第九章 ミンズメアをつくる 4 来訪客 5 鳥も人も
4 来訪客
一九五九年の夏は晴天が多くて暑かった。旧友が毎日のように入れ代わり来てくれたし、新しい友人もたくさんできた。サフォーク鳥学会のウィリアム・ペインと、サウスウォルトの教師で、地元のミンズメア委員会のメンバーのクリスーG・B・G・ベンソンはひんぱんに来てくれた。私はちょうどミンズメアでの標本作りを新しく始めたところだったが、二人とも剥製づくりのよい腕を持っており、共通の場であることがすぐにわかった。クリスはこの保護区についての私の発展計画を認めてくれた。しかし、彼のいうところの、夜も保護区を利用できるようにしたいという考えには賛成しかねた。週七日、一〇〇時間の労働時間でもう手一杯であった。
セント・エドモンズベリーのレスリー・ブラウン司教ご夫妻のうれしい訪問も始まっていた。ご自身の鳥を見る楽しみのために来ておられたが、時にはエリザベス・コルヴァイル令夫人と熱心なご子息がたを一緒に連れてこられることもあった。息子さんたちは、朝早くヒゲガラを捕獲してリングをつける手伝いをするのが大好きだった。
デヴィッドとエリザベスのラックご夫妻とご家族は、ダンジネス以来の友人であり、渡りの動きについての私の記録を利用してくれた。なかでも、新しく研究をはじめているヨーロッパアマツバメについてのものである。ダンジネス以来の他の友人たちは、すぐさまミンズメアにもなじんだ。ホレース・アリグザンダー、ジェフリー・デント、フィル・ホロム、ビル・ソープ教授と言った面々である。
ソープ教授のために、私はウィッケン・フェンの保護区管理の計画をつくった。彼らはここで一九五七年に水鳥のための人工的な沼を造成したが、当時としてはこれはブリティッシュ・バーズ誌でお墨付きをいただくような画期的なできごとであった。
イギリス哺乳類学会の会長であるクランブルック卿は近くに住んでおられ、ひんぱんに来られるようになった。コウモリを対象とするリンガーとして、見つかった数少ないねぐらでしか捕獲できないことを嘆いておられたので、私はある晩、ウェスルトンのゴミ捨て場に案内した。私のカスミ網にイエコウモリやヤマコウモリがとびこんでパタパタしているのを見て、彼は有頂天になった。カスミ網を使う捕獲方法は彼にとって新しいものだった。
私たちは、ハリネズミがアジサシの卵を食べてしまうことを話し合った。ヌートリアの生態を教えていただいたが、毛皮獣として飼育されていたものが一九三七年に逃げ出して以来、東アングリア地方一帯のアシ原に急激にひろまり、当時はおそらく二〇万頭に達していたと思われる。ミンズメアの沼沢地からこの植食性の大型のげっ歯類をほぼ排除するまでに、私たちはおよそ八〇〇頭を殺した。同じくミンクを九頭わなにかけ、悲しいことだがカワウソも捕らえた。アオサギが、この種としてはたいへん珍しいことに、アシの中で水面と同じくらいの高さの位置に営巣をはじめていたためである。カワウソは、現在ではもはや見られなくなってしまっている。(訳注:一九九五年に訳者が訪れた時には、少数のものがふたたび生息しはじめたとのこと)
ジョン・スタンフォード大佐は一九四七年以来の少数のミンズメアの常連であり、同様にひんぱんに来られた。そして、開設当時のこの保護区の様子を話してくれた。大佐と友人のサー・ジェラルド・ラスベリー准将は、はるか遠くの国々でのバードウォッチングの話をして、私をこうした旅へとかりたてた。前イギリス大使であり、ガラパゴス保護のためのダーウィン財団の幹事であるコーリー・スミスも同様である。
夏のこの地方の海岸は、イギリスでもっとも晴天が多い。陽光のもとで、BBCの著名なアナウンサーであるフレディ・グライスウッド、そして魅力的な奥さんのアイリーンといっしょによく泳ぎに行ったものだ。一九七二年、あまりにも早く彼が逝去された時、アイリーンはお葬式の献花のかわりにミンズメアへの寄付を募った。この一〇〇ポンドで、私たちはグライスウッド・メアを作った。最初の春、エリマキシギの小群がこの沼の小さい島の一つにレック(集団求愛場)を構えたが、繁殖までには至らなかった。オグロシギのつがいが同じくここで求愛し、これは巣を作ってくれた。
