発見文書 No.058
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発見文書 No.058
種別:編集者作業日誌
記録者:浅川静
日付:2025年6月
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2025年6月3日(水)
ラベルなしのMD(32本目)を再生した。
一回目の再生で機器が停止。二回目で逆再生。三回目で正常に聞けた。
北村ひろみの声が阿部記者の声に変わっていく録音だった。どこで変わったか特定できなかった。
書き起こしを終えて、しばらく動けなかった。
——動けなかった、のか。動かなかった、のか。
机の上を見た。手元に赤ペンがあった。
段ボール箱から発見された赤ペン。引き出しに入っているはずだった。鍵をかけたはずだった。
手元にある。
インクはまだ乾いていなかった。
引き出しに戻した。鍵をかけた。
今日は坂本さん(ビーガンレシピの著者)から増刷のお知らせメールが来た。二刷。「浅川さんのおかげです」と書いてあった。嬉しかった。ふつうに嬉しかった。
——「ふつうに嬉しかった」と書いた。ふつうじゃない嬉しさもあるのか。
夕飯は鍋焼きうどん。6月なのに鍋焼きうどん。暑い日に熱いものを食べたくなった。汗だくになった。味はあった。ちゃんと。
2025年6月10日(木)
赤ペンで何かを書いた気がした。手を見たがインクはついていない。
引き出しを開けた。鍵がかかっていなかった。
赤ペンは引き出しの中にあった。ただし位置が変わっていた。横向きだったのが縦向きになっていた。
キャップを外した。インクが少し減っていた気がした。
——減っていなかったかもしれない。前回どのくらいだったか正確に覚えていない。
中田さんとランチ。カレー屋。中田さんはカツカレー、私はチキンカレー。「最近どう?」と聞かれて「忙しい」と答えた。本当は忙しくない。「永遠の八月」の作業しかしていない。他の案件は——ない。
ビーガンレシピの仕事が終わってから、新しい案件が来ていない。来ていないのか、来ているのに受けていないのか。
メールの受信箱を確認した。川村さんから新しい企画の打診が2件来ていた。5月中旬と5月末。どちらも返信していなかった。
返信していなかった。
読んだ記憶はある。返信しなかった理由が——「永遠の八月」の作業が忙しかったから。
でも「永遠の八月」の作業量は、そこまで多くない。MDの書き起こしは業者に出した。写真の解析も業者。ノートの読み込みは自分でやっているが、一日中かかるわけではない。
返信できたはずだ。しなかった。
夕飯。コンビニのパスタ。味は——あった。たぶん。
2025年6月13日(金)
写真台帳の整理を続けている。
032番の写真を長く見ていた。
1987年7月20日、校庭で児童が整列している写真。列の端に、列に入っていない人影が一つ。短い黒髪。白い服。輪郭がぼやけている。
阿部記者が「だれ? このクラスは40人のはずだが」とメモに書いた人影。
名前がない。Kが言った通り——「長くいると名前が薄くなる」。
この子には名前がない。名前がなくなっている。誰よりも長くいるから。誰よりも多く助けたから。
佐藤愛のプールで手を引いた子。前田晃のファインダーに映った子。老婆が「毎年すこし疲れた顔になってる」と言った子。
写真の中のこの子は、疲れた顔をしているだろうか。解像度が低くて、表情は分からない。
でも——立っている。列の外に。みんなの外に。一人で。
一人で、ずっと。
2025年6月17日(水)
今日、この仕事を最初に引き受けた理由が思い出せないことに気づいた。
上司の川村さんに確認した。「あなたが引き受けたいと言ってきた」と言われた。
「私からですか」
「三月の十九日に、突然来て、やらせてほしいと言った」
三月十九日は段ボール箱が発見された日。
私はその日、どこにいたか。手帳を確認した。予定は空欄。
なぜ空欄だったのか。なぜその日に申し出たのか。
分からない。
川村さんのメールに返信した。新しい企画2件について「すみません、今は永遠の八月に集中したいです」と。
送信した後で、「集中したい」ではなく「しなければならない」と書くべきだったかもしれない、と思った。いや——「したい」が正確だ。したいと思っている。
帰りに本屋に寄った。何か別の本を読もうと思って。棚を見て回ったが、何も手に取る気にならなかった。
夕飯。何か食べた。
2025年6月24日(木)
昨日の日誌の最後に、自分が書いたはずのない一行があった。
《先生がよんでいます》
字は自分のものだった。
一昨日の日誌の最後にも、一行あった。
「せんせいのところへ」
こちらも自分の字。どちらも書いた覚えがない。
——阿部記者のノートと同じだ。阿部も8月16日に「先生の声が聞こえた」と書いた覚えのない一行を見つけた。8月20日に「忘れた方がいいこともある」を見つけた。
同じことが起きている。
今日の日誌を書き終えてから、最後の行を確認した。何も加わっていなかった。
ノートを閉じた。一時間後にまた開いた。
最後に一行加わっていた。
《わかっています》
自分の字だった。書いた記憶がなかった。
今日の日付:2025年6月24日。確認した。
中田さんに「飲みに行かない?」と誘われたが断った。「作業が」と言った。作業はもう今日の分は終わっていた。
夕飯。
2025年6月29日(日)
伊藤さやかの日記の編集をした。テレビの砂嵐の話。砂嵐の中に女の人の顔が見えて、「そちらは62年の何月?」と聞いてくる件。
読んでいて、不意に胸のあたりが詰まった。
私も昔、砂嵐の中に顔を見た気がする。だが私が子供のころテレビを見ていた家は、奥武蔵市ではない。なぜこの感覚を持っているのか、うまく説明できない。
坂本さんからメールが来ていた。「三刷になりました!」。読んだ。返信しなかった。
返信しなかった理由が——ない。忘れていた。




