルト・リエバント社の計画は中止されるべきであり、彼らの土地は野生生物の保護区域とするべきであるというものだ。




