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第六章 鳥類観察ステーションの日々  2 観察ステーションをつくる

2 観察ステーションをつくる


 一九五〇年代のはじめの観察ステーションは、鳥を捕獲して標識するために固定トラップを頼みにするのと同じく、週末や年次休暇をお気に入りの観察ステーションで過ごす常連さんたちの働きでなりたっていた。車を持っている人はほとんどなく、ロムニー=ハイス=ダイムチャーチ間の小さな軽便鉄道を利用してやってくる人も何人かいた。

 一九五五年九月にスコットランドから譲られたサイドカーつきのオートバイは、無料タクシーとして大活躍した。この頑丈な古いエンフィールド五〇〇は、RSPBの評議員であるデズモンド・ネザーソール=トンプソンがケアンゴームスやスペイ・バレー周辺の他の山々へ、イヌワシやアカライチョウ、コバシチドリ、ユキホオジロなどの繁殖地に出かける時に使われていたものだった。ここではまるっきり異なる職種についたわけである。

 観察ステーションの母胎をなす三つの団体の会員は、我々の貧弱な設備に一泊するために三シリングを払えばよかった。他の人は倍額である。特にこれといったよいことがなく、たとえば珍鳥が出なかったとしても、大型トラップを造成する手作業を手伝って静かな一日を過ごすことができるのだから、ふきげんな顔をする人はいなかった。休憩時間には浜辺でシー・ケイル(ハマナ)やイエロー・ホーンド・ポピー(ツキミソウの一種)の間に座り、通過して行く海鳥をかぞえたり、積み荷を満載して喫水線を深く沈めた船を眺めることができる。ここはドーバー海峡の入口にあたり、一日に四〇〇艘もの船が通過して行く、世界でも最も忙しい航路であった。

 ダンジネス人は粘液質(熱しにくく活気に乏しい性格)の漁労の民であり、毛糸帽をかぶった変な一行が出現して、庭にいる鳥をのぞいたりしても、別に文句を言いもせず、よそ者の存在を容認していた。こういうよそ者の鳥屋連中は、売り物にならないマガレイやほかの雑魚でも、バケツ一杯につきなんと半クラウンも出して舟から買ってくれたりするのだ。二軒あるパブもよく利用されていた。バードウォッチングが経済効果をもたらしはじめたわけである。

 点在するダンジネスのしげみは、灯台の足元では小さな庭のように成長しはじめており、ロング・ピットの南へ至る古い鉄道沿いに線状につながってきていた。地上に下りた鳥たちが餌をとったり休息したりするしげみがごくわずかしかなく、鳥がそこに集中することは、我々の資源ともいうべきものだった。しかし、当時は知られていなかったが、地下水需要の増大にともない、足下の地下水位には大きな変動が起こっていた。このため、トラップを設置した場所は一〇年ちょっとの間に密生した林や藪に変わってしまった。


 十九世紀末、ロンドンからパリに至る鉄道ルートを短縮するという、いたって起業家精神に富んだ計画ができた。この中で、「岬」に建設する予定の蒸気船ドックとフランス側のラ・トラポルテを九〇キロの英仏海峡横断フェリーでつなぐ必要が生じたことから、ネス岬の工業開発がはじめられた。このため南東地域鉄道は、四〇〇ヘクタールにのぼる砂利場を一エーカー(約〇・四ヘクタール)あたり五ポンドで購入し、アプルドアから平坦なロムニー・マーシュを横断する支線を早々に開通した。リッドから灯台に至る最後の区間の完成は、一八八一年十二月七日のことだった。

 ところが、このフェリーの計画は実現できないことがまもなく明らかになった。鉄道会社にとっては、たいへん安く購入することができた砂利を運搬する手段として支線を使うことで、まあまあの採算がとれたが、利用者は依然としてごく少なかった。リッドーダンジネス間の鉄道サービスは、一九三七年の七月四日に終わりを告げた。そして、ネス岬そのものから一・六キロのところに新しい「海浜リッド」駅が、「新ロムニー」駅に向かう変更ルートの延長線の駅の一つとしてオープンした。

