第十章 スペインの飛行ルート 3 紆余曲折 4 ラグナ・アセブーチェ 5 エル・ロシオの巡礼祭
3 紆余曲折
ドニャーナの将来について、開発側と保護側の激烈な論争は何年にもわたって続き、報道機関は賛否両論を展開していた。一九七三年の夏、沼沢地でカモ、サギ、ヘラサギ、フラミンゴ、シギ・チドリ類などの水鳥が五万羽にものぼる謎の大量死をとげるにあたって、マスコミは一斉に書き立てた。大量死が起きた三ヵ月後になって、ボツリヌス菌が検出されたため、政府はこの事件が自然災害であると主張した。しかし、多くの人々、中でもマドリッド在住のジャーナリストでナチュラリストでもあるイムレー・ド・ボロヴィンチェニーなどは農薬被害説を唱えた。この人の主張は、水田から有機リン系の農薬が流入したことが多数の水鳥の死を招き、その死骸が腐敗して、浅い水域の汚染された植生とともに、ボツリヌス菌の増殖と拡散に絶好の状態を作り出したというものである。
マリスマスで、これとは別に、農民が鳥の大量虐殺をひき起こしたとして、実際に裁判にかけられたのは、ようやく一九八八年春になってからのことであった。結局のところ、ヨーロッパ会議が一九八五年九月にドニャーナ国立公園に対してヨーロッパ地域自然遺産賞を賦与したことから、こうした歴史的な方向転換が行われたことになる。
一九七一年、この不完全な形の国立公園は、新しく組織されたスペイン自然保護省;ICONA(Instituto National para la Conservation de la Natiraleza)の管轄下におかれることになった。農林大臣が統括する省であり、狩猟や釣りの免許交付、広大な松やユーカリの森林の売却などによって豊かな財源を持っていた。
自然保護省と、バルベルデの門下生であるファビエル・カストロビエリョ博士が引き継いだ生物学研究所との協力体制が必要な情勢になってきた。他の団体のいずれもがそうであるように、どちらもそれぞれドニャーナの保護についてのマスター・プランを持っていた。
土地は所有者から買い上げられるべきであり、境界線は緩衝帯によって広げられ、かつ守られるべきである。生息環境は、野生動物のためにも、科学的研究のためにも、改善する必要がある。また、絶対に必要とされる厳正な科学的研究のための地域―これには、今ではWWFによって購入された三二〇〇ヘクタールにのぼるグアディアマルの飛び地も含まれていたーをのぞいて、料金を払う来訪者の大々的な利用に備える施設の整備も必要である。
これはおそろしく複雑な仕事であった。あらゆる計画の統合は、マックス・ニコルソンの手に委ねられた。
いよいよものごとが動き始めた。自然保護省の長であるホセ・アボアルが、二人の鳥学者、ラモン・コロナ―ド、ファン・ギャレイとともにマドリッドからRSPBを訪れたのは、一九七七年の冬のさなかである。RSPB本部職員のマイク・エヴァレットといっしょに彼らはミンズメアを訪れ、どのように仕事が行なわれているかを視察した。
翌年二月、スペイン政府の招請と、WWFによる経費提供によって、私はマドリッドに赴き、WWFスペイン支部の理事であるホセ・マヨルガとともに滞在して、イムレー・ド・ボロヴィンチェニーに会った。次いでセヴィリャに行き、プラザ・エスパーニャに置かれた自然保護省の豪華な地方本部で四日間を過ごした。ここで、自然保護省のおえら方とマックス・ニコルソン、トノ・バルベルデ、そして私は美しく描き出された計画について話し合った。
