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第六章 鳥類観察ステーションの日々  1 観察ステーションのはじまり

鳥の標識調査ではよく聞く「オブザーバトリー」(鳥類観察ステーションと訳しました)。どのようなものか、どのように作り上げられて行ったのか、わくわくするような初期の日々の話です。

   第六章 鳥類観察ステーションの日々


   1 観察ステーションのはじまり


 一九五二年三月、RSPBの保護区リザーブ保護監視人ワーデンの契約と同時に、私は計画中のダンジネス鳥類観察ステーション(オブザーバトリー)の保護監視人を兼任しないかと招請された。

 はえぬきの地元育ちのバードウォッチャーである我々六人は、ヨーロッパ西部の渡り鳥の飛行ルートとして、ネス岬は特筆すべき重要な場所であるという知識とともに育ってきた。H・G・アリグザンダー、N・F・タイスハーストといったすぐれた鳥学者たちは、二〇世紀初頭からこのことについて書いている。胸がおどるような新たな鳥類観察ステーションをおくには最適な場所だ。こうしたステーションでは、鳥の渡りが記録され、捕獲・標識された鳥たちが他の場所で再び回収されて、移動や寿命についての知見が得られることになる。謎のまま残されていることはたいへん多かった。

 一九一〇年のこと、昔から鳥の渡りで有名だったドイツの小さな島、ヘリゴランド島に、さまざまな機能を備えた鳥類観察ステーション(オブザーバトリー)が初めて設置された。ドイツの鳥学者は、新しく考案された巨大なトラップを導入した。これは、鴨をとるのに使われていた「おとりじょうご」のいわば陸上版といったもので、すばらしく効果的なしかけだった。しかしイギリスでは、ロナルド・ロックリーが所有地であるスコックホルムのウェルシュ島に一九三三年に常設のトラップを設置するまでは、同様なものはなかった。

 このトラップは、当時の水準からみると画期的な成功をおさめ、イギリスではまだ記録されていなかった珍鳥を含め、数多くの渡り鳥を捕獲することができた。当時、島に生息する海鳥についてはある程度の規模の標識調査が行われ、記録もとられていたが、日課として行われるような調査はまだなかった。

 ロックリーの助力を得て、イギリス最初の鳥類観察ステーション(オブザーバトリー)がフォースのファース沖にあるメイ島に設立されたのは、翌一九三四年のことだ。トラップや宿泊施設、その他利用者のための設備を備えたものだ。当時のアマチュアとしてはもっとも冒険的なバードウオッチャーであった我々は、沖合の小島だけでなく、もっと行きやすい場所に新しい観察ステーションを設置してほしいと文句を言った。しかし、戦後になってバードウォッチングの趣味が爆発的に広がるまで、しばらくこれといった動きはなかった。

 イギリス諸島のまわりには、岬や海岸の一角など、気まぐれな天候のために上陸した渡り鳥を捕獲したり、集中して通過して行く鳥を記録するのに適した場所が数多くある。こうした場所の特徴は、やぶなどの植生が乏しく、鳥が休息や採餌のため、かぎられた場所に集中するということだ。また、たいていはネス岬と同じように灯台があるので、おもに夜間にわたる鳥たちが灯台にひきつけられることになる。

 適当な場所の保有権さえ得られれば、スパルタ的なごく簡素な宿泊施設と、少なくとも一か所の捕獲用の「ヘリゴランド」トラップを備えた観察ステーションを新たに設置できることになった。一九五二年当時には、シェトランドとオークニーの中間に位置するフェア島から、アイルランドの南東のすみにあるソルティー島まで、一〇ヶ所の観察ステーションが海岸を鎖状にとりまいていた。

 鳥の捕獲技術や手にした鳥の調査方法は、急速に向上し、毎日のように数多くの新しい知見が得られた。ごくふつうの男―女性もーであっても、鳥学のインスタント・エキスパートになることができる時代が到来したのだ。

 この情勢にともなうまったく無害な流行としては、耳新しく、高級そうに聞こえる専門用語の使用が挙げられる。こうした用語の大半は観察ステーションの首席管理者であるフェア島のケン・ウィリアムソンの真似で、この人こそはブリティッシュ・バーズ誌やその他の科学雑誌、一般誌でバードウォッチャー風のことばというものを広めた人物である。

 ケンによる、鳥の移動がいかに天候に左右されるかという込み入った理論は、たいへん刺激的なものだった。ただし、これは低気圧と高気圧の間の大気の乱れの中に生じる前線こそが、彼の愛する小さな離れ島、フェア島へと鳥たちを流す働きのすべてだと信じられている理論だった。

