第八章 特秘任務 2 ミサゴの卵(続き) シロチドリ ハチクイ
2 ミサゴの卵(続き) シロチドリ ハチクイ
その朝遅くなってから、ジョージは巣のある木の低いところの枝を切ってしまうことに決めた。私は、その時にどのみち鳥はおどかされることになるので、巣の中に残っている卵がほんとうにミサゴのものかどうかを確かめたほうがよいのではないかと言った。私が見た巣の中の卵は、フィリップが見つけたこわれた卵よりも小さいように思われてならなかったからだ。熟練した密猟者(明らかにそうとしか思えない)が、三個ある卵のうちの二個を残しておくなどとは、到底考えられない。
下枝をのこぎりで切り落としている間に、フィリップは二番目のこわれた卵を木の根もとで見つけた。巣はまだ調べられていなかったが、これでもっと疑いが濃くなった。ミサゴが卵を四個うむのは非常にまれなことだからだ。
午後になって、昼光の中で卵を調べることが認められた。下枝は切り落とされていたので、ジョージが私の肩に乗って木にのぼった。ジョージは標識調査用の私の鳥袋に卵を入れて、下ろしてよこした。なんと、一日半にわたって、ミサゴは茶色の靴墨でうまくもようをつけた鶏卵を抱いていたのだった。
誰がこんなことをしでかしたのだろうか。執念深いコレクターが、鶏卵を抱いているミサゴをRSPBがガードしているのを見て、まるでマキアベリのようなずるがしこい楽しみを味わったのだろうか。私たちは、誰が犯人かわかっていると思った。しかし証拠がなかったため、警察の忠告に従って、考えは胸の中にとどめた。
ミサゴが巣を放棄すると、すぐに私たちは古い鉄条網を大量に幹に巻きつけて、翌年もこの高巣が使われた場合に備えた。キャンプは解散し、ベティと私は六月九日にアルトナンケイバ―・コテージへと移った。ロッホ・モーリッチの近くで、コイラム・ブリッジからグレンモア・ロッジへとでこぼこ道を走ったところにある。私たちはここでもう一度ミサゴを探して、行動を調べようと思っていた。
コテージはまるで天国のようだった。ロシームークス・フォレストのみはるかすかぎりのパノラマがひろがり、満足のあまりため息が出た。キャンプの過酷な生活と比べれば、とにもかくにもベッドがありさえすれば、どこでも天国と感じられたかもしれないけれど。
湖と森のまわり、ひらけた沼沢地、ケアンゴームスの山すその丘陵地帯の緑陰の小道といったところをのんびりと歩きまわり、コテージの居心地を満喫するすばらしい一週間がすぎて、ベティがアバディーンへ帰らなければならない日が来た時は悲しかった。
まさにその時、六月一七日の午後、私は二羽のミサゴが新しい巣を作っているのを発見したのだ。ミサゴたちはロッホ・ガルテンの南から北へと移動し、森林のへりを越えたすぐのところにある大きな生きたヨーロッパアカマツのてっぺんを選んでいた。「大岩見張り場」という名で記録した観察場所から、私は何時間かミサゴを観察した。一羽はほとんど休むことなく、飛びながら枯れ木から太さ二・五センチもの枝を折りとって、新しい巣のところの連れ合いに運んでいる。枝を折る大きな音は、コチョウゲンボウのつがいを驚かせた。コチョウゲンボウは明らかに近くにヒナを持っていて、餌を運んでいるものだ。
ミサゴの巣づくりが無意味な行動ではないと見てとれたことに満足して、私はインチドルーへとバイクをとばし、イアン・グラントに報告して、エディンバラのジョージ・ウォーターストンに「インフレーション」と電話した。グラント大佐のお宅で熱いお風呂に入るぜいたくを味わい、大佐と令夫人のレディ・キャサリンとともに鹿肉にウィスキーという晩餐を楽しませていただいた。ミサゴを守るのに失敗してしまったという絶望感は、ささやかながら楽観的な見通しへと道を譲っていた。
