第四章 砲兵隊と野戦病院 2 測量部隊
2 測量部隊
一年後、我々はたくましい連隊になったと言われるようになった。それは真実であった。モンゴメリーの指揮下でたっぷりと修羅場を味わい、それを誇りとして泣き言など言わなかった。生涯でこれほど自分に適した生活はないと感じたほどだ。かつて、胸が弱いため長生きできないと運命づけられていたのはほんとうなのだろうか。
野戦砲兵隊の新しく作られた内地防衛連隊の一部として、十分に訓練を積んだ我々は、ロンドン防衛に配属された。準備が整う前に、いつ何時に敵の侵攻がはじまってもおかしくなかった。この死にものぐるいの戦略の一端を担う兵員として、私は制服制帽に筋が一本入った砲手代理に任命された。一つの野砲連隊は、おのおの八基の二五ポンド砲を備えた砲隊三つから成り立っている。二五ポンド砲は動きが速く、命中すれば手ごわい装備ということだった。海岸に配備されている古ぼけた役立たずの血なまぐさい海軍砲の犠牲になるよりはましである。
野戦砲は、ふつう丘や森のかなたの見えない標的に向かって発射される。野砲連隊にはこのための測量部隊があって、あらかじめ先に進み、地上の大砲のために目標の位置を定めていた。こうした地図は、二点縦座標測量で、対象物の高度と相対的位置を正確に割り出さなくてはならない。チームは将校一人、軍曹一人、砲手一人、砲手代理二人、および兵員五名から成り立っていた。ようし、きみ、いいぞーきみ、きみ、そしてきみ、志願したまえ、と言われた。
セント・レオナードのベックスヒルとラークヒルで、我々は軍独特の特別な三角測量の方法を学んだ。これには対数表、スライド定規、指方規、平板、小型の経緯儀および気象学が必要である。この方法はたいへん魅力的だった。アカデミックでもある上、軍独自の申し分なくすばらしい短絡型の方式である。我々は正しい角度の三角測量が織りなす感情抜きの価値や、タンジェント、サイン、コサイン、方位角などについて流暢に話したりする格好よさに惚れこんでしまった。
生まれ故郷のサセックス州ダウンズの丘陵地帯で、こうした軍事科学を野外に応用する演習をした。空気は澄み、ヒバリの声がやかましいほど響く中で、三角法を応用したり、過測線を引いたりしたわけだ。ほどなく我々はこの測量法をほとんどセンチメートル、秒の単位にまで正確にできるようになって、たいへん誇らしく思った。軍事報告には何ひとつこうしたことは書かれていないが、きわめて正確な過測線をひくことができるのは、個人としてもぞくぞくするような経験だった。我々は射程距離内でスロープに面してすわり、提供したデータにもとづいて、われらの砲手が火薬を半分だけ充填した砲弾を発射し、動くタンクという目標物の満足のゆく至近距離に弾が落ちるのを見守った。これは、いわば大きなおもちゃを使って行う熟練を要するゲームであり、みんな夢中になった。わが測量班は欠乏と困難から作られたようなものだが、我々はうれしくて有頂天になるほどだった。
我々は砲兵連隊の第一七二野砲連隊に配属された。本部はアシュフォードのそばの古い修道院、ホートン・プライオリに置かれていた。かつてロンと私は、ライからここまで来て巣あさりをしたものだ。修道院の美しい敷地は、乱雑なかまぼこ型の兵舎で損なわれてしまっていた。
今では私は制服制帽に二本の筋が入ったれっきとした砲兵下士官だった。そして好むと好まざるとにかかわらず、隊員に測量技術を教え込むことを義務として負っていた。大きなホールにぎっしり詰め込まれた徴兵された聴衆―大半は退屈しており、おまけにほとんどは冷笑的ときているーを前にしてステージに上がるのは、はじめは容易なことではなかった。しかし、ミルトン高等弁護士の「一〇一慣例古典」によいアドバイスがあった。「科学を目くらましに使うべきではない。知ったかぶりをするな」
