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第十章 スペインの飛行ルート  1 コート・ドニャーナ  2 待機の間に

 ミンズメアの仕事が保護区管理のお手本のようになってきたころ、スペインのコート・ドニャーナをはじめ、あちこちの保護区での計画策定や実際の現場作業にかかわることになりました。いよいよ世界へ!

第十章 スペインの飛行ルート


   1 コート・ドニャーナ


 スペインの鳥学者の指導的位置にあるホセ・アントニオ・バルベルデは、一九五二年、一〇日にわたってコート・ドニャーナに遠征した。この一〇日間で、バルベルデは千羽をこす各種のサギ類のヒナに標識足環をつけることができた。しかし、もし次の年だったとすれば、これほどの数がこなせただろうか。

コート・ドニャーナはヨーロッパでもっとも重要な湿地だが、汚染、銃猟、収集といった脅威が増大していた。もっと悪いことには、いわゆる「泥しかない捨て地」とされた湿地の排水、そして「土地改良」が、開発を推進する人々から強く要求されるようになっていた。こうした問題を、この人は誰よりもはっきりと気づいていた。


 アンダルシアのグアダルキビル川の三角州にある沼沢地は、百万年もの間、野生動物の安全地帯となっている。大西洋へとつながる川の河口が太古の昔に砂丘によってふさがれ、巨大な湖が形づくられて、自然の手でシルトがゆっくりと堆積され、砂が吹き寄せられていった。その一方で人間は近代的な排水工事によって、きわめて急激に湿地を二四万ヘクタールにまで減少させた。今では川の左岸の低地のほとんどは耕作地にかわっている。

 川の対岸にはコート・ド・ドニャーナの「マリスマス」がある。一年の大半は塩気を含んだ泥の浅い潟になっているが、夏には灼けつくような暑熱に焦がされて乾燥し、ほこりっぽくなる。いくつかの「ベータ」(地面で営巣する鳥によく利用されている低い島のこと)には植物が枯れずに残り、わずかな「ルーショ」(深い水たまり)は水気を保っている。北と西にある安定した砂地には広大なヒース地帯が発達し、花をつけた灌木が密生して、コルク樫、オリーブ、笠松などの木立が点在している。南西に向かうと、砂がむき出しになった小高い砂丘が連なり、はるか彼方に水平線が輝いているのが見える。砂丘の間には静かな小さい森があり、深くて湿った「コラーレ」を隠している。

 コート・ド・ドニャーナは広大で豊かな変化に富むサンクチュアリで、生息する脊椎動物だけでも一八〇種類をかぞえる。中には個体数が少ない地中海産亜種のオオヤマネコや、もっと希少なイベリアカタジロワシも含まれている。一五万羽にのぼる水鳥が越冬しており、このうちの三分の一はヨーロッパの全個体数の大半を占めるハイイロガンである。

 バルベルデは、きわめて重要なコート・ド・ドニャーナの保護を情熱の対象としていた。この人はおおかたのスペイン人よりもエネルギッシュな行動力をもっており、有力者として影響力をもつ知人にも恵まれていた。たとえばドニャーナの大地主のひとりで、シェリー酒で有名なマウリチオ・ゴンザレスのような後援者を得ている。

 こうしたことから、ドニャーナの保護は速やかにヨーロッパ全体の関心を集め、多方面からの実質的な援助をうけることができた。ガイ・マウントフォートの指導によって、この地域の調査旅行が一九五二年・一九五六年・一九五七年に実施されたことも宣伝の役割を果たした。財政援助として最も重要なものは、新しく結成された世界野生生物基金(WWF;一九八八年に世界自然保護基金と名称を変えた)による一〇〇万ドル、そしてスペイン政府科学技術省(Consejo Superior de Investigaciones Cientificas)による七〇万ドルである。この資金で、六九〇〇ヘクタールの土地を購入することができた。一九六四年十二月二四日にドニャーナ生物保護区が創立され、バルベルデ博士は創立者にして理事長となった。

 一九六五年五月、ピーター・コンダ―とスタンリー・クランプは、WWFのために一週間にわたるこの地域の視察旅行を実施した。視察を通じて、研究のためだけに保護区を運営するのではなく、野生生物の生息環境を適切に管理し、また料金を払う利用者の興味をひくように運営するためには、行うべきことはまだたくさんあるということがわかった。バルベルデ自身が(ご本人からの意見)まずミンズメアを訪れて、私たちがやっていることを見るべきだというのも、こうした提案の一つだった。彼はミンズメアに一週間滞在し、東アングリアの寒さに震えながらも、周囲にまで熱意を放散させていた。