 戦前からのスコックホルムとメイ島の観察ステーションに次いで、一九四七年にフェア島とブリストル海峡のランディのステーションが戦後最初に作られた。ヨークシャーのスパーン岬が一九四八年、一九四九年にはリンカンシャーのジブラルタル岬とノーフォークのクレイ、一九五一年にはノーサンバーランドのモンクス・ハウスとソルテイー、そして今、ダンジネスに。これに続いて計二六ヵ所の観察ステーションが作られ、イギリス全土を実にうまくカバーしているが、これは世界に類を見ないものである。


 ネス岬に観察ステーションを開設する動きは、ステーションの働き手として最も経験豊かなロナルド・ロックリーとイギリス鳥学会の支援を得て、フェアライトの近くに住むデンビー・ウィルキンソンによって一九五二年早々から進められていた。ケント州鳥学会の事務局長であるジョージ・シャノンの正式な招待によって、私は三月三〇日に開かれた最初の会合に出席し、なすべきことや人材について話し合った。

 私たちは灯台の下にあるハイス=ダイムチャーチ鉄道のリトル・ロムニー駅のレストランに集まった。E・M・ニコルソンは長年にわたって尊敬されてきた鳥学者であり、できて間もない自然保護会議ネイチャー・コンサーバンシイの理事長にちょうど就任したところだった。自然保護会議は観察ステーションの母胎となるべき団体の代表であり、全体を統括していた。デンビーとハリーはヘイスティングス自然史協会、ジョージ、ジョー・カトリン、私はケント州鳥学会、そしてジョン・バリンダーとジェイムズ・ファーガソン=リーはロンドン自然史協会に所属しており、またRSPB本部からオブザーバーとしてジェフリー・ボスウォールが出席した。

 ロンドン水先案内組合トリニティ・ハウスが、所有しているイギリス海軍信号所を貸してくれることになった。レンガづくりの古い建物の一群は平坦な砂利浜のはずれにあるが、いまや雑多な住人を受け入れることになったわけである。この建物は円形の堤に保護されており、この堤を築くため、外周には深い溝が残された。ここが「モート(壕)」であった。モートの中のヤブイチゴやハリエニシダ、イラクサなどの吹きさらしのしげみ、また古いベッドや乳母車といったたぐいのがらくたは、数多くの渡り鳥の隠れ場になった。リッドの町長のゴードン・ペインは、所有している鉄道用地の大きな部分をトラップ用地として使ってよいと既に許可してくれていた。

 ものごとは、活気あふれる熱心さでただちに進行した。誰にせよ、新しい観察ステーションを始めるのに役立つようなものを、何かしら、たとえば古い家具、灯油ランプ、プリマス型ストーブ、各種の道具などを見つけて提供することができた。ハリー・コーケルは新聞社の副編集長という地位にあり、まるでリスのような雑多な知識の集積をもってして、どこで何が手に入るか、誰に手伝ってもらえるか、何をーもちろん、何をすればよいかなどと考える必要はさらさらなかったーすべきか、などのことをすべて心得ており、すぐさま地域の中でも、法的な仕事のあれやこれやについても、中心となるべきキングの駒になった。現在もなお、彼はその位置にある。

 ジョン・バリンダーは、自分が委員をつとめるRSPBや自然保護会議との交渉といったロンドンにおける立役者としての役職を果たした。RSPBの写真家であり、熟達した野外調査者であるヨークシャー人のジョージ・エドワーズは、どんな天候の日もいつもくたびれた黄褐色の長いレインコートを着ていた。彼はスパーン観察ステーションでの経験を生かして、第一号のヘリゴランド・トラップの位置選定に来てくれた。

 当時はあたり一帯と同様、まわりにやぶ地がほとんどなかったので、このトラップはとてもよくできた。ロング・ピットの端から続くように作られたが、ここはダンジネスの初期の砂利に採取跡で、縁どりに植生が豊かに育つだけの歳月を経ており、当時はネス岬の前にある唯一の湖だった。しかし、砂利が掘りつくされた結果、現在では開けた深い水面のみが残され、地質学的な重要さのみならず、独特の美しさをも失ってしまった。