地図の読解は、もののみごとに聴衆に理解してもらえなかった。だが、黒板の前でとつぜんインスピレーションがわいた。私は黒板にゆるやかな起伏の輪郭線を描いた。そして二つの土塁を描き、その上に点をつけた。さらに、凹角でまじわる長い二本の尾根を描いた。新平たちはすぐさまこの絵の意味を見てとって、うれしがって盛んに口笛を吹いた。地図の読解がおなじみの高さに下りてきたのだ。これに力を得て、私はこの地形学的な計測図と横たわる女性の輪郭がはっきり関連づけられるように、もっと点線を描き加えた。そして黒板を拭いて絵を消そうとしたところへ、連隊特務曹長殿がいきなり入ってきて、なんでこんなにやかましいのかと理由の説明を求めた。「はあん、砲兵くん、これが君のバードウォッチングというしろものか!」私は別に新兵たちのさわぎを奨励したわけではない。このアイデアが人気を博したというだけのことである。
私は二年にわたって故郷の地に駐屯していた。ライの郵便局の同僚であり、いまではノッティンガムで軍事郵便局の仕事をしているロンと、少年時代にいっしょに長い時間をすごした地方の鳥について、手紙のやりとりをすることができた。多分にひねくれた見方をするなら、まあまあ幸せな時期とも言える。
もちろん、悪しき時代に決まっている。カンタベリー大聖堂が爆撃されるところを目のあたりにし、救援におもむいたこと。旅団演習中の野戦部隊のひとつが至近距離で弾幕にさらされ、連隊長と何人もの隊員がハリエニシダのしげみにもぐろうとしているところを殺されるのを見たこと。我々が駐屯しているために、ハイスが英仏海峡から砲撃されたこと。駐屯している時には、三角測量の測点として、教会の塔にあざやかな色をした我々の測量標識を立てていた。経緯儀で測る時、我々は対岸にあるカレーの埠頭の時計を反射板として利用していた。当然、対岸からもこちらがたやすく見えたわけだ。
戦時下では、まったくだしぬけに変化が起こる。一九四三年の元旦、我々はアシュフォードから列車で運ばれて、グリーノックの突堤のきわにいた。クライドには輸送船や駆逐艦がごちゃごちゃと集められていた。秘密の目的地に向かう輸送船団の大がかりな航海は、大きく輪を描くように大西洋のへりをたどり、Uボートやドイツのハインケル爆撃機の目をかいくぐって、まるまる三週間を要した。全部の船がアルジェにたどりついたわけではなかった。自分たちの反吐で汚れきった古ぼけたバナナ・ボート「オルビト」号から陸に上がれたのはたいへん結構なことだった。しかし、暗くなるとすぐに他の護送船団で陸を離れた。デッキの下で、我々はすぐうしろの船が魚雷の爆発で撃沈されるのを聞いた。
夜明けがた、ロビンが一羽乗船してきた。冬のさなか、いったいどうして地中海のまんなかにいたものか、ふしぎでならない。
小さな海辺の町ボーンの上手で、わが連隊の失われた三分の一の兵員が補充されるまでの間、我々は丘陵地帯の中で至福の三週間をすごした。北アフリカに来たことがある者は一人もいなかったが、目新しい数々の光景に対して、兵隊らしく無関心な風を装っていた。無邪気な連中が八名、町の探検に出かけたが、戻ったのは七名だけだった。心配するって?誰が。
私は店がぎっしり詰め込まれた「スーク(市場)」に入ってみた。ふと気づくと、肉市場の上の大きな部屋で、二つの長いテーブルの端から端まで、ホシムクドリの死体がいっぱい積んであるのに見とれていた。何千羽もあっただろう。誰か、ロンや私が昔やったのよりも上手なわな猟をやったに違いない。(最近になって、北アフリカのこの地域では二〇〇〇万羽~二五〇〇万羽のホシムクドリが越冬しており、このうち八〇〇万羽が殺されて、おもにイタリアに輸出されていることがわかった。)