 ダンジネス鉄道の小さな木造の駅舎は、地元住民以外のわずかな利用者にとっては、シェルターとしてたいへん具合がよかった。H・G・アリグザンダーの有名なネス岬への探鳥旅行は、一九〇五年、この人が十六歳の時にさかのぼるが、彼も駅舎のおかげでずいぶん助かったに違いない。適当な道路がまったくなかったため、ダンジネスは言うなれば世界のはてであり、おおかたの人にとっては神が見放したもうた土地と考えられていた。しかし、当時は隔離されてキツネもまだ入らず、平和を乱すものといえば、夜間に秘密の通路をつかって小石の荒れ地を横切って行く密輸業者だけだった。この土地を生活の場として選んだ鳥にとっては、すばらしい場所だったに違いない。

 鉄道が撤去された時、地元住民がこれといって使うあてがなかった古い垣根の杭がいくらか残された。この杭の列は、鳥にとっては灯台の庭からひらけた砂利場をこえて、おもだった藪の列がはじまるところに到達する、ちょうどよい飛び石になった。ダンジネスに上陸した夜間に渡る鳥のほとんどが、灯台の庭で一日のスタートを切った。ヘリゴランド・トラップは鳥が集中して移動する線に沿って設置するのがよいわけで、まもなく完成したトラップは大変よい成果を上げるようになった。一度などは、ハシグロビタキ、ナイチンゲール、各種のムシクイ類など、計六七羽もの小鳥が同時に捕獲箱に入っていたことがある。


 私たちはいつも資金難に苦労していた。しかし、労働力(特に女性の)についてはこの限りではなかった。労働力が必要なことはいくらでもあった。生物界の五〇パーセント以上を占め、あやまって「弱き性」と呼ばれている女性は、残る五〇%に対して絶大なる責任分担を背負ってくれている。解放された戦後の時代には、婦人がたの余暇時間は多くなり、余暇の使い方についてもっと発言権を持つようになった。鳥を捕獲してリングをつけるという行為にとてもすみやかになじんだのは、狩猟本能の発現と言ってもよいだろう。

 ダンジネスは広大で開放的で、風がかわりやすい土地だった。一九三〇年代には、自転車や徒歩で田園地帯に遠出することが一般的になっており、婦人がたは殿方にともなわれて出かけたものだ。戦後には、鳥にひかれて野性的でロマンチックな土地に女性が自分自身で出かけることが認められるようになった。そして、野生的なダンジネスはまさにロマンスの雰囲気に満ち満ちていた。「恋は気ままな野辺の鳥、馴らすことなどできやせぬ」とカルメンも歌っているではないか。

 数多くのお嬢さんたちが、鳥のリングつけに参加したばかりに、自分自身にもエンゲージ・リングをつけることになった。グレアム・ウェイシー・アレンは、私たちのかわいい姪のパール・ファネルと結婚した。ジョイ・バークレイは野外ではたいへん活動的な美人で、ダンジネス鳥類観察ステーション(DBO)の忠実なメンバー、レイ・コルデロと結婚した。彼女はベテランのリンガーになったが、リングをつけるようにと最初の鳥を私に手渡された時、自分がほとんどダウンしかけていたという話をいまだにするのだ。彼女は決して弱虫ではなかったが、たいへん風邪をひきやすいたちで、その時もひどい風邪をひきこんでいた。今になってようやくそれがわかって、私は狼狽している始末である。その日、私は灯台で夜を徹して、クロウタドリの渡来ラッシュが始まっているのを見ていた。そして観察ステーションの寝だなからみんなをたたき起こし、おきまりの熱いお茶いっぱい飲ませることもしないで、凍りつくような日の出前のトラップの見回りに駆り出したのだ。まったく!みんなそれほど熱心にならなくてもよかったのに。

 私はほんとうに好機にめぐまれていた。女性の常連さんの大半は、他からの手助けがほとんどあてにできない平日にも出てくることができるようだった。まったくすばらしいとりあわせのメンバーだった。ケイト・バラムは当時ロムニー・マーシュでひとり暮らしをしており、死にものぐるいになるほど熱中するたちだった。マージョリー・ヘイエスと校長先生であるご主人のテッドはベアステッドから来ており、二人ともとても器用で手ぎわがよかった。ベックナムから来るローナ・ケネディは生来愛くるしく優しい人柄で、目立たないように備品を寄付してくれていたが、きわめて有能な秘書役をつとめてくれた。ノラ・グームも育ちつつある我らのチームの大切な一員で、ウィンザーの町の司書だった。ネス岬へはくつろぎを求めて来ており、暖かい心と内気なユーモアを見せてくれた。その他の初心者としてはアクトンの治安判事のメアリー・ウォーラーがいた。たいへん熱心で、とうとう観察ステーションの議長にまでなった人だ。