ジョージは次の日の夕方に到着した。翌日、何時間かかけて、ミサゴたちがあまり気のない様子で巣に枝を付け足しているのを見た後で、ジョージは二回目の繁殖には時期が遅すぎるという結論に達した。私は金曜日の夜行に乗ることができた。メアリー・ウォーラーが週末ごとのダンジネス訪問に利用している列車である。メアリーと私はユーストンで落ちあい、「波浪荘」で待つジョーンのもとに帰る間じゅうずっと、この五週間のおたがいのできごとを夢中になってしゃべりまくっていた。
翌年からのロッホ・ガルテンにおけるRSPBの勝利は、今なお続いている進行中の歴史の一コマと言えるだろう。世界中でもっとも注目されているこのミサゴたちが、春にアフリカから帰還し、巣立ちが無事に成功すること、あるいは稀なことではあるが、巣立ちの失敗などは、今や国家を挙げての重要な関心事になっていると言ってよい。新聞に発表され、その季節の間じゅう、ラジオやテレビで取り上げられている。
高巣を見るために訪れる人々は毎年六万人にものぼり、ハイドに備えつけられた高性能の双眼鏡で巣を眺めている。一九六〇年以来、訪れた人の総計は一五〇万名をこえた。このすばらしい場所には今では完備されたビジターセンターができており、巣のすぐそばに有線テレビのカメラが設置されて、スコットランドのミサゴたちへのプレッシャーを取り除いてくれている。
一九九一年には、なんと他に七十二つがいにのぼるミサゴが、八十一羽ものヒナを育てた。すべてはジョージ・ウォーターストンとRSPBによる初期のころの信念と努力のたまものである。
シロチドリ
一九五五年十二月、ブリティッシュ・バーズ誌の論説にはこう書かれている。
「増加し続けているバードウォッチャーは、ありとあらゆる現代の情報交換の手段によって、不運な珍鳥が巣を作ったり、通過途中に休息のために立ち寄った地点に、まるでハゲタカよろしく、あっという間に集まることができるようになった。多くは思慮分別ある人々だが・・・・少数とはいえ、珍鳥を追い求めて場所から場所へと突進し、あわれな鳥たちを苦しめている人々もいる」
ぐんぐん増加し、珍しい鳥を追い求めてライフリストに加えようと固く決意しているイギリスの鳥キチ軍団にたいして、秘匿しなくてはならない機密事項はいくつかあった。私のホームグラウンド、ケント州ダンジネスにおけるきわめつけの珍鳥であるシロチドリは、二〇年このかた、イギリスでは繁殖しなくなっていたが、一九五〇年代なかばに一時戻ってきて、秘匿事項の範疇に入った。
一世紀近く前、砂色をしたこの小型のチドリの本拠地は、ネス岬北の人里離れた幅広い砂利場の地域だった。ごく少数のものは、ケント州との境界近くのサセックス州にもいた。シロチドリの繁殖数は、一八九九年までは記録されていない。当時、地元の鳥学者であったタイスハースト兄弟は、ダンジネス地域で五〇つがいを記録している。彼らの連続した観察と、RSPBの見張り人のフレッド・オーステンによれば、人間による攪乱という新たに出てきた問題のために、シロチドリは西に移動していた。
一九一一年には、ダンジネス及びリッド軍用地に近いホームストン砂利場で四〇つがいが記録され、サセックス州ライ・ハーバーのラザー川河口両岸で数つがいが見られた。卵コレクターばかりか、なんと鳥そのものの収集家の脅威に加えて、静かな繁殖場所が狭められてきたために、サセックスのシロチドリは一九二〇年には姿を消してしまった。このころは、しつこい珍鳥かせぎのバードウォッチャーはまだいないも同然だったので、それが悩みの種だったわけではないことだけは確かだ。
ダンジネスにおける主要なコロニーも、一九三一年にとうとう営巣がまったく見られなくなるまで、着実に減少を続けていた。とどめの一撃は、一九二七年、シロチドリがずっと繁殖していたまさにその場所に軽便鉄道が開通したことだった。これに続いて、この場所の境界をなす新しい海岸道路に沿って住宅が建てられるようになり、シロチドリの再繁殖の試みは妨げられた。
