後編
真菜穂の右手首の内側にあったのは、模様でもシミでもなく、サイズが縮小されただけの本物の人の顔だった。二つの目は真菜穂の腕に埋め込まれていて、その上には弓なりの長い眉毛が生えている。鼻と口は出っ張っていて、その間にはうっすらと青いひげが見える。全体的に、宿主である真菜穂とは対照的な中年男性の特徴を備えていた。
急に明るい電灯の下にさらしだされたからなのか、男はまぶしそうに目を細めていた。自分をしげしげと見つめる私たちの存在に気が付くと、カッと目を見開き、恐怖の表情を浮かべた。よく見ると、男の顔には無数の切り傷が刻まれており、出っ張っている鼻の先は不自然な丸みを帯びている。
「押さえつけられて何もできないまま、口に出せないようないやらしいことをたくさんされたんだ。声を出せないようにタオルを口の中に突っ込まれて、身体全体でのしかかられて動けなくされて、少しでも抵抗するそぶりを見せたら思いっきり両頬をひっぱたかれたの。悔しさと汚らしさで、泣くことしかできなかったなぁ。頭の中が真っ白になって、そうかと思えば、また汚らしい現実に引き戻されて、その繰り返し。その時はこいつにされるがままだったけど、いつか絶対に復讐してやるってずっと頭の中で叫び続けてた」
なぜ、真菜穂の腕にその男の顔が宿っているのか。私はそのことについて尋ねようとしたが、真菜穂は急に立ち上がり、ゆっくりと本棚へと歩いて行った。真菜穂はその中段に置いてあったカッターナイフを手に持った。それを恍惚とした表情でうっとりと見つめながら刃先を出していき、それから真菜穂は再び私の横に戻ってきた。
「その気持ちだけは今でもずっと忘れていないわ。だからね、こうして毎日毎日あいつの顔をこちょっとづつカッターで切り刻んでるの」
そう言うと、真菜穂はカッターの刃先を男の顔に近づけていく。照明の光を反射してきらめく刃先を目で追いながら、男はつんざくような悲鳴をあげる。雄牛の鳴き声に似た野太い叫び声に対し、私は反射的に耳をふさいだ。しかし、真菜穂は表情一つ変えないまま、刃先で男の右ほおに刃の先端を当てると、ゆっくりと輪郭をなぞるようにして切り傷をつけていく。刃が通った後には糸のような細い線ができ、間をおいてそこから赤い液体が染みだしてくる。
「イタイ! イタイッ!」
男の声に真菜穂は満足げに笑う。額のところまで刃でなぞると、始点を変えて同じように切り傷をつけていく。私は耳を両手に当てながら、その信じられない光景から目を離せずにいた。男は休むことなく叫び声を上げ続けていた。真菜穂は今自分の腕を切り刻みながら、男の顔を切り刻んでいる。彼女は痛みを感じないのだろうか。現実離れした状況の中で滑稽なほどに素朴な疑問しか浮かんでこなかった。
「そしてね、こうやって切り傷をつける以外にさ。毎日少しづつこいつの鼻をそぎ落としてるんだ。ちゃんと見ててね」
真菜穂は刃を男との鼻とほとんど平行になるように傾け、それを不自然に丸まった鼻先へとあてる。そこで男の叫び声は最高潮に達した。「ヤメテ! ヤメテッ!!」という男の声が私の両手を通り抜け、頭の中をガンガンと揺らす。男の顔は恐怖と痛みで真っ青で、顔のあちらこちらに刻まれた赤い線が、ひびのような模様を形作っていた。しかし、真菜穂はおかまいなしだった。無慈悲な宿主は刃にぐっと力を入れ、刃を鼻根へと動かしていった。かんなで削ったように薄く薄く、男の鼻がスライスされていく。
それを数回繰り返した後、真菜穂は戦慄のあまり微動だにできなかった私に視線を戻した。そして、持っていたカッターナイフを私の右手に握らせ、そのまま私の右手首をぎゅっとつかんだ。
「私たち親友だよね」
真菜穂に動かされるがまま、私はカッターの刃先を男の顔に軽く当てる。しかし、右手に全く力が入らなかった。
「ちゃんと握って!!!」
真菜穂が怒鳴り声をあげる。私は身体全体を震わせながら、ぎゅっとカッターを握り締める。私に意思なんてなかった。真菜穂に誘導されるがまま、私はカッターの刃先で男の右ほおをなぞる。力が入りすぎているのか、刃先は突っかかっては止まるを繰り返し、その度に男は断末魔の叫び声をあげた。
両手で耳をふさいでいないため、先程よりもずっと克明に男の悲鳴が聞こえてくる。それは私の鼓膜を揺らし、頭を真っ白にし、胸をゆっくりと万力で締め上げていく。息の吸い方を忘れ、比喩でもなんでもなく私は窒息しかかっていた。喉は震え、緊張と恐怖で気道を狭くなっているような気がした。それでも真菜穂は私の右手から手を離すことはなかった。一つ、また一つと男の顔に切り傷が刻まれていき、そしてついに真菜穂は私の右手ごと動かし、カッターの刃先を男の鼻先へと当てた。