 当時のひよっこ鳥学愛好者の中でも、ケント州北部から来たハロルドとジュディのフェネル夫妻は、周囲を楽しませてくれた。ご主人は電気技術者、奥さんは薬剤師で、まあ十人並みのバードウォッチャーのレベルといったところだ。ロンドン自然史協会のある鳥学者の高尚な発音をまねて、しばしば用いられるようになった警句を発明したのはこの人たちだった。とある八月の午後、私たちはリッドの砲兵基地の一部であるミッドリップスの湿地に出かけた。アメリカウズラシギが出たというニュースがあったので、探しに行ったのだ。泥の上でハマシギが何羽か餌を漁っていた。ハマシギはごく普通の小型シギで、よく似た他の種類を識別する時の指標になる。夏羽では腹が黒いが、小群の中の一羽はまだ夏羽のままだった。

「ほら、アメウズがいる!」自信たっぷりの声が上がった。「腹が泥で黒くなっているが、ごまかされてはいかんよ」

 

 もちろん、屈強な男たちもいた。ノーマン・バーンズ、ハリー・コーケル、テッド・ヘイエス、ジョージ・シャノン、ジーン・タニ―、ウェイシー・アレンといった面々である。ほとんど週末ごとに、そして年次休暇を費やして、個人のなし得ることはなんでもやってくれた。しかし、DBOのトラップや、屋内設備のほとんどを建設したのは、まさしく女性の手である。三・六メートルのポールであれ、巻いた金網であれ、彼女たちにとっては取り組むのに大きすぎるということはなかった。疲れきってのびてしまい、それでも楽しむ気持ちだけはあると、彼女たちはいきなり仕事をやめ、道具を放り出して座り込み、私に向かって思いきり毒づきはじめる。そしてみんなが道具を置いて大笑いするのだった。

 この情愛こもった習慣を始めたのはノラだった。私たち全員がびっくり仰天したどころか、彼女自身まで驚いたことには、ノラはおよそ司書にふさわしからぬ態度で、「バートのくそったれっ、くたばっちまえ!」とわめいて、灌木のセージのやぶにどさっと倒れ、昏睡したふりをした。なだめるためにキスをしようとしてかがみこんだ時、してやったりというかすかなほほえみがノラの唇に浮かんでいるのを私は見た。

 鳥類観察ステーションの建設というのは、バードウォッチャーにとってまったく新しい活動だった。この仕事は、戦後の生活様式のうちの楽しい部分だった。いまだに配給に頼る年月であるにせよ、高揚した精神に訴えるものであり、ラジオ放送の「グーン・ショー」のユーモアは、こうしたムードを盛り上げるのにたいへん効果的だった。おびただしい渡り鳥のラッシュとか、珍鳥の捕獲例とかがひんぱんにあって、「明日」の可能性に対して、きわめて陽気な気分がいつもみなぎっていた。観察ステーションの評判は国内へ、そして海外へもひろまり、私たちはそれを誇りにしていた。

 数年を出ずして、一〇ヶ所の大型のヘリゴランド・トラップが稼働するようになった。これは他のどのステーションよりも多かった。三・六×三・六メートルのカラス用トラップ第二号も作られた。これは、RSPBの保護区にあるトラップの補助になるだけでなく、もっと小さな小鳥も捕獲できるように改良を加えたもので、これもうまく行った。まもなく年間の捕獲放鳥は九〇〇〇羽、一〇〇種類にも達し、鳥についてのおびただしい知見が得られるようになってきた。どれほど多くのことがわかるか、数多くの昔からのアマチュアや鳥の専門家たちは目をみはった。

