第三章 ポケットにライを 3 ジョーンとの出会い
3 ジョーンとの出会い
私の故郷のような小さな町で、郵便局の窓口業務につくことは、あらゆる女の子と話をするチャンスがあるということだ。毎日ネクタイを替える価値は十分あるわけである。
初めてジョーン・ハムシャーと会ったのは、彼女がおてんば娘で、ティーンエイジャーのキャンパーとして、ライバルのグループに属していたころだ。彼らはキャンバーの砂丘で、私たちが嫉妬深く守っているなわばりをおかしてテントを張ったのだ。ジョーンはセドリック・ホジソンのところでプリント制作をしていた。ホジソンは人々の家々やペットなどを銅板に刻んで版を作るアーティストで、手広く通信販売をしていた。ジョーンはスタジオから小包を運んできては、郵便料金や配達にかかる日数などのこみいった話をして行くのが好きだった。
同じテニスクラブのメンバーとして、私たちはよくいっしょにプレイをした。そのうちに、より友好関係を深める手段としてダンスを選んだ。羊の毛刈場の上にあるドリカー・ディックの大きな木造のホールで、一回六ペンスのダンス教室に通ったが、そこではよく知られた曲がいくつも、たいへんロマンチックなことに古い七八型レコードで奏でられていた。回数は多くはなかったが、「モナストリー」で行われる催しに着飾って出かけることもあった。十四世紀に建造され、砂岩とフリントで築かれたこの威厳ある古い建物は、私たちの町で最大のダンス場である。古めかしい建物には不似合いだが、ライで最初に一般公開用のテレビジョンのセットがここに置かれたのは、一九三六年十一月二日のことだった。
まもなくジョーンは、田園の中で私が標識つけをしている間、ヒナたちをベレー帽の中に入れて落ちつかせてくれるようになった。そして少女のころにバレーを踊っていた身ごなしの軽さで、タゲリやハジロコチドリ、アカアシシギといったジグザグに走って逃げる足の早いヒナを追いかけるのを手伝ってくれた。こうした鳥のための遠足は、たとえば釣りのような他の野外活動といっしょにするのがふつうだった。私たちは、キャンバーの砂丘の間で自分たちのキャンプをするようになった。車が砂浜に侵入してくるようになってできなくなったが、その後はライ・ハーバーの河口にぽつんと建っていた漁師小屋を使った。ライ湾の砂利の堆積は西にむかってペット・レベルまで続いており、ごく最近までシロチドリのもう一ヶ所の繁殖場所になっていたところだ。私にとって、当時のいちばんの興味は古い砂利採掘跡で、そこでは人が近づけない島でアジサシとユリカモメが安全に繁殖していた。
この巨大な砂利砂漠のそこかしこには、青みがかった黒いフリントの玉石が小さなピラミッド状に積んであった。アディモアから自転車で来ているウォーキング・ジミー老人が集めたものだ。マーテロ・タワーの近くの潮がさす泥穴のそばに自転車を置いて、木のくびきからバケツを二つ下げ、一日中とぼとぼと砂利場を歩き回り、大きめの石を探すのだ。髭を生やした背の高い老人は、こうした仕事をしているにもかかわらず、いつも姿勢をぴんとまっすぐに保っていた。石は列車でブラック・カントリーに運ばれて、陶器の釉薬にするために挽かれるのだ。利益の薄い、おそろしく骨の折れる仕事だったい違いない。これはライの町民に賦与された許可であり、伝統的な風物の一部になっていた。ライの街路の多くで道に敷かれている大きめの玉石を集める労力について、思いわずらった人などいただろうか。
私たちの漁師小屋の持ち主は、郵便局の同僚のデヴィッド・マーティンで、熱心な海の漁師だった。デヴィッドは、私の釣り糸やウナギ用の釣り鈎にはがまんがならなかった。そして、手で扱う引き網をあやつった。長さ約九〇メートル、一・八メートルの高さ、鉛のおもりとコルクの浮きがつき、長いタラの尾のようなふくろ網がついている。この網を張るのはたいへんな仕事だった。我々のうち二人がかりで、沖合に向かい、わきの下よりも高く水がくる深さまで網を引っ張って行くのだ。楽ではないが、報われるものも大きく、よく冬にこわばったゴムのカバーオールを着て働いたものだ。これを着て動くと、雪がふっている時でさえ、汗でびしょぬれになった。
誓って断言できるが、高揚した精神状態のもとで、私たちはヨーロッパソール(ヒラメの一種)が水面を泳いできて、浮きで持ち上がっている網のへりをおどりこえて行くのを見た。
時には背後の網が重くなりすぎて、海岸に向かって前進するのが不可能になることもあった。それでも、獲物がいつも魚とは限らない。よろめきながら、女の子たちが水面より上まで網を引っ張り上げるのを手伝ってくれる岸までようやくたどりつくと、私たちは急いでふくらんだタラのしっぽの部分をほどき、海草の間のクラゲやヒトデといったしろものを捨てた。一度、エッチュウバイの殻の大きな山を捨てたことがある。まわりに立って運のなさを呪っていると、ほとんどぜんぶの殻が歩き出し、海へと戻って行った。どの殻にもヤドカリが入っていたのだ。
ニシマアジも同じく大きなやっかいものだった。この魚は大きくて肉が水っぽく、私たちが食用としないただ一種の魚だ。こうしたものはセグロカモメのために砂の上に残しておいた。カモメはなんでも食べた。ニシマアジどころか、漁師にとっては呪いのたねである殻が固く、中央に孔を持つウニさえも食べた。
