第十章 スペインの飛行ルート 6 造成現場 7 ドニャーナ国立公園
6 造成現場
新しいラグナ・アセブーチェの造成は、うまく切り詰めれば間に合うというぎりぎりの資金しかなかったのにもかかわらず、私の期待よりもはるかに大きく、うまく運んだ。提出した発展計画についての長い報告に対する回答も、同様に勇気を与えてくれるものだった。これは、私のすさまじいなぐり書きからタイプされ、RSPB本部のイアン・ブレストの秘書であるペータル・バイゲルによって配布してもらったものである。マックス・ニコルソンは、戻ってくるたびにいつも役に立つ助言や励ましの言葉を残してくれた。たとえばこんなものだ。「腕力に磨きをかけろよ」「こんなによい仕事ができた自然保護家は他にはいないんじゃないか」
マックスはまさに正しかった。重機のあらゆる騒音にもかかわらず、鳥たちは新しい潟が気に入ったことをはっきりと示してくれた。ノスリ、トビ、アカトビ、時にはカタジロワシといった大型の猛禽が二、三日に一度は姿を見せて、低く輪を描いて飛んでは様子を監視している。ヤツガシラは根こそぎひっくり返された樹木が残した穴に曲がった嘴をさしこんだ。何よりもよかったのは、一つがいのコチドリと二つがいのイソシギ、そしてハチクイ一つがいが、それぞれ「翌年の」繁殖に向けて用意された特別な環境で、はやばやと営巣してくれたことである。
五月一八日、私が帰る日が来た時には、新しい潟は三六ヘクタールに達していた。カナダでロデリックと会い、ジョーンと合流することになっていた。今ではRSPBの土地利用アドバイザーとしてあちこち自由に出歩くことができる身分でもあったので、もし可能であれば、ぜひとも残りたいところだった。計画の変更はできなかったが、彼らは秋にまた戻ってくるようにと言ってくれた。仕事の締めくくりは自然保護省のラモン・コロナ―ドがやった。
新しいラグナ・アセブーチェはまだおそろしく粗削りのままだった。しかし、この地方の気候では、傷だらけの大地は早くも翌年には低木のしげみにおおわれることを私は知っていた。何万本ものアシ、ラッシュ、スゲ、アイリスなどの根茎を私は外の地域から集めてきて、そのために用意した浅い部分に移植した。こうした植物は根づいて開水面を減じるはずである。
これについては若干の異論があった。自然保護省の人々は、開けた大きな湖を望んでいたからだ。部下たちに話す時のように、私はこんな言い方で説明した。「ロス パエリョス ノ アニデン エン エル アグア(鳥は水の中には巣が作れないよ)」 中でもヨーロッパセイケイやコヨシゴイなど、誰もがここでの繁殖を期待しているような種類はなおのことだ。
湖の水深は、カイツブリ類やカオジロオタテガモ、その他の潜水する鳥のための二・五メートルから、渉禽類や他の多くの水鳥のための一〇センチに至るまで、さまざまだった。松のしげみが四ヶ所、それぞれ島として残され、縁にはサンザシを植えて、小型のサギ類や白鷺類が繁殖に利用できるようにした。他の島には丈の高い植物が生えないよう、プラスチックのおおいがかけられた上に砂利が敷かれて、チドリやアジサシが営巣できるように作られた。草におおわれた表土の一部はとっておき、巣をつくる時にカバーが必要な鳥たちのための島の表面に敷いた。
水位のデータは、冬の終わり、湿地の植物があるところでとったものだ。この場所が干上がると、掘削機の一台がものすごい傾斜角で用いられて、地下水面に達するまで、泥と砂を通して穴を掘った。この穴は地下水の季節変化をモニターするために使われる予定である。音が静かな電動ポンプが四台、近くてひと目につかない場所に据えつけられた。自然保護省とアウヒオブラ社の水文学者は、この水が常時利用可能だと請け合った。
掘削された二〇万トンにのぼる砂の一部は、九〇〇メートルにわたる堤防を築くのに用いられた。これは目隠しと、五ヶ所のハイドの場所になった。砂の残りはゆるやかなスロープの造成に使われ、この土地本来の種類の灌木が植栽された。
私は三〇〇〇本にのぼるユーカリを切り倒し、大きいブルー・ガムはウエルバのセルロース会社に売ったことに対して、何の良心の呵責も感じなかった。水を大量に消費するこの木々は、故郷のオーストラリアにあってこそ好ましいものだが、北のこの生態系にとってはよそものである。葉先から落ちるしずくは有毒で、林床植物の生育を妨げるため、土壌流出をひきおこす。しかし、アンダルシア人は太陽が好きではなかった。地元の林業従事者は教会の門戸を叩いて、木陰をおびただしく刈りはらってしまった「きちがいイギリス人」に文句を言った。