無意識のうちに私は鳥をひっくり返して、リングつきのものや、斑点のないこの土地の種類を探しはじめていた。いちばん肥ったのはどれかとさわって物色していた婦人たちは、私に気付いて全員が手を止めた。二重ベールの上の黒い目が大きく見開かれ、室内はいきなり静まり返ってしまった。鋭い叱声が静けさを破った。血色の悪いフランス人が、殺してやりたいという目つきで私をにらみつけていた。
海岸沿いに細長く伸び、大きな山々の裾にあたる丘陵地帯をともなったアルジェの町は、私にとってはバードウォッチャーの天国のように見えた。ノッティンガムの軍事郵便局にいる気の毒な旧友ロン。私はホシムクドリや、サギや、上昇気流に乗って高く舞い上がるコウノトリのことをロンへの手紙に書いた。もうヨーロッパへの渡りの帰途についているのだ。シロエリハゲワシや、風変りなイヌワシや、高度がありすぎて識別できなかった大型のワシタカ類。アラビア人の墓地の年経てねじくれたオリーブの木立で呼び交わしているコノハズク、小さな農場の用水路にいるイギリスと同じ種類のカワセミのことも書いた。ほかにも親しみ深い種類の鳥がいて、オナガムシクイまで見られたが、クロサバクヒタキやイソヒヨドリのようにまだ見たことがなかった鳥もたくさんいる。変化に富む生息環境はすばらしかったし、探検する時間もたっぷりあった。岩だらけの斜面で測量をしている最中にも、バー・アンド・ストラウドのメートル単位の距離計をのぞいては、止まっている鳥に焦点を合わせたりしていた。画像の下半分が倒立になっているのには目をつぶることにした。
ボーンの町で、うすいペーパーバックの「アルジェリアの鳥」を見つけたのは、まさに奇跡ともいうべきことで、家に書く特筆事項である。軍事郵便を通じて、私はジョーンに一・六キロのレモンを缶にいれて送ったが、一個も傷まずに到着した。ジョーンはレモンをレッドヒル郵便局の職員の間で競売にかけ、四五〇グラムにつき三〇シリングで売って、赤十字に寄付した。
こうしたことは、すべて、いつまでも続けばよいと思うほどけっこうなものだった。しかし兵員の補充が終わり、我々の連隊は六四〇キロ東に移動した。山の高みでは雪が降っており、こだまが返る狭い峡谷を渓流沿いに下ってゆくと、チュニジアに入る広い谷あいの砂漠に出る。塩湖をいくつも過ぎたが、初めて見るフラミンゴの群れが、ちらちらする熱い大気の中で、まるでにじんだピンクの水滴のようにゆがんだ姿に見えていた。我々は急いでいた。バンやトラックの屋根には穴が開けられていて、運転の交代要員が立ち、空中からの不意の攻撃に備えて見張りを続けていた。たくさんの鳥が見られたが、識別できないままで通過してゆくのは無念だった。
闇夜の夜中、我々はどしゃぶりの雨のなかで止まり、大きな農場の周囲に展開した。ここは小さな町のベジャとシディヌシアの間にあり、クサル・メズアルと呼ばれる十字路の近くである。暗闇の中、それからの六時間というもの、私は三〇三口径とトムソン式自動小銃を手にたこつぼにこもり、すぐにも血まみれの戦場と化すであろう谷の向こう側で光る銃の閃光を見つめていた。そこはまさに前線のまっただなかであった。生まれ故郷のサセックスの海辺とは少々事情が異なっている。
脂っこい大量の朝食―我々が消化不良を起こさずにいるのはふしぎなほどだったーをとった後、古代ローマの廃墟の下のトンネルで、大理石の床の上で、何とか眠ろうとつとめた。しかしガソリンの臭気がきつくて、あえてタバコを吸うことすらできなかった。農場はつい先ごろドイツ軍に占領されたばかりだったのだ。