レジ―とジョイスのグレンフェル夫妻は、アルデバラの音楽祭からここに立ち寄った。そして、生涯にわたるすぐれた刺激に満ちた楽しいおつきあいが始まった。時には彼らはヘッセのプリンス・ルパートや、作曲家のベンジャミン・ブリトンを伴った。あえてファーストネームを挙げる必要もないが、サー・アーサーとレディ・ブリスもまた音楽の世界から来て、鳥を見ることと専門の音楽分野とが調和することを見出した人たちだった。これらの高名の専門家にとっては、バードウォッチングは治療効果をもつリラックス方法であり、当時のミンズメアの利用者にはこうした方々が多かった。
スネイプのモールティングスのコンサート・ホールの背後にある四〇ヘクタールのアシ原で、発展計画を考えたらどうかというアイデアを出してくれたのは、レジーとジョイスであった。コンサートに来る人々が、コンスタブルの描いた沼沢地のひとすみで、乾いた小道を散策して三〇分の静穏なやすらぎの時間を過ごすというのは、考えるだけでもすてきなものだ。いくつもある池でバン、カモ、カモメといった水鳥類を眺めたり、もっと用心深いソリハシセイタカシギやヒゲガラを居心地のよいハイドで見たりすることができる。しかし、土地を買い取ることはできなかった。そしてアルド川から毎日二回にわたって潮が侵入し続けて、昔ながらの堤防の残りを着実に洗い流し、アシ原を減少させて、ロマンチックならざる灰色の泥が一面をおおうようになってしまった。
何マイルか北にあるブライス川河口でも同じことが起きた。ストラドブローク卿に連れて行ってもらったのだが、彼はRSPBに対し、所有地である干潟の大きな部分を、一エーカー(約〇・四ヘクタール)につきわずか九ポンドで売ると言ってくれていた。私は崩れた土手の堤を修理して潮と淡水の流入を調整する水門を築くことを提案したが、会は承知してくれなかった。今では堤防がほとんどなくなってしまい、潮が上がるごとに泥の干潟はすべて海水におおわれている。ミンズメアのスクレイプの五倍もの面積を持つ地域に、アジサシやカモメやソリハシセイタカシギのコロニーを確保するというチャンスはもはや失われてしまった。
一九六二年五月、BBC放送のダグラス・ブラウンは、ルードヴィッヒ・コッホを連れてきてくれた。一八八九年に初めて鳥の声を録音した敬愛すべき人物である。この旅行は、彼の八〇歳の誕生日と金婚式のお祝いとを兼ねたものだった。訪問は一日の予定だったが、たいへん楽しいものになったので、二日にのびた。ラジオ放送でおなじみのアクセントを強調した英語は、この人がなんとかこなせるぎりぎりのものだったが、ほとんど通じなかった。
録音の合間に、私は彼をサウス・ベルトに連れ出して、慎重に持って行った自分の小さい録音機で、録音界の老パイオニアとの会話を録音し、珠玉のような置き土産を作ることができた。悲しいことには、この人は高音の鳥の声が聞きとれなくなっていた。そして、クロウタドリやウタツグミ、ナイチンゲール、数多くのムシクイ類、カラ類、ヒワ類など、森をいっぱいに満たしている小鳥たちのコーラスを聞くことがほとんどできなかった。しかし、彼が今は昔よりずっと鳥が少なくなったと言った時、私もうなずいた。
「いずえはな」ルードヴィッヒは言った。「五月というのにな、鳥がみんななくなるんでないかな」
「どんな種類が、でしょうか」
「おっきの鳥のしゅーるい、ちっさの鳥のしゅーるい、みいーーんな」
彼はオペラ歌手としての訓練を受けており、今なおみごとな声をしていた。このすてきな日、すてきな場所で、彼は要望にこたえて歌ってくれた。私がこの人の後について、戦時中にローテンベルグの女性兵士に教えてもらった「わが心はハイデルベルグに」やほかのバラッドを、めちゃくちゃなアクセントで歌った時、彼は腹の底から大笑いした。ジョーン、メアリー・ベイル、そしてBBCのチームのみんなは、声を合わせて「きよしこの夜」をうたった。この二日にわたって、私たちはたくさんの歌をうたったものだ。
5 鳥も人も
BBC放送をはじめ、さまざまなフリーの録音家たちが、ミンズメアの利用者をふやしてくれた。何の予告もなしに、いきなりカメラやマイクを突きつけられて、保護区の価値や管理技術について、渡りについて、そのほかあれやこれやの話をさせられることもよくあった。アンソニー・クレイが率いる我々の新しい映画チームは、巡回上映やテレビのためのプログラムを製作した。彼のあとはヒュー・マイルズが、野生生物のフィルム・メーカーとしての輝かしいキャリアを自分自身で始めるために去る時まで、この仕事を続けてくれた。
ジェフリー・ボスウォール、デズモンド・ホーキンズ、エリック・シムズ、そして彼らの録音やカメラ担当者のチームは、毎月の「我らが田園地帯」シリーズの何本か、またそのほかの番組を製作した。