 一九六六年三月半ば、ジョーンと私はセヴィリャに出かけた。国際生物プログラムの資金によるもので、議長であるマックス・ニコルソンを通じて得られたものである。バルベルデのオフィスで指示を受け、秘書のイグナチア・ド・バスタマンテ(呼び名は「ナチイ」)といっしょに食料を買い込んでから、私たちは野生の中へと出発した。

 人里離れた古い城館パラーショを宿舎として、すばらしく楽しい二か月間を過ごすことになった。おびただしい鳥があふれんばかりの沼沢地が東の地平線へとひろがり、城館は沼沢地がはてしないヒース地帯へと移行して行く場所にあった。ヒース地帯の香り高い叢林にはイノシシや鹿、オオヤマネコがひそんでいた。

 この場所こそ、世に名高いコート・ド・ドニャーナであった。ドンナ・アンナの狩猟場であったことからつけられた名である。中庭を囲む形の正方形をした二階建て城館は、一六二四年に当時の国王フィリップ四世によって建造されたものだが、一六世紀に建てられた貴婦人のロッジが、小規模ながら城館の基礎をなしている。

 当時の人々は、馬と槍を用いた伝統的な方法で狩りをした。床はタイル張りで、オーク材のはりが突き出した部屋には、枝角のある鹿や牙をむいた猪の頭がかけられ、悲しげな目で凝視していた。大きくて広々とした暖炉で薪が炎を上げているにもかかわらず、夜はしんとして静まり返り、寒かった。夜のしじまを破るのは、黒々とそびえるユーカリの木立の中で鳴くコノハズクの単調な声だけだった。間違いなく幽霊が出る、と感じたものだ。幽霊のうちのひとりは、ゴヤの「裸体のマハ」のモデルになったと一般に信じられているアルバ公夫人で、人里離れたこの土地の出身であった。彼女の幽霊が一七九七年の過去から戻ってくるというのは、なんと定説になっているのだ。

 自然保護会議の指導的な地位にあるマックスは、ダンジネス地代から私たちをおおいに勇気づけてくれたものだが、「ドニャーナ保護区の発展計画、および常駐の科学者と利用者のための自然保護管理システムの確立を手伝う」という私の職務を定め、四〇〇ポンドにのぼる資金を用意してくれた。しかしながら、滞在期間の終了に際し、私は資金のほとんどを使うことができないまま、持ち帰ることになった。こうしたい、と考えたことの概略を現場で説明すると、スペインの人たちは言うのだ。「ええ、セニョール、できますよ」 しかし「マニャーナ(明日にでも)」とつけ加えられた時には、「来月には」という意味になり、いくら早くても翌月か、もっと後で、ということになる。

 おもに外国からだが、利用者が小グループで訪れることがあった。この人たちは、ステーションのトラクターの荷台に乗って、各種のサギ類やヘラサギが繁殖している大きなコロニーへと運ばれる。コロニーは近くのオークの古木や灌木林の中にあり、たいていの人は写真を撮りたがっていた。しかし、人が見る位置はコロニーに近すぎた。人間が近づいたためにコロニーが攪乱され、コクマルガラスに襲われたり、太陽にさらされたりしてヒナが死ぬのを避けるため、私はまずわき道と、「通行禁止」の立て札を作った。

 のんびりしたセヴィリャの業者から資材がようやく届いたのは、滞在期間もあと一〇日を余すのみという時期だった。私はパラーショから歩いて一時間のところにあるラグーナ・ダルスにハイドを一か所、なんとか作ることができた。RSPB方式の座席が八つあるスペイン最初のハイドは、作るのに四〇ポンドもかからなかった。時間がないため、熱に浮かされたように働かなければならなかったが、暑い太陽のもとで、上半身裸になってのこぎりでひき、ガンガン叩き、仕事をするのは面白かった。コヨシゴイ、アフリカオオバン、トビといった鳥たちは、私が毎日湖岸で作業をしているのを見守り、受け入れてくれた。

 アントニオ(トノ)・バルベルデは、ハイドができたのを喜んで、ここを「トーヨ・エリベルト(ハーバート沼)」と呼んだ。もし、アプローチ路に必要なスクリーン(目隠し)をアシで作る時間があったら、もっとずっと役に立つものになったことだろう。フィールドと論文に日々を送ってきたこの人は、砂丘―ヒースー沼沢地の相互に依存している生態系の動態について話してくれた。ドニャーナは彼の生命であった。