眠ることもできないまま起き出して、たこつぼと便所を掘っている兵士たちを手伝った。我々は人骨、釉薬をかけたタイルやつぼのかけら、そしておびただしいサソリを掘り出した。まわりで見ていたアラビア人たちは、このサソリが猛毒のものだと手振りで示した。そして小さな男の子を連れてきてみせたが、この子の足には、おそるべきこの節足動物に刺された傷が化膿して穴が開いていた。男の子はイギリスの戦闘用のバラクラバ帽をかぶっていたが、ヘルメットの卵型のひさしから見える黒い瞳の小さな顔は悲しそうだった。このヘルメットは、この子が身につけているぼろぼろの衣装の中で唯一まともな形をなしているものだったが、正面や黒いフラップは古ぼけて、まともとはほど遠い状態におとしめられていた。軍医殿がこの子の手当をし、連隊特務曹長殿はかいせん病みで死にかけているこの子の犬を射殺してやった。家への手紙に書けるような、それほどひどくないものごとというものは、最前線でもなにかしらはあるものだ。
しかし、腸チフスにかかったアラビア人たちが離れて行ってしまうと、わが連隊のみならず、戦況に急激な動きが出てきた。数日を出ずして、「チフス農場」はハンプシャー付近で行われた英雄的な戦闘場面の再来となった。ハンプシャーでは、フォン・アーネン率いる重戦車部隊がマテューから猛烈な勢いで降下してきて、イギリス軍の包囲網を突破しようとしたのだ。
我々の戦闘部隊の一つ、第一五五連隊は、装甲車の最初の突撃に対する障害となるべく、二四キロ離れた小さな谷の最上部に送り込まれた。私の測量小隊は戦闘指揮少佐殿とともに前の斜面の岩だらけのすきまに身をひそめ、ドイツ軍の第一〇装甲部隊と第五〇一重戦車大隊のおびただしい機甲部隊を調べた。我々の背後にひかえているのは、わずか八基の小さな二五ポンド砲のみだった。
大急ぎでスライド定規とコンパスを使い、貧弱なフランス製の地図で可能なかぎりの努力をして、戦闘指揮官が選ぶべき大砲の位置を割り出し、本部へと戻った。暗くなってすぐ、大砲が定位置につくかつかないうちに、敵の装甲部隊がなだれこんできて、わずかな大砲をすべて占拠してしまった。しかし、ハンプシャーの部隊と同じく、我々もやられてばかりいたわけではなかった。後になって、再び前進できるようになってから、ドイツ軍の戦車が砲口のわずか五〇メートルのところで打ち倒されているのを見た。彼らは視界が開けたところでズドンと発砲するのに慣れており、カバーされている場所から撃つチャンスがなかったに違いない。再び連隊の三分の一、そして数多くの親しい友が失われた。
私は、我々がつけるべき名誉のバッジのデザインとなるタイガー戦車を描くために、メジェズ・エル・バブからこの時の戦場へと戻った。戦車はこの時もまた炎上し、黒煙を上げていた。もっともこれは、軍事映画と写真班の撮影のために、車内に油に浸したボロをつめて火がつけられたためである。
チュニジアでの戦闘の間じゅう、ほんとうに幸運にはたっぷりと恵まれていたものだ。すぐ前やすぐ後ろのトラックが爆破されたとか、またはテントを張る時に機雷の敷設された場所を選んでしまい、かたわらの戦友がちょっとタバコを吸いに外に出てやられた、というようなことがあったにもかかわらず、私は無事だった。