ロナルドは二歳年長だったが、恋に落ちたのは私よりも少し遅かった。「女の子にわずらわされるには、鳥のことで忙しすぎる」そのころは、女の子のことをバードと呼ぶのはまだ一般的ではなかった。しかし、ジョーンと同じく郵便局の窓口によく来て話し込んでいた他のかわいい女の子、メアリー・バックマンの魅力についにさからえなくなってしまった。まもなく私たち四人はキャンプや鳥、植物観察にいっしょに週末を過ごすようになった。さすがにもう、そう荒っぽいことをするわけにもゆかず、新しいきれいな郵便袋をいくつか、テントの床がわりに無断借用した。わずらわしいことのない生活からぞくぞくするような楽しみを得ていた私たちは、なんと幸せだったことだろう。
可能なかぎりあちこちをまわったものだ。全部で一〇シリングあれば、ライを早朝に出てフォークストンに向かう列車に乗り、フェリーでフランスのブーローニュまで行き、まる一日遊んでくることができた。しかし、たいていは自転車で出かけた。一〇〇キロくらいの距離はなんとも思わなかったので、週末にロンドンに行くとか、もっと長い休暇に親類を訪れることもあった。夏季休暇には家を離れて行くことができるかぎりの遠出をした。ライからグレート・ヤーマス、ノリッジへと出かけた自転車旅行では、エッピング・フォレストから市電が走るウェストエンド街と「シティ」を通り、シェパーズ・ブッシュに向かう三〇キロにわたるロンドン市内のくの字横断も含まれていた。当時、交通手段はほとんど問題にはならなかった。心配なしにどこへでも行けたし、駐車場をめぐる口論とか、ホテルの部屋の有無にわずらわされることもなかった。
キャンバー・サンズの砂丘をくだったところの海岸防衛隊の舎屋には、パフおじが住んでいた。おじや隣人は、屋外の井戸から飲料水をひいていた。ポンプの長い鋳鉄の柄にはこのような銘がきざまれていた。「たとえいずこであろうとも、彼はその望むところに行くであろう」私たちはそのとおりのことをやった。
私が生まれた時、祖母は「この子の長い足指をごらんよ。この子は遠くまで旅をするよ!」と言ったそうだ。後になって母が話してくれた。三〇年後、遠くへの旅行から帰路につき、大西洋のはるか上空を飛んでいる時、ジョーンが私に言ったものだ。「すてきな休暇だったわね、あなた。私たちの戦前の自転車旅行と比べられるかしら」ジョーンがどんなことを思い浮かべているか、私にはよくわかった。ジョーンときたら、どうがんばっても、お高くとまった気取り屋なんぞにはなれっこない。
この時は、よき友人であるスケルディング家といっしょにジャマイカで三週間を過ごしてきたところだった。案内役をつとめてくれたドンはキングストン大学の植物学の教授である。ジャマイカの鳥学者であるロバート・サットンとも一週間をともにすごした。デヴィッドとエリザベスのラック夫妻の友人で、夫妻は以前に彼をミンズメアに連れてきて、カリブ海にぜひ行ってみるようにと私たちに勧めてくれたものだ。ロバートは白人のジャマイカ人で、何でもよく知っており、観光客がかつて訪れたことがない石灰岩の高い山々での探鳥行に私たちを連れて行ってくれた。人の姿はなく、地図には「私、聞くな、おまえ、来るな」と記されていた。じっさい、地元民がすべて友好的というわけではなかった。この島が観光客に開放されるよりも前のことである。イギリスのパッケージ・ツァーは、お定まりのスペイン領のコスタ(海岸)からの変化をもとめていた。
愛らしい現地人のバードウーマン、リザ・サルモンは、美しいトライオール・ゴルフコースというおよそ探鳥地らしくない場所に案内してくれた。私たちをひきつれてグリーンを横切る時には、キャディ用のバギー車やストロークをしている人たちを堂々と止めて、だ。この島の固有種二四種のうち、なんと二一種までを見ることができたのには驚いた。すばらしい探鳥行だった。ただし、手にしてみるのとまったく同じというわけではないけれど。
帰りの飛行はバーミューダで遅延した。島の知事が狙撃されたとのことだ。空港のラウンジに前日の「タイムズ」のコピーがあり、ラック博士の逝去を報じていた。このところ、博士が重病であることは知っていた。
ダンジネス、そして後にはミンズメアで、私たちはデヴィッドとエリザベス、そして家族たちとよい友人になった。保護区の保護監視人としての仕事から、私は観察した鳥の行動や渡りに特有の光景を記録して、博士の研究のいくつかを手伝った。デヴィッドは科学的な著作においてはきわめてアカデミックだったが、こうした著作の中で自分が伝えようとしている内容を理解しやすく表現することには抜きん出てたくみだった。そしてまた、おどろくほど寛大な人柄だった。
保護区の管理のための新しい仕事について、私が何人かの委員の反対をなんとかしてよい方向に向けようと努力している時、RSPBの委員会のメンバーとしての博士は心強い味方だった。ある日、管理委員会がミンズメアの視察に来た時の博士の言葉は、実に効果的に働いた。「なんだって、ハーバートがやりたいようにやらせないのかい」
他の多くの人々にとっても同様であったように、ラック博士のような人物を知り得たことで、私たちの生涯はたいへんよきものになったと言えるだろう。