ジョン・カービイは鳥のさえずりを実に見事に録音し、またBBC放送のナチュラル・ヒストリー部門のジョン・バートンは、最初のステレオ録音や、イギリスで初めてのヨーロッパウグイスを含む鳥の声を録音したが、こうした録音はロバート・ドゥガルの話と組み合わされて放送された。トニー・ソーパーはインタビュー、録音、撮影のすべてをこなし、テレビの「動物のふしぎ」のような番組全部を一人で制作して、同じ日のうちに、こうした取材内容を列車でロンドンに持ち帰るような離れわざまでやってのけた。
保護区の仕事を手伝ってくれた数多くの人々の中でも、次の方々は特に熱心に働いてくれた。ハムステッドのジョンとヘイゼルのベイカー夫妻、ローストフトのディック・ブリッグズとブライアン・ブラウン、コルチェスターのマイケルとプリシラのキャント夫妻、ウェスルトンのペギー・グランディ、ベックナムのローナ・ケネディ。イプスウィッチのアーサーとダイアナのウェストコット夫妻は教師であり、友人や生徒の一団を引き連れて手伝いに来てくれた。
ミンズメアが、文字通り一ペニーすら切り詰めるような予算の中で発展できたのは、この人たちをはじめとする多くの人々、ダンジネス以来の古なじみの友人たちといった面々の労働力、資材、仲間意識を通じた貢献によるものである。繁殖期が終わってから、スクレイプの中に入って島のひとつに静かに座り、生えてきた草を引き抜きながら、まわりじゅうで餌をとっている鳥たちを見るということを、この人たちは特権と考えていた。草抜きは、ハイドから渉禽類がよく見えるようにするため、また次の春に繁殖に適した裸地の地表を維持するために必要な作業だった。
ミンズメアチームの一員であることには、私がダンジネスで感じていたものよりももっと大きなプライドがあった。鳥の保護区はいまだに目新しいものであり、戦後に再生したBBC放送は、こうした場所の必要性を強く主張して、保護区に言うなれば権威をもたらした。デズモンド・ホーキンズがピーター・スコットの企画によって制作した新しいスタイルの自然映画は、動物を娯楽の対象として一段下に見下すような従来の動物園の概念を脱した。
BBC放送の番組「ルック」は一九五四年にスタートした。そして、オーブリー・バクストン(後に「卿」を冠せられた)によるアングリア・テレビの「サバイバル」は一九六二年に始まった。これらの番組は、自然の生息環境の中にいる野生動物の驚くべき真実の姿へと大衆の目をひらかせた。気分をさわやかにする目新しい番組は、翌日の通勤電車や職場でも話題になったに違いない。
まもなく、人々はテレビという小さな箱の中の白黒の映像だけではあきたらなくなってきた。じかに実物を見るには、たとえばRSPBのミンズメアやハバゲイト、セバーン川の岸にある水禽協会のスリムブリッジのようなハイドを持つ場所に出かけるのがいちばんの早道だった。双眼鏡があれば、ほんものの野生の鳥をすぐ間近に観察するというほんものの経験ができた。
やがて、一九八〇年代のはじめになって、サー・デヴィッド・アテンボローによる自然番組が登場した。最新技術を駆使したすばらしい映像をテレビで見て、地球規模のエコロジーの中で、自分たちにとって、野生生物の存在がどれほど必要なものかということに気付かない人はいなかっただろう。
しかし、一九六〇年代はじめというこの時代には、五六〇〇万人のイギリス国民の中で、自然保護団体を支える会員はわずかに数千人であり、新しい会員確保への展望は莫大なものだった。フィリップ・ブラウンは映画や講演で、もっと多くの会員を、もっと多くの保護区を、というRSPBのメッセージを全国にひろめた。
新しく土地を確保するという優先事項にまわすことができるお金はほとんどなかった。既に所有され、管理されている保護区にかかる経費は猛烈に必要とされていた。ピーター・コンダ―は本部から足しげくやってきて、どの仕事を優先すべきかを話し合った。フィリップ・ブラウンは奥さんといっしょに小屋に泊まり、私の頼みを聞いた。モラルの裏付けは申し分なかったが、いかんせん、お金がなかった。
ミンズメアでの差し迫った課題は、アシの進出をくいとめ、採餌のための開けた泥地を確保することであった。こうすればよい、という確立された方法はなかった。
