第六章 鳥類観察ステーションの日々 3 ダンジネス・プライヤー
3 ダンジネス・プライヤー
バードウォッチングはまさに爆発的な拡大の時を迎えた。新しく、しかも繁盛している鳥類観察ステーション(オブザーバトリー)の管理者、そしてまた、古く有名な、まだ歯も生え変わらない幼い日々から愛し続けているRSPBの保護区域の監視人を兼任していて、私には自分の幸運をかえりみる時間などほとんどなかった。一年を通じて週七日、タイプライターか双眼鏡が毎日欠かせない装備になっており、ほとんどの時間は机に向かうか、足で歩くかしていた。
ジョーンにとっては、もし彼女がそのように解釈して受け止めたとしたなら、たいへんにつらい生活ということになったかもしれない。しかし、見返りとして得たものは大きかった。この職業の何よりもよいことは、友達づきあいの輪がいつまでも広がり続けることである。週末のほとんどは、友人のうちの誰かしらが波浪荘に泊まり、ジョーンといっしょにデンジマーシュの保護区か、ネス岬の観察ステーションのどちらかにやってきてくれるのだった。
多くのことが初めてのものであり、私はRSPBとDBO;ダンジネス鳥類観察ステーションのどちらの委員会からも、全権を委任されていた。どちらのつましい側面にとっても、主要な制限要因は資金不足だった。
自然保護活動というものは、道具を作り出す才能や熟練した技術をもっている友人を自在に開発してくれるものである。キャットフォードの電気技師であるD・C・タニ―「ジーン」ほどダンジネスに貢献してくれた人はいない。ジーンはことに金属加工機械の扱いにすぐれており、「ダンジネス」標識調査・プライヤーを作ってくれた。これは、より安全確実に鳥の足にリングをつけるため、プライヤーの鼻先の形を工夫し、大きさの異なる孔をいくつかあけたもので、私がデザインした。何回も試作品が作られた。リングをつけられる鳥の負担ができるだけ軽くすむよう、また、神経質になっているばかりでなく、往々にして熱意にあふれすぎている初心者の標識調査者を訓練するためにも、何にもまして精密さが要求された。
ウィザビーが一九〇七年に最初に世に出した当時から、イギリス鳥学会;BT0による一九五〇年代の現在に至るまで、私たちが使用する足環はあまりにも大きすぎた。せまい範囲の中に割り当てられたリングのサイズは、生きた鳥をはかるのではなく、博物館の乾燥した標本によって見積もられたに違いない。私はいちばん小型のムシクイ類の太さわずか一・五ミリしかないふしょに、幅五ミリ、長さ一五ミリもあるアルミニウムの帯を巻くのが心配でならなかった。長い間、これが最小サイズのリングであったため、イギリスで最も小さい鳥であるキクイタダキとマミジロキクイタダキについては、観察ステーションで標識された鳥の年間リストに加えるため、毎年それぞれ一羽だけにリングをつけるにとどめていた。まったくばかげた話である。
観察ステーションに来ている人々の間では、リングを付けた鳥の種類数を競うということは、まだあまり一般的ではなかった。これは、見た種類のリストをふやすというトウィッチャーの情熱に相応するものである。新しい鳥を見るごとに一ペニーを寄付するのと同じく、新しい鳥にリングをつけた時には一シリングを寄付することになっていた。どこであれ、どうやってであれ、我々はできるかぎりいつでも、資金をふやそうと努力していたのだ。
イギリス鳥学会;BT0が、端を重ねるのではなく、突き合わせるタイプのもっと小さいリングを計画しはじめたのはよいニュースだった。一九五五年七月、BT0は数多くの標識調査者に対して、多種多様の鳥につけるリングの新しいサイズはどのようなものがよいかという問い合わせをした。このためには、リングがつけられて落ちつく位置の鳥のふしょの太さを知る必要があるわけだ。ここダンジネスは、こうしたデータを正確にとるには最適の場所だった。
