凝固
「佐藤」
名前を呼ばれた瞬間、教室の空気が変わった気がした。
ゆっくりと立ち上がる。
足が、やけに重い。
前に出るまでの数歩が、妙に長く感じた。
黒板の前に立つと自分に視線が集まる。
「えっと」
それだけで、言葉が止まった。
頭の中に用意していたはずの文章が、白い霧みたいに消えていく。
どこまで考えていたのかも分からない。
誰かが椅子を引く音。小さな笑い声。
それが、やけに大きく聞こえる。
「……」
何か言わなきゃいけないのに、何も出てこない。
時間だけが、静かに過ぎていく。
「もういい、座っていいぞ」
先生の声が、遠くから聞こえた。
私は小さく頷いて、席に戻る。
何も言えなかった。
それだけのこと。
いつも通りだ。
椅子に座ると、世界が少しだけ遠くなる。
(こんなもんか)
胸の奥で、小さくつぶやく。
驚きも、悔しさもない。
「次、岡本」
その名前で、空気が切り替わる。
おもむろと悠太が立ち上がった。
さっきまでとは違う期待の視線が、教室に満ちる。
悠太はみんなの前に立つと深呼吸を一度してから喋り始めた。
「今回のテーマについて説明します」
途切れない。迷わない。
まるで最初からそこに用意されていたみたいに、言葉が並んでいく。
その声は、教室の隅々まで届く。
さっきまでの自分とは、まるで違う。
私は机に視線を落としたまま、耳だけでその声を追う。
聞きたくないのに、聞こえてしまう。
(ああ、嫌だ。)
彼の声が聞こえるたびに昔の嫌な記憶が思い出される。
教室。
知らないわけじゃないはずなのに、どこか遠い場所。
同じように前に立っていた。
同じように、言葉を用意していた。
何度も練習した。
紙に書いて、声に出して。
大丈夫だと思っていた。
なのに。
「えっと」
そこで止まった。
頭が真っ白になる。何も出てこない。
誰かのざわめき。
誰かの小さな笑い声。
それが、波みたいに広がっていく。
(私、笑われてる。)
そう思った瞬間、何もかも崩れた。
言葉は戻ってこなかった。
ある日の授業、悠太と同じ班になった。
発表に向けて、彼は一人でも作業を進めていく。
スライドを整え、話す順番を確認し、細かい言葉まで修正していく。
その姿を見ていると、胸の奥がざらつく。
「ねえ、なんであんたはそんなに頑張るの?」
気づいたら、口に出していた。
悠太は少しだけ驚いた顔をして、それからすぐにいつもの表情に戻る。
「お前こそなんでそんなに消極的なんだよ」
当然みたいに返される。
「お前、もうちょっと頑張ったほうがいいんじゃないか? 色々とさ」
その一言で、何かが弾けた。
「うるさい。優等生ぶってさ、何様のつもり」
思ったより強い言葉が出る。
一瞬だけ、悠太の顔が曇る。
けれどすぐに、何もなかったみたいに息を吐いた。
「……ごめん。言い過ぎた」
それだけ言って、また手元の資料に視線を落とす。
私は窓の外の景色を見始める。
発表を当たり前のように成功させて見せるその当たり前みたいな彼の表情。
その表情を見て私の中の何かが固まった気がした。
私の悩んでることなんて眼中にないのだろう。
私は彼とは分かり合えない。
奥底から「真逆」なんだ。無理に関わる必要なんてない。