一九四二年、私がネス岬から八キロ西にあたるキャンバー・サンズの海岸防備のために駐屯していた時、ラザー川東岸の繁殖適地にひとつがいのシロチドリがいることに気付いた。一九四九年にもふたたびつがいが見られた。その時は、対岸にあたるライ・ハーバーのヌーク・ビーチで、別のつがいが確実に営巣したことが発見されている。しかし秘密は保持されず、シロチドリはこの年には繁殖に成功しなかった。続く年にも繁殖は試みられないままだった。
一九五五年五月、ふたたび一つがいのシロチドリが見られた。私はRSPBから、ボランティアが保護区を守ってくれる週末の間に、状態を確かめてきてほしいと依頼された。ひと腹分の卵三個を見つけたが、産卵後どのくらいたっているかはわからなかった。監視してくれる人をすぐに見つけなくてはいけない。
ロムニー・マーシュのブレンゼットに住んでいるケイト・バラムは、三年このかた私の無給の右腕として働いてくれていたが、この仕事に喜んでとびついた。ケイトは、知る限りではイギリスで唯一のものであるシロチドリの巣の安全と守秘について、おそろしく熱心に任にあたった。ことの重要性に対して神経過敏になっていたので、ライ・ハーバーの住民は、すぐさま彼女がRSPBの新しい見張り人役をつとめていることを思い知らされた。
私たちはぽつんと立っている漁師小屋にケイトを配置した。戦前、ジョーンと私にとっては天国のように思われた小屋である。見るところでは、ケイトはまるで寝る間も食べる間も惜しんで監視を続けていた。任務についてから二週間ほどたったころ、デンジマーシュ道路を彼女の小型の三輪自動車ががたごとはずんでくる物音を聞きつけた時にはびっくりした。
「バーティー、たいへんよ!」ケイトは息を切らせて言った。「シロチドリの卵を探すように訓練された犬を連れてきてるのよ」
犬にそんな訓練をするなんてできるはずがないよ、と彼女を安心させながら、私たちはライ・ハーバーに戻り、卵が無事なことを確かめた。その時には誰も見当たらなかった。二、三日して、暗号のメッセージが私の小屋に届いた。ヒナが三羽無事にふ化して、うまくやっているというものだった。一羽はまもなく姿を消してしまったが、これはありふれたできごとである。
しかし、ケイトはやがてデンジマーシュの私の小屋に涙にくれて戻ってきた。木でできた模型の鉄砲をふりまわして必死に威嚇したにもかかわらず、ハシボソガラスのつがいが残ったヒナを二羽とも食べてしまうのを見る羽目になったのだ。
「カラスのちくしょうめが!」ケイトはレディであって、こんな言葉遣いはふだんは決してしなかったーその当時は、であるけれどー。彼女の気持ちがよくあらわれている。
「あいつらは、イギリス最後のシロチドリを食べちゃったのよ!」
私はケイトをなぐさめようとした。世界には何百万羽ものシロチドリがいて、ヨーロッパからアメリカ、オーストラリア(脚注)まで広く分布している。イギリスはユーラシアにおけるこの鳥の分布域の端にあたっており、とりわけ年毎の気候変動の影響で、生息状況はたえず動いていた。この当時は春に寒いことが多かったが、英仏海峡の対岸ではシロチドリはふつうに見られており、将来の気候の変化で再びイギリス側へ分布を広げてくることも可能と思われた。
「地球規模で考えれば、こんな損失はとるにたりないものなんだよ。」
しかし、こんな説明でケイトをなだめられるわけはなかった。
「くそったれっ!あれは私のシロチドリだったのに」
いとしいケイト!彼女は心からこの鳥たちを愛していたのだった。
著者註;後にシロチドリという種(Charadrius alexandrinus)はいくつかの種類に分けられた。 現在ではアカエリチドリという別の種にされているオーストラリアのものなどははっきり異 なっており、自分の目でこの分類が正当だと納得することができた。
そういえば、ケイトの小さなケアン・テリアのティミーの事件もあった。
一月のある日、ケイト、ジョーン、そして私はダンジネス観察ステーションの灯台のそばにいたが、砂利場の彼方からひびいてくる銃声を聞きつけた。
「またキプロスのハンターだな!」