 他の二ヶ所のハイドは製図版の上に残された。堤をめぐらせ、掘り抜き井戸で水位を保つ予定の浅い池という私の構想も同様であった。鳥のコロニーの存続に必要不可欠なものとなるコルク樫の世代交替は、根を掘る猪や若木を食べる鹿によって妨げられている。遠い将来のこととは言え、こうした動物が入れないよう、コルク樫のまわりにはフェンスを設けるべきであった。淡水の水たまり、ルーショの岸の一部もフェンスで保護し、水鳥の営巣に必要なアシやラッシュが広がるようにしなくてはならない。ステーションを資金面で援助してもらうはずの利用者の増加に対しても、よい調整の方法を工夫しなくてはならない。

 なすべきことはたくさんあった。ミンズメアに帰るべき時が来た時、私にできたのは、こうしたことをすべて報告にまとめることだけだった。



   2 待機の間に


 本来の仕事が十分に進められなかった分、ジョーンと私には、木陰に座ってドニャーナのすばらしい鳥たちを見る時間がたっぷりとあった。ほっほーっ、すてきなものだ。シベリアのタイガからこの沼沢地に越冬のために渡来したシロハラチュウシャクシギをなんと三羽も見たが、こんなことはもう二度とないだろう。一九九〇年以来、この種はほとんど記録されていない。

 ある暑い日、私たちはトノといっしょにトラクターに乗って、三〇メートルの高さにそびえたつ砂丘を越えて海岸に出た。漁師が珍しいタイマイを捕ったというので、見に行ったのだ。漁師と奥さん、一〇人の子供たちが、夏用の家の長い草ぶきの小屋からぞろぞろと出てきた。水ぎわでは、渡り途中のミユビシギやニシトウネンがエネルギッシュに走り回っていた。ミヤコドリ、アジサシ類、カモメ類・・・・

「見て!あれはシロハラチュウシャクだよ!」

 いくつかの群れにわかれてじっと休息している鳥の中には、セイタカシギ何羽かと、信じられないことにはニシブッポウソウが一羽いた。アフリカからの長旅で疲れきってしまったのだろう。

 二六キロにわたってのびる砂浜と砂丘に視線を走らせたが、他にはこれといってなにも見当たらなかった。椰子の木があって然るべき陽気だった。「泳がなくっちゃ!」と私はトノに言った。そして、許可をもらわなくてはね、という彼のことばにびっくり仰天してしまった。許可?いったい誰に?

 すると、およそ信じられないことだが、背の低い浅黒い警官がふたり、紺のサージの制服にぴかぴかした制帽といういでたちで、汗びっしょりになって砂丘を滑りおりてくるところが見えた。

「ブエノス・タルデス、クエ・パサ?(こんにちは、ご旅行ですか?)」

 私が水着を見せて、もし許可がいただければ泳ぎたいのですが、と言った時、トノは私の方を見て、ほらね、言ったとおりだろ?という目つきをしてみせ、にやっと笑った。

「マトリモニオ、セニョール?(結婚しておられますか?)」警官のひとりがじっとジョーンを見つめながらたずねた。本当に結婚している、とうけあうと、ジョーンには小屋に入って着替えるようにと指示し、私はボートのかげに行くようにと示した。

 私が次にこの浜辺を見たのは一九七八年で、超道徳的なフランコ政権の終結から三年後のことだった。この時には浜にヒッピーの小屋が立ち並び、まる裸の男女が水浴びをしていたものである。


 パラーショの滞在時間は幸せに過ぎて行った。ただし、本来やりに来たはずの仕事の上で、というわけではない。楽しかったのは、来訪者との語らいであった。ひとりはスコットランドの生物学者で、粘液腺腫に侵されたウサギを集めに来ていた。こうしたウサギはオーストラリアに送られる。オーストラリアでは、導入されたウサギが爆発的に増加しているが、中には粘液腺腫に対する免疫を示す個体群が出現していた。そこで、ウサギのコントロールのたえに、ノミを媒介としてウィルスの新しい系統を導入しようとしていたわけである。しかし、ノミの権威として高名なミリアム・ロスチャイルドは、むしろ蚊の方が媒介者として重要だろうと言っている。

 セヴィリャの有名な四月祭では、誇り高い闘牛士カバレロたちが、みごとな馬や連れ添う女性を見せびらかしていたが、むろんのこと、ジョーンに闘牛を見に行こうかなどとはたずねてみようとも思わなかった。