最初のうち、測定を安全に行うのはきわめてむずかしかった。ジーンのマイクロメーターは、生きた鳥をはかるにはおそろしく扱いにくいことがわかった。ジーンはV字型の溝を切った昔ながらの測定定規のことを思い出して、一インチ(二・五センチ)につき一二八の目盛を入れたものを作った(一目盛は約〇・二ミリ)。メートル法による測定の必要が明らかになるよりも前のことだった。
まもなく、私たちは他の調査者に対して、自信をもってこうした道具を売ることができるようになった。同じ種類の鳥でもふしょの太さにはずいぶん変化があることに、私たちみんなが驚いたものだ。BT0の標識調査担当者であったボブ・スペンサーは、たとえ驚かなかったとしても、すぐに間に合うデータが得られたことで非常に喜んだ。
一九五四年の春、イギリスおよび海外の標識調査者のためにダンジネス・プライヤーを初めて売り出した時の価格は、一組七シリング六ペンスだったが、これはすぐにジーンの生産能力を超えてしまった。さらに一年後、ブリティッシュ・バーズ誌にエリック・ホスキングの写真とともに紹介されたため、需要はもっと増加した。BTOは端を重ねなくてもよい突き合わせ型のリングに適合した新しい独自のプライヤーを計画していたので、喜んで我々の道具を宣伝した。「ダンジネス・プライヤーは標識調査の標準装備になってきており、これなしで作業を進めることなど考えられないほどだ」
ダンジネス鳥類観察ステーション(DBO)の常連さんのほとんどは、戦後になってこの趣味をはじめた人だった。わりあい古くから地元で鳥を見ていたハリー・コーケルや兄弟のエドウィン、ロン・ウィリアムズ、そして私自身などは、まもなく、新しいむこうみずな世代の大多数にとって、バードウォッチングは、戦前の私たちにとってのような純粋の楽しみとは少々違ってきていることに気づいた。まじめで野心にもえていることは、もちろん決して悪いことではない。ネス岬で翼をひろげはじめたばかりの少年たちの中には、じっさい自然保護団体のすぐれた専門家になったり、マスコミ関係の鳥学者として実績を上げたり、その両方になった者も何人もいる。DBOからは何百もの標識調査のライセンスが新しく獲得された。しかし、このライセンスはあまりにも簡単に取得できるものだった。手にした鳥や、歴史として残る記録に対して責任を負うべき、十分に資格のある標識調査者になるのに必要な条件といったら、五〇羽の鳥にリングをつけたことがあり、フィールドにおいて誠実であると表明されることだけでよかった。私は、ほんとうに不器用だった何人かを落第にせざるを得なかったが、そのうちのいくたりかは、私を決して許してはくれなかった。
捕獲設備の拡大とともに、ダンジネスを標識調査者の訓練センターにしようという動きが大きくなってきた。RSPBのジュニア・バード・レコーダーズ・クラブを運営しているグウェン・デイヴィスが、ネス岬で一週間にわたる少年少女たちの標識調査の講座を受け持ってくれないかと依頼してきた時に、私たちは喜んだ。一九五二年と一九五三年の八月、ジョージ・エドワーズがスパーン観察ステーションで実施していたものだ。一九五四年にはスパーンとダンジネスの両方で講座を開き、その後はダンジネスで私とジョージがそれぞれ一週間ずつ講座を持った。ジョーン、メアリー、マージョリーが子供たちの母親役をつとめた。