「もうやめて!!」
私は真菜穂の手を振り払った。右手からカッターナイフが零れ落ち、ベッドの上でバウンドして、足元へと転がっていく。私は真菜穂の顔を見たが、涙でぼやけてよくその表情がわからなかった。
「あなたもこいつが憎いんでしょ? 別に私に遠慮しなくていいだよ?」
「違うの……。ごめん、私にはできない……」
真菜穂は私を見つめる。私は涙を拭い、改めて真菜穂の表情を確認した。彼女表情は石膏でできた彫像のように固まっていた。しかし、真菜穂が私を心の底から非難し、軽蔑していることだけはわかった。その瞬間、私の胸が焼けるように熱くなり、吐き気が波のように押し寄せてくる。それを抑えることもできず、私はその場で嘔吐してしまう。黄色い吐しゃ物が床とベッドにぶちまけられ、口の中が饐えた臭いでいっぱいになる。
私が顔を上げると、真菜穂はいつの間にかその場で立ち上がっていて、表情一つ変えないまま私を見下ろしていた。吐いたことを謝るべきなのか、彼女の期待に応えられなかったことを謝るべきなのか、そうすればいいのか全く分からなかった。
「やっぱり、思ってた通りね」
「………何が?」
胸の中に不安が広がっていく。コップ一杯の水銀を飲み干したような気分だった。
「あなたがこいつに私をレイプさせたんでしょ? 私を売ったんでしょ?」
「何をいってるの?」
その瞬間、真菜穂は私の髪をつかむと、そのまま思いっきり自分の方へと引っ張った。あまりに突然のことにどうすることもできず、私は「やめて」と反射的に叫ぶことで精一杯だった。しかし、真菜穂は私の声など聞こえていないかのように、右へ左へと私の髪を揺さぶり、支離滅裂な言葉を私に浴びせ続けた。
「あんたのせいで! あんたのせいで、私はレイプされたんだ!」
「真菜穂ちゃん、話して! 痛いよっ!!」
髪をつかまれたまま、私は顔を平手でひっぱたかれ、胸をこぶしで叩かれた。刺すような痛みと押しつぶされるような鈍い痛みが交互に襲ってきたが、理不尽な暴力を前に私は彼女の身体に必死になってしがみつくことしかできなかった。真菜穂はそんな私を、部屋の外、ベランダへと引っ張っていく。彼女の手を解こうと試みたが、本当に真菜穂なのかと思うくらいに握り締める力は強かい。ベランダに出ると、真菜穂は私を手すりへと押し付け、そのまま私の身体を持ち上げようとする。
落とされる。私は命の危険を感じた。私は手すりにしがみつきながら、身体全体で抵抗した。それでも真菜穂は力を弱めようとしない。私は真菜穂と向かいあう態勢になり、そのまま取っ組み合いの形になる。私は無我夢中で、同情や恐怖はすでにどこかへ飛んで行ってしまっていた。死にたくない。ただその感情だけが私を突き動かす。
そこで私の意識が途絶える。そして、意識が戻った時、目の前に真菜穂の姿は消えてなくなっており、私はベランダに座り込んでいた。私はよろよろと立ち上がり、辺りを見渡した。そして、何気なしにベランダの下をのぞく。灰白色のコンクリートの上に大きな大きな赤い椿の花が一つだけ見えた。そしてそれが、椿などではなく、ベランダから墜落した真菜穂の身体と飛び散った彼女の血だと理解するのに少しだけ時間がかかった。
真菜穂の葬式はしめやかに行われた。彼女が時に錯乱状態に入り、暴力をふるうことは前から度々あったようで、私の正当防衛はあっさりと認められた。しかし、こうして凛とした表情を浮かべた遺影の中の彼女を見ると、本当にそれでよかったのかという気持ちに苛まれる。
私に焼香の順番が回ってくる。祭壇の前へと進み、遺族の前で一礼をする。しかし、礼をし終え顔を上げたその瞬間、私は思わず悲鳴をあげてしまった。そして、そのまま全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
前にいた私の母親や後ろに並んでいた同級生が私に駆け寄ってきて、そうしたのかと声をかけてくる。しかし、私は何の返事もできないまま、じっと目の前の人、真菜穂の母親の隣に立っていた真菜穂の父親を見つめ続けることしかできなかった。
真菜穂の父親の顔には無数の切り傷があり、鼻は不自然な丸みを帯びていた。そして、その顔はまさに真菜穂の腕に宿っていた男の顔だった。