何週間か前にも、四人のグループをつかまえたところだった。その時ジョーンとケイトは、口ひげをはやし、弾薬帯をかけた浅黒い男たちの風体にびっくりしたものだった。
私が様子を見に出ると、ティミーもとことこ後についてきた。およそ三〇分ほどたって、ホッペン・ピッツの灌木のしげみから、広くひらけた砂利場をひとわたり調べていると、一連の銃声が聞こえてきた。すぐにもう一度。
後になって聞いたことだが、観察ステーションに残っていたケイトは、ジョーンに向かって金切り声を上げた。
「ああ、神様!一発はバーティー、もう一発はティミーがやられたんだわ!」
リッドの警察に走るべきか、それとも砂利場に出て、おそるべき事態に直面すべきか、ふたりは迷った。
二時間後、リッドから戻ってくる道で、私はふたりに行き合った。ふたりとも、こんなに時間がかかるなんて、おそろしいことが起きたに違いないとパニックになっていた。この時はハンターがなんと七人もいた。ハンターたちを追いかけてつかまえ、バンに押し込んで、リッドの警察に出頭させるには時間がかかったのだ。
晩秋の時期、私はぜんぶで十五人のキプロス人をつかまえた。撃ち落としたアカアシイワシャコやクロウタドリ、ノウサギに対して、彼らはロムニー・マーシュの裁判所で一ポンドの罰金を支払うだけで済んだ。しかし、鉄砲は押収されてしまったので、ロンドンの居住地にいる他のキプロス人にも、ダンジネスでは地中海地方でやっていたような好き勝手な銃猟はできないということがわかったのだった。
ハチクイ
一九五五年のこと、リュウズの近くのストリートにある採掘中の砂利採取場で三つがいのハチクイが巣を作っているのが発見された。イギリスでの繁殖の記録はまだ二例目で、しかも成功例はない。私はピーター・コンダ―からこの鳥たちの保護を依頼された。しかし、この時私はダンジネス鳥類観察ステーションで行われていたRSPBのジュニア・バード・レコーダーズ・クラブ(JBRC)の鳥類標識調査の講習会にしばられていて時間がとれなかった。ケイト・バラムは本人の強い希望で行っている無給の助手のほかにはこれといった義務がなく、この年のもっと早い時期、シロチドリの監視にかたむけた熱意からいっても、明らかに最適な人材であった。
砂利採掘場の作業員からは「変なカワセミ」と思われていた三組のハチクイのつがいは、八月末になるまでは、鳥の専門家には気づかれないままだった。ハリー・コーケルほか、この歴史的なできごとを聞いたサセックス東部の鳥学愛好者はRSPBに連絡した。ピーター・コンダ―は保護策を講じ、ケイトは採掘孔近くのキャラバン車に配備された。
バードウォッチャーの電話連絡網は、近年は実にみごとに定着しており、機密の保持などまず望めない。あらゆる人々が、ヨーロッパの鳥の中でもいちばん派手な色をしたハチクイがイギリスで巣を作ったことに興奮した。その時点まで誰の助けもないまま、うまく繁殖に成功していたのだから、なおさらのことである。一九二〇年、エディンバラで一組のハチクイのつがいが繁殖を試みて、鳥学上の歴史に残る事件となったが、失敗に終わっていた。
ストリートの巣穴の一つは、変なカワセミが作業現場で巣を作っているのがどれほど重要なできごとか、作業員が知らないでいるうちに、砂利採取の途中でこわされてしまった。他の二つがいは計七羽のヒナを育てており、まもなくヒナたちは飛べるようになった。砂利採掘孔での保護監視は、写真家を中心とする人間の繁殖妨害をおさえるために必要なものになっていた。
JBRCの講習会が終わるとすぐに、私はケイトからこの楽しい職務を引き継いだ。最初の週にはジョーンとロデリックも来てくれた。到着した時、ケイトはまた責任感と心配性にとりつかれていることがわかった。なにしろ、妻のジョーンと息子のロデリックは採掘孔に入れてもらえなかったのだ。ケイトによれば、「職務上の」人間しか入れないことになっていた。幸い、ハチクイはとても人なつこい鳥で、十三羽が一群となってあたりを飛び回り、道路わきの針金に止まったりしているのをジョーンが見て喜んでくれたので、ほっとした。