 ホレース・アリグザンダーと私は、このころよくいっしょに浜辺へ出て、楽しい時間をすごしていた。まるで少年のような熱心さで夢中になっている様子はとてもありがたかった。大ベテランの鳥学者であるこの人は、はるかに経験の浅いしろうと連中の間に入ってきたのに、初心者の誰にもおとらず興奮していた。いまや、ヨーロッパ大陸産のめったに目にすることがない珍鳥を、生きたまま自分の手に持って調べることができるのだ。一九〇七年にブリティッシュ・バーズ誌が創刊されて以来、彼はこうした珍鳥の目撃記録を寄せてきた。そのうちのいくつかの種類は、友人たる編集者のH・F・ウィザビーによって掲載を拒否されてきた。

 ホレースは、ダンジネスにおける友人であったかつてのRSPBの見張り人、フレッド・オーステンやジャック・タートの時代と、現在との可能性を比較した。彼らが「見つけた」珍鳥は、必ずしも死体で発見されたわけではなく、場合によってはコレクターのために採集されたに違いないと考えられている。

 私たちのバイブルとも言うべき大切な本は、かつていかなる研究もなし得なかったほどの進歩を見せているウィザビーの「イギリス鳥類ハンドブック」だった。一九四一年に完成した五巻からなるこの書物は、いまや観察ステーションからの新しいデータのラッシュで食われそうになっていた。測定値や羽衣の記載は、大半が博物館で得られた比較的数が少ない標本(大英博物館の所蔵標本は世界最大のものではあるが)によるもので、私たちは生きたデータを正しくとらせてくれる何千羽もの生きた鳥を手にしていたのだ。

 鳥類観察ステーションの初期の目標には、よい参考図書をそろえようというものも含まれていた。本がそろっていれば、何も初心者に限らず、誰にせよ、わざわざ識別用の重たい鳥の本を持ってこなくてすむ。これはステーションの大切な利点の一つである。戦後間もないこの時期には、価格にしても、サイズにしても、ポケットに手ごろな本というのはほとんどなかった。

 T・A・カワードの「イギリス諸島の鳥類とその卵」は、一九二六年以来、野外での頼みの綱となっていた。その一〇年後に出た、わが地元サセックス出身のノーマン・ジョイによる「イギリスの鳥の見分け方」もたいへん役にたつものだった。おおかたの人にとって最初のガイドブックになったのは、ワーン社の自然史シリーズのうちの一冊で、五シリングで手軽に買えるミス・S・ヴェア・ベンソンの「鳥」だった。特に一九五二年の版は、信頼すべき古典的な画家、ソーバーンによるカラー図版で、たいへん価値の高いものになっていた。ただし、この本は純然たる初心者向きのものだった。また愛鳥家連盟(BIRD―LOVER‘S LEAGUE)の書記であるこの人の記述は感傷的すぎて、我々の新しいいわゆる「エキスパート」には、この本はあまり高く評価されなかった。

 ジェームズ・フィッシャーの三巻にわたる本の最初の一冊は、一九四七年に出版された。半クラウンのペーパーバックという新天地を切り開いたこの本は大喝采で迎えられ、まさに天才的なものと評価された。

 ピーター・スコットも、こうした本が是が非でも必要とされていることをよく理解している著者だった。この人は、一時灯台に住んでいたという伝説もある。鴨撃ちから方向を転じ、一九四六年にスリムブリッジで雁鴨類の保護・増殖のための組織を創立したが、これは水禽協会へとすみやかに発展して有名になった。一九四九年、革命的ともいうべきピーター・スコットのポケット版の「世界の水禽ガイド」が出た。

 そして一九五二年になって、ついにコリンズ社の「イギリス鳥類ポケットガイド」が出版された。包括的なフィールドガイドとしては最初に、新しい傾向への勇敢な試みとなったもので、リチャード・フィッター著、そしてクレイ鳥類観察ステーションの管理者であるリチャード・リチャードソンの絵による。しかしこの本は、我々が記録をとる時に必ず用いる「ハンドブック」に採用されたウェットモア博士の分類法に従っていなかったという点で失敗した。

 ほどなく、世界的に有名な鳥学者で画家でもあるアメリカのロジャー・トリー・ピーターソンが、イギリスのガイ・マウントフォード、フィル・ホロムとともに、コリンズ社から「イギリスとヨーロッパの鳥類フィールドガイド」を一九五四年に出版し、ものごとを本来あるべき姿に正した。種類を広く網羅し、図示したこの本のおかげで、わが国ではまったく知られていなかったたいへん楽な鳥の識別方法が、信頼できるものとして使われるようになり、急速に広まった。



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