 RSPBの上司であるフィリップ・ブラウンは、私に二週間の域外勤務を命じてくれたほか、新設の観察ステーションに対する補助金を倍額の四〇ポンドにするように委員会に働きかけてくれた。ものごとはあらゆる点で好調に進んだ。トラップの建設は一九五二年七月に始められた。その時には隣接しているRSPBの保護区での繁殖時期は終わっており、私のおもな仕事は夜に書きものをすることだった。戦前、多年にわたって小型のヒワ用のトラップ(シャドーネレイ;フランスで考案されたもの)、ポッター・トラップ、無双網、コウモリおとし、そのほかザルの端を上げて棒で支え、ひもをひいて食用や飼い鳥用に鳥をとる昔ながらのしかけの様々な改良版を発明してきた人間としては、二一メートルの長さ、一二メートル幅、三・六メートル高の大きなヘリゴランド・トラップを建設するのは、わくわくするような仕事だった。

 ダンジネス鳥類観察ステーション(DBO)の最初の年には、平日に私を手伝ってくれたのは、おもにメイトストンから来るフィル・レッドマンだった。週末にはたくさんの助っ人が来てくれたので、寝る場所だけでもなんとか確保する必要があった。

 一九五〇年代はイギリスの鳥類観察ステーションの黄金時代である。観察ステーションが海岸に沿って広くひろがり、たくさん作られたというばかりではない。そこでの仕事に関係するのは、胸が高鳴る新しい体験だった。ともかく、何をおいても面白かったのだ。観察ステーションに集まる人は大半が初心者だったが、初心者であることは何の問題にもならなかった。軍放出の不格好な両繰り式の六倍の双眼鏡が、手に入るものとしては最良の装備だった。新式の軽量の三脚や、プリズムで正立の画像が得られる新式の望遠鏡を使うというのはアメリカの新しい方式であり、もし知られていたとしても、機材を手に入れられる人はほとんどいなかっただろう。

 一九五〇年代のはじめは、日本製の繊細なナイロンのカスミ網が導入され、ほとんどどんな場所に現れた珍鳥でも捕獲が可能になる前だった。ケン・ウィリアムソンの不滅なる言辞によれば、カスミミストネットは、九月というミストがちの月を「芳醇なる大収穫をもたらすカスミ網の季節」にかえた。

 当時は、ホットラインで入手した珍鳥情報によって、イギリス全土のどこであっても、見るためにすぐさまかけつける、というような風潮はあまりなく、一般的でもなかったので、珍しい鳥が見たければ、是が非でも観察ステーションに滞在する必要があった。カスミ網と機動力の向上で、観察ステーションの滞在は必須条件ではなくなったわけだが、至福の一九五〇年代なかばには、私たちはそんなことに気づきもしなかった。

 一九五六年一月にオックスフォードで行われた鳥類観察ステーションの協議会で、ジャージー観察ステーションのアンソニー・ル・シューアが見せてくれたカスミ網は、まったく驚くべきものだった。ダンジネス・ステーションはこの人を通じてカスミ網を最初に取り入れた。ケイト・バラムと私は保護区のへりに立つブリックウォール農場を風よけにして、九メートル×三・六メートルの薄いナイロン製の網を、二本の棒を使って慎重に立てた。カスミ網に最初にかかってリングをつけられたのは、およそロマンチックでないことには、イエスズメだった。

 革命的ともいうべきカスミ網の一番の長所は携帯が楽なことだったが、開けた土地で風が強いダンジネスではあまり効果がなかった。ホーンチャーチのパーシイ・ハッチングスが日本から直接カスミ網を買うことができたので、この人の助けで、私は標準型に改良実験を加えられるだけのストックを持つことができた。改良型のひとつは一・八メートル×一・八メートルのサイズで、鳥がよく利用する孤立した藪に仕掛けるにはたいへん効果的だった。ハシグロクロハラアジサシを初めて捕獲したのもこの網である。エドワード・グレイ研究所のデヴィッド・ラック博士の助手、クリス・ペリンスと私は、この網をデンジマーシュの砂利採掘孔に浮かべた樽にしかけた。ハシグロクロハラアジサシは、ひらひら飛んで優雅に水面の昆虫をひとしきりつまみとったあと、いつもこの樽を止まり場にしていた。

 いちばん効果を上げた改良版のカスミ網は、九〇センチの高さの一段の網で、三・六メートル×一八メートルのもともとの網から切り取ったものだ。地上で採餌する鳥たち、特に渉禽類は、背後に適当な覆いがない開けた場所だと、三段の網ではてっぺんが見えてしまう。夜間に捕獲してみようと私が言い出した時、いつも冒険的なたちのメアリー・ウォーラーは、とりわけ熱心に助手を志願した。私たちはもう一人の助っ人さんと一緒に、闇夜にミッドリップスの泥地でこの長い一段網を張った。すぐにコオバシギが三羽かかった。メアリーはいたって古典的な勝利宣言を述べた。「やった!ひとり一羽ずつ!」