砲兵隊の測量手としての特殊な技術は、おりおり突発的に必要とされたが、ほかにもいろいろと変わった任務につくことになった。たとえば、中国人の部隊の戦闘指揮といったものだ。車のうしろにやぶをひきずって埃っぽい道路を上り下りし、大部隊が移動しているようなふりをするのは面白かった。しかし、我々の派手な色をした測量旗を敵によく見える前方の斜面に立てて、大砲が動き出しているふりをするのはいささか英雄的なものだった。こうした無作法に対しては、必ずやどぎついお返しをいただくことになる。ドイツ軍の野砲の閃光を目にし、自分がねらわれているのを承知の上で、かけずりまわって道具を集め、カンバスを張った小さな六気筒のバンにかけもどる間、弾が命中せずにすむとはとうてい信じがたかった。
戦傷は二回しか受けていない。最悪のものは、ほとんど足を切断してしまうところだったが、これはテントの中でこわれた酒ビンを踏みつけてしまったためである。我々はイタリア軍の陣地に侵入し、赤ワインの貯蔵庫を荒らしたのだ。軍医殿は私の傷口を縫合しながら、これだけ酔っぱらっていれば麻酔薬の必要はないと言った。二つめの名誉のしるしは、上陸用舟艇から軽機関銃の台座をおろしている時、波を見誤ったために追った頭皮の裂傷である。
左にアメリカ軍、右にフランス軍と第八旅団をひかえて、我々はビゼルテとチュニスの大いなる進軍の途についた。熱狂的な時間だった。荒々しい岩だらけの地方は大平原にかわり、黄褐色の眺めのそこここには大麦の小さな畑があって、ヒナゲシの花で赤く色づいていた。しかし、このたいへん美しい地域が地雷原であることを我々は発見した。
鳥たちは春の渡りの盛りで、地方の繁殖期のただなかでもあった。初めて見る新しい種類を目にしても、ほとんど時間がとれないことは苦悶のきわみである。狭い涸れ川の河床を縦隊でうねうねとたどっている間、ほこりと轟音の合間にコシジロイソヒヨドリのはでな雄が嘴に虫をくわえてちらっと姿を見せたが、すぐに巣穴へと消えてしまった。何百羽というハシグロビタキの類―少なくとも六つの種類―が短い茶色の草の中で餌を探しているのが、焼けた戦車やトラックのすき間からちらちらと見えていた。止まることができさえしたら!東にある千本もの流れのあたりでは、おびただしいハシグロクロハラアジサシが空を埋めるようにたいへん低く飛んでいて、見張り全員に対し、ちゃんと注意を払うようにとわざわざ命令が出されたほどだった。見張りは車の天井から頭を突き出して、もっと危険な飛行物体を見張っている。チュニス湖の岸辺では渉禽類が餌を漁っていた。そのうちの何羽かは、まちがいなく私が初めて目にするコアオアシシギだった。でも、他のシギの種類は何だったのだろうか!
時折、海岸沿いの平地でとった小休止はすばらしかった。小さな三日月湖の一つで、我々は亀の子といっしょに泳いだり、タイヤチューブに乗ったりするチャンスをつかんだ。亀のこうらにはかぎ十字や十字もようが描かれており、砂底には投げ落とされた手榴弾が散乱していた。つい前の日に、この場所でドイツ軍兵士が遊びたわむれていたのだ。美しく彩られたハチクイが、少しも人間をこわがらず、裸になった私たちの体の上に低く急降下して、まるで面白がっているようだった。連隊中でもっとも疲れきった者も、もっとも頑固なものでさえ、楽しんでいた。
ボン岬における数日にわたる何千名ものドイツ兵とイタリア兵の掃討作戦を終えた後、五月一三日、我々は群衆の歓呼と喝采の中、キスや花やワインのボトルをふんだんにもらいながら、解放されたチュニスの市街を凱旋していた。我々の宿泊キャンプはハムマン・リフにあり、熱い砂と、岩の間の水晶のように澄んだ水たまりでの水泳を楽しむことができた。ジョーンにあてて、長いくわしい手紙を書く時間ができたこともありがたかった。こんどは地名も入れられたし、こんなにも健康状態が上々と感じたことはない、と真実として書けたこともよかった。