ようやくのことで、私たちは現場に出てドニャーナへ向かい、マリスマスの西のへりにあたるカーサ・デ・ラ・アルガイダ付近の土地の視察に数日間を費やした。ここは自然保護省の所有地ではなかったが、あらゆる鳥があふれた新しい湖と、これを見るためのすぐれた観察ステーション、そして大きなビジター・センターの建物とを兼ね備えた、高名なリザーブ・センターになるはずだった。私は利用できる生態学的要素に基づいて、どのようなものができるかを計画しはじめた。
マックスはお別れのあいさつでこう言った。「我々は何年も何年も論議を重ねてきたんだ。バート、あとは君にかかっているよ」
4 ラグナ・アセブーチェ
計画は形をなしてきた。ところが、突然、まったく新しい別の場所が選定されることになった。セヴィリャの自然保護省本部が、リザーブ・センターは自己の所有地に作るべきだと決定したのだ。この場所は広大なユーカリの森林のひとつの中にあり、せまい馬の牧場があって、冬には水がたまる場所である。新しく植林された何百万本もの樹木や、近くにできたマタラスカーニャ海岸リゾート地域のために地下水位が下がる前には、この小さなラグナ・アセブーチェ(野生オリーブの潟)は水鳥の繁殖のためにちょうど手ごろな場所だった。繁殖する鳥にはカオジロオタテガモ、ヨーロッパセイケイ、アフリカオオバンなど、スペインでは現在は稀になっている種類も含まれている。
ここは、開発するには経費がはるかに多くかかる場所だった。しかし「経費は問題ではありません」と言われた。私は自分の耳が信じられなかった。そんなことがあるわけがない。どこかにきっと落とし穴があるはずだ。
たしかに落とし穴は存在していた。あらゆるものごとは、大至急、それもなんとすぐさま、この春のうちに行われなければならなかったのだ。
私の宿舎、自然保護省のカーサ・フォレスタルは、マタラスカーニャのへりにあった。マタラスカーニャは新しく開発されたリゾート地の典型らしく、ありとあらゆるものが、目下工事中というありさまであった。宿舎である別荘には掃除と私の夕食の調理をしてくれるメイドさんがいて、ありがたいことには、ドニャーナの広大なヒース地帯のすぐ隣に位置していた。庭にはセリンが巣をかけており、朝、仕事に出かける時には、垣根のいつもの止まり場でピンク色の胸をしたオオモズがさえずっていた。夕食の時は、アカエリヨタカの深い二音節の歌が聞かれた。
夕方になると、まだ肌寒かった。庭で薪を集めていた時、落ちた笠松の枝にいたシシバナマムシをおどかしたことがある。自然保護省の人の話では、前の年、ここで同じことをしていて、鈎のような鼻をしたこの小型の蛇に幼い息子さんがかみつかれ、あやうく死ぬところだったそうだ。もっと注意しなくてはいけないと心得ているべきだった。一九六六年、パラーショで私の固いブーツにかみついた一匹が、つまさきに二滴の毒液を残したこともあったのだから。
作業は三月二日から始まった。私は自分のペースで仕事を進めることができた。わが作業部隊は超過勤務でも熱心に働いてくれた。往々にして、私たちは文字通りの意味で、週に六日、日に十一時間、いそいそと楽しく仕事に取り組んだ。
アウヒオブラ社からやってきた三〇名の重機のオペレーターは、ウエルバに住む建設技術者たちであり、二四台のブルドーザー、バックホウ、バケット・ローダー、地ならし機、ダンプカーを操って、最終的にはこれまでいっしょに働いた人々の中でも最高の働きをしてくれるようになった。
ミンズメアのスクレイプで、ブルドーザーをかけている時に、ジョー・ブロックが「そいつは無理だな」といつも言っていたように、私が困難な仕事を持ち出してスペイン魂を刺激すると、彼らもまた「不可能ですよ」と言った。そして、マキニスタ(オペレーター)は、なんとも賛嘆すべきむとんじゃくさで、二五トンもある巨大なユンボーで深く水がついた穴に踏み込み、さらに深く掘るのだ。泥にはまった重機を救い出すために、時には四台もの重機をつないでひっぱることもあった。