子供たちの多くにとっては、両親の監督下から出た初めての休日だった。私にとっては、戦後のイギリスの鳥好きな子供たちの性格や、グループでのふるまいを間近に見る初めての経験だった。少年たちの多くには、生き生きとした精神や陽気さが欠けているように見受けられ、何人かについては見ていて悲しい気持ちになった。人は、自分の子供時代と比べて境界をひくものなのだろう。このひねこびた鳥学者たちには、私たちが鳥に対して抱いている驚きやスリルというものが感じられないようだった。私たちにとっては、育ってきた間じゅうずっと感じており、今なおそれに熱中しているものであるのに。女の子たちのほうがずっとよく気持ちをあらわした。
それでも、子供たちといっしょにトラップへ向かって、そうぞうしく熱心にやぶこぎをしている時など、まるで村のサッカーチームのフォワードラインを率いているようで、こんな時の子供たちの様子は大好きだった。いくらか息を切らせながら、トラップの末端のガラスをはめた箱にたどりつく。きっとたくさんとれているはずだ。集まってのぞきこむと、大きなクロウタドリが一羽、小さなチフチャフがほんの数羽。
「まあ、かわいそうに!」女の子たちが声を上げたのがよく聞こえた。リングをつけた鳥が手渡された時、子供たちは生まれて初めて生きた鳥を手に持って、特徴を話し合ったり、まぢかに見た鳥の美しさに目をみはる。それから彼女は(または彼は)指を開いて、鳥を自由の世界に戻してやる。子供たちの同情、そしてよいことをしたという印象をご理解いただけるだろうか。これで、この鳥は生き続けることができるのだ。
子供たちのほとんどは、戦前にその年頃だった私たちの誰とくらべても、鳥についての学問的な知識をたっぷりと持っていた。また多くの子は、珍しい鳥を見つけることができれば栄誉が得られると知っていた。ただし、これは私たちにはおよそとるに足らぬことだった。今では多くの新しい本、放送、鳥類観察ステーションへの来訪などが著しく増え、珍鳥を見る機会も多くなって、トップをめざしてスタートを切るのはむしろ簡単すぎるほどだった。
「いいかい、オオジュリンの雄、雌、幼鳥の違いがぜんぶわかるようになるまで、ツメナガホオジロのことなんか考えるんじゃない」私はしょっちゅうお説教したものだ。ある日、二人の少年がトラップのひとつから木綿の鳥袋を提げて、意気揚々とやってきた。鳥袋の中では複数の鳥がとびはねていた。
「ほら、いいものを持ってきましたよ。これまで見たことがない大きなホオジロ類の一種です。過眼線を見てください!」一羽を見てみるとイエスズメの雄だった。もう一羽も同じだった。
もっともありふれたこの種類を間近でじっくり見ようなどとしてみたことがないのは、なにも子供たちに限ったことではなかった。ジョージ・シャノン、アラン・クラフと私はブリストル海峡にあるランディ観察ステーションで秋の一週間を過ごし、土曜日遅く帰宅した。そして、この日の夕方にツメナガホオジロが捕獲され、私たちが帰るのを待って、放さずに夜の間置いてあるという電話があったことを聞いた。翌朝、波浪荘からステーションに出かけてみると、くだんの鳥はもう手の中であれこれひっくり返されて、羽の各部を示され、撮影中の映画フィルムにとられている最中だった。換羽中で、だいぶ羽が抜けた哀れな個体であったが、識別に十分な羽は残っていた。私はわれとわが目が信じられなかった。
「ほら、新しい鳥ですよ。一ペニーを壺に入れて!」喜び勇んだ声に答えた私のことばは、いささかしんらつにひびいた。「イエスズメの雄とその鳥のどこが違うかなんてことについては、一ペニーだって払う気はないね」
オックスフォードで毎年冬に行われる鳥類観察ステーションの協議会のため、ダンジネス鳥類観察ステーションでは映画を撮影していた。イエスズメ事件は当然フィルムからカットされていると私は思っていた。たいへん大きな会合であり、ワーデンとしての意見発表で、私はたどたどしく熱心に説明していたのだが、いきなり、スクリーンにかの哀れなイエスズメが映し出された。「これはツメナガホオジロと考えられたものです」私は消え入りそうな思いをしながら説明した。