 何年か後、この町で鳥仲間の会合があった時、そのうちの一人、カリフォルニアの女性騎手であるアン・ホワイトに、古めかしい巨大な闘牛場のリングにいっしょに出かけようと説きつけるのは簡単だった。実際に経験してみて、話すことができるようになるのは義務のようなものだ、と私たちは言い合ったものだ。

 アンと私は、五頭と半頭分の牡牛が殺されるところを見た。ありがたいことには、激しい土砂降りの雨が、救いようのない動物のおそろしい死にざまという見世物を途中で止めてくれた。スペインでは、年間三万頭以上の牛が、こうして「高貴なる死」をとげる。バレンシアの闘牛場で、ヘミングウェイは避けることができない午後の死に魅せられたに違いないが、私はそうではなかった。闘牛賛美派の人々はスペイン人の五〇パーセントを占めるが、小さなキツネをすばやく殺すことと、この拷問にかけられている牡牛の死とを比較してしまう私を笑うことだろう。人間によってくずれてしまった捕食者と獲物のバランスを正す試みとして、地域で何かの動物を殺さなければならない時、罪の意識なしにできたためしは私にはなかった


 いつももてなしのよいトノは、友人のルイス・イベラによって、私たちをアンダルシアの他の場所への小旅行に案内してもらうようにはからってくれた。最初に行ったのは、内陸部の崖にある古代都市、アルコスだった。崖の洞窟には今も少数ながら人々が住んでいた。この時は、ヒメチョウゲンボウの輝くばかりに赤い背面を上から見下ろすことができた。

 次にはロンダの古いレイナ・ビクトリア・ホテルに向かった。ロンダは静かな町で、山峡にまたがるようなたたずまいであり、人間くらいもの大きさの威厳に満ちたハゲワシがいる。ルイスは近くの山でボネリークマタカの巣がある場所を知っていて、ヒナにリングをつけたいと考えていた。しかし、長いこと運転をしてきたためにくたくたになっていて、そのうえ体重がありすぎた。そこで、ルイスがしばらくまどろんでいるうちに、ジョーンと私が登ってみることにした。はじめは楽だったが、なにしろ気温が三二℃もあったため、ジョーンものびてしまった。

 三〇分ほどして、私がクマタカの巣のところから降りてくると(巣にはもうヒナはいなかった)、すぐ下の岩だなに大きなシロエリハゲワシが止まっているところに出くわした。ハゲワシはせむしのように肩を丸めた姿勢で、十五メートル下の草の生えたテラスで眠っているジョーンの姿に、悪意を含んだ巨大なかぎ状の嘴と、邪気のこもったまなざしを向けて、じっと見つめているところだった。


 何か役に立つことをしたいと思いながら私はドニャーナに戻った。カマ―グのルーク・ホフマン博士のところから出向してきたハインツ・ハフナーを手伝って、小鳥を捕獲してリングをつけることができたのはうれしかった。トノは熱心で、たくさんの鳥にリングをつけたいと願っており、ダンジネスの捕獲施設をうらやんでいた。カスミ網しかなかったので、ハインツは一月一日から四月末までかかって、ちょうど一〇〇〇羽にリングをつけただけだった。そこで、新しい種類を手にできるという興味も手伝って、イギリス鳥学会から標識調査者リンガーの小チームが二隊組織され、やってきた。最初のグループは、早春の二週間で一五〇羽しかリングをつけられなかった。次のチームは渡りのピーク時にあたる二週間だったが、それでも成果は六三〇羽にとどまった。

 何が何でもヘリゴランド・トラップが必要だということになって、私たちは設置場所を三ヶ所計画した。この年、私は仕事らしい仕事がほとんどできなかったため、翌春資材や機械がそろったところで戻ってこようということになったからだ。ピーター・スコットはエル・ロシオから海岸に向かう道にある保護区の入口に小さい動物園と博物館を計画していた。ドニャーナの本部から十一キロ離れており、攪乱を受けない場所である。ここは教育センターになる予定で、トノはガードつきの入口に巨大な等身大のオオヤマネコのブロンズ像を立てた。このブロンズ像がパラーショに運び込まれた時には、トノは鼻たかだかで、幸運をもたらしてくれるものと言っていた。しかし、一九六七年の私の仕事の計画は、資金がないために、十二月になってからすべてキャンセルされた。


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