こうした作業には、陽気さと、闘牛士にも似た勝利への心意気があった。彼らの熟練、そしてプライドは、驚くほど仕事に役だった。たとえば表土と草を一五センチの厚さではぎとり、まるでスイスロールでも作るような具合に丸めて、この細長い芝土を新しく掘ったところにふたたびていねいに敷き戻すというような、器用な作業までやってのけてくれた。水が入ったあかつきには、この腐植土の床は、すみやかに食物連鎖の基礎になってくれるわけである。
朝食は一〇時ごろ、そして昼食はだいたいお茶の時間ごろになった。トーストにはトマトとにんにくが塗られ、オリーブ油に浸してある。彼らは香り高いユーカリの青葉であぶった豚肉の厚切れを私にくれた。油や脂肪が胸を伝って流れる始末だった。生のままの赤ワインもそうだった。私には、細口びんからあふれるワインの流れをうまく扱うことがどうしてもできなかった。
切り倒したばかりの木に腰かけ、技術に誇りをもった男たちに囲まれて、まわりからは様々な種類の小鳥の歌が聞こえてくる。イギリスでは。まず聞かれない種類の鳥たちだ。こんなに楽しい食事はなかった。
こうした仕事に必要な特別の言い回しを十分にこなせるようになるまでは、私は片手に辞書、片手にスケッチ板を持って、重機から重機へと動き回らなければならなかった。自然保護省がつけてくれた通訳兼運転手がちゃんといるにはいるのだが、セヴィリャの役所のおえら方の仕事のためしばしばいなくなってしまうのだ。こうしたおえら方が一人ふたり視察に来ることもあった。
私の部下たちが、おえら方に私の指示と違うことを命令されたと文句を言った時、私は一日勝手に自主休暇をとると宣言した。ダンプカーの運転手の一人の自宅に泊めてもらい、翌朝、監視人長のホセ=マリアと私の運転手のマヌエル・セグラが、コート・デル・レイを通ってマリスマスの中央部へと連れて行ってくれた。そこで馬を借りたが、馬に乗っていると、フラミンゴの大群に近づいて写真をとることができた。
私が失踪している間、電話がじゃんじゃんかかってきたそうだ。これでもう、よけいな干渉を受けることはないだろう。翌朝、私が作業現場につくと、部下たちはみな木の下で待っていて、立ち上がって拍手で迎えてくれた。
5 エル・ロシオの巡礼祭
もう一度、とらざるを得なかった休暇がある。精霊降臨節の巡礼祭の五日間である。近くの村、エル・ロシオまで家族による巡礼行が行なわれる。これには、全員がアンダルシア西部出身である私の部下の家族たちも含まれていた。人々の多くは、花で飾り立てた牡牛にひかせた荷車でやってきていた。このお祭りの眼目は、目に入るかぎりの人々とワインを酌み交わすのと同様に、大聖堂ほどの規模を持つ大きな教会で、子供たちに祝福を受けさせることである。
この年、教会の正面玄関の上の張り出しに一つがいのシュバシコウが巣をかけており、誰もがこの吉兆を喜んだ。その真下にあたる教会の扉のところで、たくましいアンダルシアのお父さんたちが、まくり上げたむきだしの腕にロケット花火を抱えて打ち上げた。花火はちょうどシュバシコウの巣の高さあたりで爆発し、座っている鳥はその度に飛び上がった。シュバシコウは繁殖をやめてしまったが、誰も気にかける人はいなかった。
ペペ(ホセ)・マヨルガは、このお祭りのためにマドリッドから来ていた。彼の数多くの友人の中には、醸造メーカーの長老、ドメック氏もおられた。お祭りの最後の夜、私はこの偉大な長老の城館に招待された。名のとおった旧家は、このお祭りのためだけに、エル・ロシオに館を持っている。私たちは歩道に座りこんで、真夜中まで名高いドメックのシェリー酒を酌み交わしながら、色あざやかな行列を眺めた。数分ごとに、セヴィリャ人たちの即興の歌や踊りがはじまる。複雑な三拍子のフラメンコのリズムに乗って、初めての人間もいつのまにか自分から陽気に手拍子を打ち始めている。