「スズメの雄じゃないか!」鳥類観察ステーション最大の人物であるケン・ウィリアムソンが吠えた。床をころげまわって笑う人を見たのはこの時が初めてのことだ。偉大なるW・B・アリグザンダーには鼻であしらわれた。ケンや同僚の面々は、この事件に対してはたいへん寛大であった。彼をして最初の石を投げさしめよ・・・・
我々のすべてが新しい発見―そして失敗―をしている時期であった。以前より鳥に関する知識や関心が著しく増大した時期であった。
もっとも尊敬すべき人々ですら、とんでもないへまをやらかした。H・G・アリグザンダーと兄弟のW・Bが一九五二年八月、ダンジネスで何日かをすごした時のこと。セント・メアリ湾のそばにある小さな池のいくつかは、なかばゴミで埋められていた。昔の砂利採取跡のなれの果てで、ゴミ捨て場の常として、鳥にとってはよい場所だった。私はカイツブリ類を一羽見かけて、種類の識別にどうも自信が持てないでいたが、わかれて池をまわる時、そのことを話すのを忘れていた。予定通りに落ち合うと、ホレースが、特徴である熱心な微笑を浮かべて言った。「ミミカイツブリを見たかい?」
一分ほど遅れて戻ってきたウィルフレッドは、「冬羽のハジロカイツブリがいたよ」と言った。イギリス最高の鳥学者ふたりの意見が分かれたのでは、私ごときに識別できなかったのも無理もないですね、と私は言った。
「さあ、君の家に戻って、『ハンドブック』を見ようじゃないか」 この偉大なる必要にして不可欠な本の主要な著者のひとり、ホレースがのたもうた。
失敗の鐘を鳴らすのは実に簡単だった。私のしでかした失敗のひとつは、まさに最悪のものである。
フィールドにおいても、著書やたいへん読みやすい科学論文を書く時にも、同様にエネルギッシュなデイヴィッド・ラック博士は、奥さんのエリザベスといっしょに、日中に目撃される鳥の渡りについて、熱心に調べていた。私はダンジネスの記録をラック博士に提供していた。
秋の遅い時期、夜明けとともにセント・メアリ湾の浜辺に近いわが家から出かけていない時は、私は海岸沿いの鳥の移動を家にいながらにして記録することができた。移動がはじまって続いている間、一階のトイレの座席にすわったまま、ノートがとれるというのは実に具合がよかった。開いたドアからは海岸の防護堤がたいへんよく見えた。
いちばん多いのはムネアカヒワ、ゴシキヒワ、アオカワラヒワやその近縁種の小群で、汀線に沿ってネス岬の方角へ飛び出してゆくものだった。この小鳥たちは、ネス岬から英仏愛嬌を横断して、越冬地であるフランス南西部やスペインをめざす。捕らえられ、鍋の中や鳥かごをめざすことになるかも知れなかったけれど。
もっと大きな群れをなして海の方からやってくるのは、ノハラツグミ、クロウタドリ、ワキアカツグミ、そしてイギリスで越冬する七〇〇万羽にのぼるホシムクドリのうちの一部だった。毎年のようにヨーロッパ北西部から暖かいイギリスに渡来して、越冬するものだ。
しかし、これらの渡り途中の群れに先立って、コクマルガラスとミヤマガラスの長いばらばらの列がやってきていた。声を立てず、いかにも目的ありげに南へ向かって海岸沿いに飛んでゆく。何週間にもわたって、私はこの動きを渡りのなかに含めており、ラック博士にもコピーを送っていた。そして、当然知っていて然るべき事実を新たに学ぶことになった。海岸を北上してすぐのところのハイスの背後には、カラス類の大きなねぐらがあったのだ。私はそこに出かけて確かめてみた。渡りと思って毎日記録をとっていたのは、単に毎朝ねぐらから出発してゆく群れであった。