 自分の手でリングをつけた鳥のリストに一種類追加するというのは、当時はたいへん重要なことだったし、今でも多くの者にとっては同様である。

 奇跡を呼ぶカスミ網の冒険が始まる前には、私は携帯や設置が楽なように、一本竿の無双網を工夫して使っていた、冬のある日、開けた広い砂利場で、私とケイト・バラムはこの網で生まれて初めてのハマヒバリを捕らえた。「まあ、そんな、私がリングをつけるなんて!」私がケイトにハマヒバリを差し出すと、ケイトは震え出した。

 この網を使って、ベーコンの皮を餌に、ヒルバー観察ステーション初のキョウジョシギを捕らえたこともある。チェシャ―・ディーの小さな島にあるゴミ捨て場でのことだった。この時はエリック・ホスキング、アランブルック卿といっしょに、この島で十月の十日間を過ごした。採餌場の干潟が満潮で水の下になると、三万羽のコオバシギ、二万羽のミヤコドリ、そして無数の他のシギ・チドリ類が岩場に大集結する。この壮大な大群は写真家のためのもので、どれほど標識調査者リンガーの指がうずいたとしても、手出しするわけには行かなかった。


 私の新しい仕事のうち、傷ついた鳥の世話をしてくれるはずだとあてにされることは、だんだん重要な側面になってきた。もっと後になって、特に一九六〇年代になると、農薬に毒された昆虫や小動物を食べて中毒したものも多く含まれるようになった。ぞっとするようなけいれんを起こして死んでゆくフクロウをなすすべもなく見守ることもよくあった。

 同様に悲しむべき事態は、重油に汚染された海鳥が観察ステーションやわが家に持ち込まれた場合である。RSPBとRSPCA;イギリス動物虐待防止協会のアドバイスを受けて、私たちは油を溶かすクリーナーを幾多となく試してみたが、冷たい水につかっても大丈夫な程度まで、羽毛の耐水性を回復することができたものはひとつとしてなかった。タンカーのトリー・キャニオン号がシリ―沖で転覆し、大規模な重油流出が起こった時、私たちのところにも海鳥の一群が送り込まれてきた。すべての鳥は死ぬか、呑みこんだ重油のために腸を侵されて致命的な状態になり、死によって長引いた苦痛が終わるまで生きながらえることになった。

 ウミガラスを一羽、海に放したことがある。餌をやって世話をした結果、見たところはきれいになったし、とびぬけて元気がよい鳥だった。ジョーンと私は双眼鏡でウミガラスを見守り、泳いだり羽ばたいたりして視野から消えるまで見ていて、ほんとうにほっとした。家に帰ろうと向きを変えた時になって、水平線のかなたに再び小さなしみが現れた。しみはぐんぐん大きくなり、やがて必死にもがいている私たちのウミガラスになった。苦痛に満ちた長い時間の後に、ウミガラスはようやく岸に泳ぎついて、私たちの足もとにくずおれた。ぬれそぼった羽毛がもつれた束になってへばりつき、ぶるぶるふるえる皮膚があらわに見えている。

 よく暖まって回復した後、このウミガラスはわが家のペットとして残る生涯を送った。暖炉の火の前にしゃがみ込むのが大好きで、いちばん新鮮な魚しか食べず、白い液状のふんをびしゃっと噴出するのだが、必ずしも、たっぷりと敷いてある新聞紙の上にしてくれるとは限らなかった。ジョーンはこの鳥が気に入りすぎていたので、文句の言いようがなかった。一八か月ののち、ジョーンのひざの上の毛布の中で、ウミガラスが眠ったまま息をひきとった時には、とてもつらかったものだ。

 強風の中でワイヤーに衝突して傷ついたチゴハヤブサは、ありがたいことにめざましい回復を見せてくれた。この小型のハヤブサはたいへん速く飛ぶことができて、ツバメやイワツバメを主食としている。私はそのかわりにイエスズメを与えた。栄養のバランスをよくするために、地元の子供たちが大型の昆虫をとってくれた。こうした手段で、イギリスで最も稀な種類の一つであるこの猛禽を救ったわけだが、モラルの面からは隣人にとやかく言い訳をしなくてすんだ。イエスズメはふんだんにいて、チゴハヤブサはごくわずかしかいないが、こうなった責任の大半は人間にある。いずれにせよ、ツバメをとって与えることをご想像いただきたい。みにくいネズミを殺すのは正しく、美しいキツネを殺すのは不当なのだろうか。キツネは急速に増加してきた殺し屋で、おまけに、食べるために必要な数以上のものを殺すのだ。


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