鳴り響く笛や太鼓、手拍子に波打つ腕。腰をひねり、胸をつきだし、優雅なフラミンゴへの田舎風の賛辞といった風情の踊り。毎日毎晩、これが続いた後でもあり、さすがの私もしりごみしてしまった。私のような北方の人間には、少々刺激が強すぎた。とりわけ、胃が空っぽの時にはなおさらである。真夜中になって、朝六時には起きなくてはならないので失礼したいと言うと、すぐに晩餐の時間だから、もう少しいなさいとひきとめられた。
エル・ロシオに来ていたマヨルガの友人の中には、美しい若いポルトガル人のドニャ・クリスティナ・ド・ブルボン・ド・オルレアンセ・ブラガンサ王女もおられた。彼女のご一家の所領のひとつがエル・ロシオから一〇キロほどのところ、マリスマス北端のコート・デル・レイにあった。彼女は自分の城館まで車で連れて行ってくれた。戸外で昼食をとった中庭には、やわらかな美しい色合いの石壁とはおよそ不調和なブーゲンビリアが、恥ずかしげもなくどぎついピンクと紫の花をびっしりとつけていた。
城館の管理人に伴われて、私たちはこの土地の探鳥に出かけた。南アンダルシアでもっとも静かな地域のひとつというべき場所だ。城館に木陰を作っている丈高いブルー・ガムの木立には、二五つがいものシュバシコウが巣をかけている。つがいのカタジロワシがヒナを育てている巣も見ることができた。生まれて間もないアカシカの子を見つけたが、ローズマリーとハリミウムの繁みの中にじっと動かずに横たわり、おびえたように大きな目を見開いていた。
私たちは、まちがいなく近くにあるはずのイシチドリの巣を探してみた。彼女がようやく探し当てた二個の大きな卵は、地面とそっくりな保護色で、なんと背の高い松の幹をすぐ背後にひかえた土地のけずりあとにあった。砂地にパルメットヤシがはえた荒れ地から、チャムネミフウズラが飛び立った。これまでにただ一度、ウガンダでジョン・ウィリアムズといっしょにちらりと目にしたことがあるだけの珍鳥だ。彼女のところの管理人がどこで見られるか知らなければ、ウズラに似たおそろしく見つけにくいこの種類をちゃんと自信を持って見ることなど、とうていできなかったに違いない。
この愛らしいレディといっしょに過ごした日はたいへん楽しいものだった。彼女はプリンス・ジョン・ポール・サビーハと婚約していたが、この人はジョーンに言わせれば、これまでに会った中でも最高にハンサムな青年である。翌年、彼らがウェスルトンに会いに来てくれた時、ジョーンはそう言ったものだ。ミンズメアは「エスツペンド!じつによい」であった。彼らのご一家は結婚式の招待状を送ってくれた。しかし、いかんせんリオ・デ・ジャネイロは少々遠すぎた。
日曜ごとに、私は自分でチャムネミフウズラを探してみようとしたが、まったく望み薄だった。自然保護省のセヴィリャの事務所では、この種類が私の宿舎である別荘のそばで、もちろん違法に撃たれたという話を聞いた。きわめて貴重な標本にするため、彼らはなんとこの鳥を買い上げなくてはならなかったという。
事務所の監視人のひとりは、アルモンテでオオヤマネコの剥製が売りに出ているのを見かけた。まったくの違法行為だが、ただ単にこの美しいものを所有したいという気持ちから、彼はこの剥製を買った。そして得意満面で、私に写真をとってくれるようにと頼んだ。ヒースのところで台座を砂に埋めて撮った写真は、実に真に迫ったものになった。