何か(その「何か」には知識も含まれる)が必要になった時には、私は友人たちすべてにそのことを話すというやり方に頼ることにしている。どこかの誰かが何らかの方策をもっているものだ。コルチェスターのパートウィー社の土壌や雑草の専門家であるロイ・ブラウンがアメリカやオランダで書かれたすぐれた論文を貸してくれた。それはダラポンという農薬を散布してアシをコントロールすることについてのものだった。わたしは ピーターにこのことを話してみた。自然の保護区域に除草剤を導入することについて、委員会は大目にみてはくれないだろうと彼は考えていた。しかし・・・・
一ポンド支払って、私はダウポン(ダラポンは液体になった薬剤である)の一ポンドの包みを買った。庭師が厄介もののカモジグサの類をのぞく時に使うものである。いつも頼りになるヴァンが、大きな真鍮の噴霧器を貸してくれた。主要な排水路をふさいでいるアシの群落で、周囲からは見えない一角の範囲に、私は適正とされている希釈率に薄めた薬剤を散布してみた。次の季節になっても、この最初のアシのやぶは枯れたままだった。
最初の年次報告に既に、私はこの農薬使用を報告し、きわめて冷淡な反応をみた。しかし現在では、薬剤使用の効果は本部ではたいへんよく理解され、アシの生えた主要な沼沢地に飛行機で散布する計画が持ち上がるまでに至っている。とんでもないことだ。意義あり!先例がないところに急激に発展してきた産業というもの(この場合はRSPBを指す)の振り子は、いかに大きく揺れるものであろうか。小さな湿地帯の保護区では、数多くの野生生物がカバーとなる植物を頼りにしている。とりわけ、アシが他の様々の大型植物とともに生育しているところでは、こうしたことは細心の注意を払って行われなくてはならない。
結局のところ、背中に背負って持ち運ぶ一八リットル入りの噴霧器を使って、我々はハイドから見える開水面を倍にすることができた。オードナンス・サーベイの一インチ地図(日本の二万五千分の一地形図に相当する)の次の版には、アイランズ・メアが載るまでに拡大できた。これは「スクレイプ」についても同様である。
数年のうちに技術が進み、薄い濃度の使用で安全性を示すこともできるようになった。一九七三年には、IWRB;国際水鳥・湿地調査局(International Waterfowl Research Bureau)の「湿地管理マニュアル」にもこの方法が取り上げられた。アシが生えた沼沢地で、冬の降雨量が多く、水があふれるような場所の多くでは、手で扱う噴霧器で正確にダラポンを散布することでアシをコントロールするようになっている。しかしミンズメアのように、ヨーロッパ会議に後援されているような少数の重要な保護区域では、除草剤使用は奨励できるものではない。
ディック・ウルフェンデイルが一九五九年六月にミンズメアを去ってから、私は来訪者の案内という仕事を引き継いだ。鳥といっしょにいるのと同じくらいにバードウォッチャーとともに過ごすようになって、保護区の管理に対する私の考え方は、鳥と人との両方の必要に同程度に影響されていた。
自然保護団体の会員からは、提供した資金以上のものが期待されはじめるようになってきた。環境保護の考え方は、行政や産業に対する応急的な圧力として働くことしかできなかった。ノルディック・グリーン(北欧の過激な環境保護団体)はいまだ修業時代で、「汚染」や「生息環境」ということばは、自然保護の理論的な命題にすぎなかった。RSPBはまだたいへん弱小で、その年の会員は八千人しかいなかった。しかし、増加して行く会員という軍勢を養い、会費や寄付金や贈与された遺産を投資して、影響力を発展させてゆくはずであった。
新しい戦後の産業のひとつ、RSPBの中にあることを、私はこれまでにも増して幸運と思った。この中では、イギリスの社会構成の両端の階層の人々が、隣どうしで座って鳥を見ることができる。私たちのハイドの中では、ジャックさんもご主人と同様の能力が発揮できるのだ。鳥のような美しい生きものを観察する趣味のよい楽しみには、お金も地位も必要がなかった。
不安定な一九六〇年代、モラルや文化の衰退が起きているこの時期、家族ぐるみでこうした保護区に出かけるというイギリスの習慣ができてきたのは、社会的にも利益があることと言えるだろう。親たちはこどもたちといっしょにハイドに座って、鳥を間近に見て楽しむことができる。つがいのソリハシセイタカシギがよくふとったひと腹のヒナを連れているところも見られるし、質問があれば監視人が答えてくれる。この人たちが払った会費は、一時は姿を消してしまった貴重なこの鳥たちが好むような、鳥たちを守るのに必要な特別の生息環境を作り出すために役立てられる。こうして、鳥と人とのどちらをも包括することこそ、私は自然保護活動のかなめ石だと考えている。