地球の反対側に生える七〇〇種にのぼるユーカリのうち、スペインは一〇〇種を四〇万ヘクタールにのぼるさまざまな環境に植えて試した。アセブーチェでは小型種のレモンユーカリが楽しいしげみを作っていた。レモンの香りがする赤い花をびっしりとつける種類で、蜂がたくさん集まる。コルク樫の樹皮で仕切られた一連の蜜蜂の巣箱は、この地方ではふつうに目にするものだ。ジャムのびんにひしゃくで汲み入れられる粗製蜜は安くて、ブランディも安価だったので、毎晩仕事から戻って私がまずやることは、これでホット・トディを作ることだった。
こうした種類は役に立つユーカリで、鳥たちのよい採餌場になった。ごく少ないビッグ・ガムの一本では、カンムリガラのつがいがヒナを育てていた。この木は、主だったオブセルバトリア(観察舎)の木陰のためにとっておいたものだ。外来種であることは承知していたが、例外的な希少価値と美しさから、残しておいてもよかろうと考えた。しかし、この年のもっと後になってから、自然保護省は他の在来種でない樹種のやぶとともに、こうした樹木もすべて一掃し、アメリカ合衆国以外では最大規模のビジター・センターの用地を確保した。
7 ドニャーナ国立公園
自然保護省の友人であるコロナ―ドやギャレイとともに、私はドニャーナ国立公園をめぐる長い旅行に出かけた。他の地域について、野生動物や利用者のための改善ができるかどうか、現場で討議するためである。生息環境はすばらしく変化に富んでいた。内陸部では、古めかしくしつらえられたパラーショ・アセブロン(博物館として使われる予定だった)から川が流れ出して、森に囲まれ、アシにふちどられて、エル・ロシオへとくだっている。ここには規模が小さく実用的な道路と、目隠しのあるハイドが必要である。美しい農場の建物、ラ・ロシーナは第二のビジター・センターにぴったりだった。この建物はエル・ロシオの橋のそばにあることから、よく利用されることになりそうだった。マドレ川はここで川幅を増し、マリスマスの淡水の入り江を形成していて、ヨーロッパでも最もよく知られた探鳥地のひとつになっている。
この他にも、サブ・センターとしてよさそうなところがあった。パラーショの南の森林の中にあるラ・マリスミラで、グアダルキビル川の河口に近い場所である。ここではワシが繁殖しており、イノシシ、アカシカ、ノロジカなども、いつも少なからぬ数を見ることができた。この場所にたどりつくには、ランドローバーで海岸線沿いを走るというぞくぞくするドライブが必要だった。高い砂丘をこえてマリスミラの浜辺に下ると、数百羽、しばしば数千羽にものぼるフラミンゴが採餌しているのが見られる。
北からコート・デル・レイを通って、おびただしいヤツガシラやハチクイ、オナガ、もっとおなじみのアオガラなどを見ながら、広大な沼沢地の中央部にたどりついたところで、私たちはルーショ・エル・ロボと近くにある農場を眺めた。この場所は、利用者が一泊するのにちょうどよい、わくわくするような宿泊施設にできるはずだ。夏にはあらゆるものが乾燥して土ぼこりと化してしまうので、私は掘り抜き井戸で常時水を供給し、堤防をめぐらせた広いスクレイプを計画した。この水源は、フラミンゴ、ヘラサギなどの他、数多くの水鳥が利用するような浅瀬を冠水させるためにも使えるはずである。
ラグナ・アセブーチェでのポンプの導入が遅れたため、私がドニャーナに戻ったのは、翌年の二月になってからだった。ドニャーナへ向かう途中で、私はマドリッドで三日間をすごした。ペペ・マヨルガと会い、自然保護省本部での会議に出席し、また、バルベルデの友人で、ドニャーナについて同様に情熱を傾けているイムレー・ド・ボロヴィンチェニーと話した。
アセブーチェに到着してみると、私の新しいラグーンは、満水になるには二五センチも水位が低かった。この新しい地勢に対して必要な調整方法を考えるのは、少々難しいことだった。それよりはるかにがっかりさせられたのは、自然保護省の監視人たちの馬が、前年にあれほど時間と経費をかけて植えた水辺のアシやラッシュの芽生えを食べていることだった。かんかんになって、すぐに馬をどけるようにと言うと、彼らは感情を害した。