同じ年のもっと前の時期、私はプロヴァンスでハチクイを見ていた。その中には、ルーク・ホフマン博士がカマ―グのトゥール・ド・バラにある彼自身の保護区で、飼育下において繁殖させようとしていたものも含まれていた。ハチクイは鮮やかな栗色と青に彩られ、大きな黄色のもようがあって、イギリスではたいへんエキゾチックに見えた。しかし、二週間たってもいっこうに飛び去る様子を見せなかったので、いくら楽しみに見守っているとはいっても、いささか喜びは色あせてきた。鳥たちは安全であり、私はいまや秋の渡りたけなわの時期のダンジネスに戻りたくなっていた。
九月二二日、コロニーのハチクイたちが四十八時間戻ってこなかったので、私が家に帰っても安全だと認められた。すぐに私は帰路についた。九月二五日の午前一〇時、ストリートに群れが短時間姿を見せて、東に向かって高く飛び去ったと聞いた。そして、なんともものすごい偶然の一致だが、この群れが次に目撃されたのは、私自身が住んでいるセント・メアリ湾の村の庭で、虫を追いかけているところだったのだ!まだ十三羽がまとまったままである。繁殖した場所は東北東に六九キロ離れていた。
翌朝の八時、かれらは実にわが家のまわりを飛び回り、なんと家の電話線に止まったのだ。私がハチクイたちのすばらしさを十分に認めていなかったので、さようならを言う前にわざわざ見せびらかしにきたのではないだろうか。翌日、かれらは飛び去った。
ストリートでのできごとは、特別の種類に対するRSPBの保護事業の興味深い初期の事例であり、ごく少数しかいない鳥であっても、イギリスで営巣場所を保護することがどれほど役に立つかを示すものになった。他の国々もイギリスに追随した。
しかしながら、一〇年以上たった後のこと、保護区造成の計画策定に私が初めて携わったスペインのコート・ド・ドニャーナでは、小さな子供がハチクイを何羽も巣穴から掘り出し、鳥が飛んで行ってしまうことなく遊べるように、片方の翼を折っているのを見る羽目になった。
ドニャーナ生物研究ステーションから、ここの標識調査者であるルイス・イベラといっしょにセヴィリヤの街まで遠出したことがある。牧場の中のアシ原で、小鳥を網にかけて標識するためだった。街の有名な闘牛場で姿を見るまっ黒な巨大な牡牛たちと私たちの間には、鉄条網の柵があるだけだった。三四℃もある暑い日だったので、牛たちには攻撃的な様子は少しもなかった。しかし、好奇心にかられて牛が近寄ってくると、さすがにびくびくものだった。
ルイスは網をはずしたほうが安全だろうと考えて、一軒ぽつんと離れて建っている農場へ私たちを連れて行った。レモネードをもらうためと思っていたのだが、そこは剥製師の住まいで、家の中には標本があふれていた。仕事台の上には小さなきれいなハチクイが一羽置いてあった。小部屋の一つの床では、巨大な生きたワシミミズクが止まり木につながれて、若鶏を爪でがっちりつかんでいた。大きな茶色の目で私たちをちらりと見たあとは、ほとんど関心を示さず、鶏の死体を引き裂き続けていた。私の質問に対してルイスは答えた。「ああ、このフクロウはヒナの時に巣からとられたものですよ。羽がぜんぶ生えそろったところで、殺されて剥製にされます。たいへん高価なものですよ」
その夜、セヴィリヤに戻ってから、ルイスは私に小さな箱を手渡した。中に入っていたのは、剥製師の家で見たハチクイだった。
「いつだったか、あなたはお友達のケイトさんがイタリアから持ち帰った剥製をほめておられたでしょう。ですから私は、あなたもお持ちになりたいのではないかと思ったのですよ。それで、剥製師に電話しました。彼は出かけて行って、あなたのために一羽を撃っておいてくれたのです」
ルイスは大きな暖かい心の持ち主だった。そして、これまで出会った中でももっとも親切な人のひとりだった。浅黒い、ひげをそったあごが青々とした顔には、鳥が好きな友人のために、何かよいことをしてやれてよかったという喜びがあふれていた。