「馬や牛は草が生えれば食べるものですよ、セニョール。それに糞は植物にとってよい肥やしになるでしょうが。ノ(違いますか)?」
シ(まさにさよう)。しかし、この特別の場所では、希少な鳥が巣を作るため、カバーになる植物を育てようとしているのだ。放牧によって植生をコントロールするのは、広大なマリスマスに出ればたいへんけっこうな方法である。しかし、そこでは動物はフェンスによってコントロールされている。
いくつもの会議に出るため、私は五月中旬にマドリッドとセヴィリャにもどった。ホセ・ルイス・アボアル、カマ―グのルーク・ホフマン博士、ペペ・マヨルガ、マックス・ニコルソン、ファン・デ・アイズプール、ゴンメルシンド・ボレロ、アントニオ・カモ―ヤン、そして公園の管理者代理であるラモン・コロナ―ドといった面々を含むドニャーナのマスター・プラン作成グループが構成されていて、むろんアントニオ(トノ)・バルベルデ教授もいた。私がやった仕事は自然保護省のためであり、トノの生物研究ステーションのためのものではなかったが、その成果を見に来てくれたのだ。生物研究ステーションでは、パラーショの近くに新しく囲われた湖をいくつか作っており、これらはとてもうまく発展していた。
この年の八月、専門家の団体が私の新しい潟の視察に来た時、水位はちょうど適正な状態になっていた。ところが、鳥はほとんど一羽も見られなかった。監視人長が報告したことによれば、地方の自然保護省の生物学者のひとりが、私たちが到着する直前に、湖ぜんたいにわたって馬を泳がせたとのことだ。私は管理についての長いレポートを書いた。
ペペ・マヨルガは、ファン・カルロス国王の臨席をあおいで行われる国立公園の公式な開園式に出席するようにと手紙で言ってくれた。これは、十月にアセブーチェで行われる予定であった。しかし、この偉大な祝典は実現しなかった。こうしたことには慣れなくてはならない。
続く何年かにわたって、私は春ごとにドニャーナを訪れた。巨大な新しいビジターセンターのなかで、いちばんよいことの一つは、受付の机を美しくいろどっているセニョリータ・メルセデス・ロザーノの存在だった。彼女自身も親しい間柄であるマヨルガと同じく、この人も流暢に英語を話すことができたし、これもマヨルガと同様に、私がなにか書きものをしなくてはならない時には、いつでもすぐに手伝ってくれた。ただし、彼らは例外的な存在で、スペイン人は概して手紙を書くのが苦手であり、たいていは、最後の瞬間まで電話で用件を済ますのが普通だった。
最初の三回の訪問で、私は新しいラグナ・アセブーチェの状態を見てうれしく思った。島も岸辺も、植物の分布といい、水位といい、すべて私が望みうる最上の状態であった。五ヶ所のハイドからは、新しく繁殖するようになった鳥たちのすばらしい光景が眺められた。ハジロカイツブリ、コヨシゴイ、アカハシハジロ、ヨーロッパセイケイといったもろもろの種類である。自然はその本分をつくし、私たちがつけた傷跡をすべてカバーしてくれた。そこには動物園のような雰囲気はどこにもなかった。今や、計画に従って管理を行い、コントロールされ、保護されたこの場所で、鳥やその他の動物を増加させ、種類を増やして行くことが確実にできるという状態ができあがったのだ。
ああ、しかし、なんということであろうか。「ひどいものだよ」 何年か経つと友人たちは言った。「コートはどうなってしまったんだろうか」
春ごとに多く、より多くの会員の団体をいくつもドニャーナへと案内しているRSPBの開発担当者、トレバー・ガントンが、くわしく様子を話してくれた。新しくできたこの有名な国立公園へぜひ行ってみるようにと私が勧めた他の友人たちも同様であった。ラグナ・アセブーチェでは、管理が重要視されていないことが明らかだった。開水面をおおう植生はふえすぎるままに放置され、利用者は好き勝手にふるまっているようだった。目隠しとして造成された南岸の土手の上を人が歩いていたし、ハイドの上や真正面に座り込む人もいた。開けた対岸に沿って人が移動することに対しても、何もコントロールがされていなかった。ここは制限範囲外だったのだ。
私には何ができただろうか。いいや、私はこうしたフォローアップの作業が欠けていることに対し、とやかく口をはさむことをもはや断念していた。他の場所でも何度となく目にしたことだ。カタルーニャ、マルタ、香港その他、もっと活発なプロジェクトのために、私は忙しく過ごしていた。




