第五十六話:立ちはだかる『壁』
皆様、大変ご無沙汰しております。
都内は再び暗雲が垂れ込めてきました。都内に出向く度、陰鬱になります。。。。
しかも、隕石まで落下するし。。。。
しかし、有り難いこともありました。評価ポイントおよびブックマークを頂きました。
大変励みになります。ありがとうございました。
これからも拙作をお楽しみ頂けたら嬉しいです。
※※ 56 ※※
俺と会長は、芝生に絡む落ち葉を踏みしめて、小高い築山に至ると、複数の生徒が棒を持って峰に立っている姿を見た。一人の女子が分度器が付随する筒を抉るように覗き込み、背の高い男子が峰に張られた綱の長さを測っている。
「いまいち計測点が分かりにくいのよねェ……」
誰にでもなく自分に言う少女。二つに纏めた黒褐色の髪を前に垂らし、おさまりの悪い前髪をひたすら掻き上げていた。
「ああ、もうッ! どうやっても計測できないわッ」
少し怒った、少女の声が響く。恐らく彼女が扱っている器具はレベルに似たものだ。接眼部分から寸前まで凝らしていた目を逸らして「あっ」と小さな声を漏らす。
「谷じゃん。珍しいねェ……」
言って、同じくその声で会長へと視線を移し、にんまり笑う。
「いつも、べったり張り付いてる一年の双月じゃないのね。あんたが三年の『妖狐』に取り憑かれたって噂はホントだったんだ」
「はァ!? 何を言ってッ」
意味もなく灼への後ろめたさから狼狽させられた反発が、口を衝いて出た。俺の反応に、
「ごめん、ごめん」
笑って謝る。謝って、さらに緩んだ笑顔で意味深に言う。
「三年と言えば、変人だけど……校内一番の超絶美少女・高階先輩からも好かれてるみたいね。もはや、あんた、全校男子生徒の敵よ」
「あのなァ……」
俺が、そんな懲りない女子に怒気を見せると、
「谷君。この女子は誰なのかしら?」
ぶっきら棒で不愛想に。呟いて、大きな漆黒の瞳を反らす会長。
その仕草に、目の前の女子は口元に手を当て、まさに『ほくそ笑む』の表情のまま「このハーレム男」と笑う。さすがに俺も、眩暈以上の頭痛を覚えた。
「いい加減にしろッ。会長、こいつは……」
「はいッ。谷のクラスメイトで有元。有元花散里でェーすッ」
俺に答える間を与えず、その満ち溢れた明るい空気で会長に詰め寄る。会長は怯みもせず、僅かに表情を表して眇めた。
「……思い出したわ。確か『地質調査研究部』の有元さんね。こんなところで何をしてるのかしら?」
その平淡な声に、有元は不気味で不審な笑みを浮かべる。しかし、悪気も害意もなく、むしろ明るい気色を保ったままの奇妙な笑みだった。
「会長がそれ、言いますか。あたしたち、生徒会からの課題で学校敷地の測量をしようって決めて、ここの築山で練習してたんだけど……」
突如、有元が頭をガシガシと掻き出した。不愉快ではないが、なんとも締まらない、困惑と苦悩を織り交ぜて吐露する。
「全くうまくいかないだよねェー。谷、良い方法ない?」
苦々しい顔に、申し訳なさそうな笑顔で見上げる有元の傍にある、レベルらしきものを俺は見て、
「……良い方法って言われてもなぁ。この計測器みたいなのは自作か?」
と、訝しげに問う。有元は両手を広げ、諦めを含んで嘆息した。
「うん。どうやら昔の先輩が作ったものみたい。せっかく見つけたので使ってやろうと思ったんだけど……さっぱり使い方が分からないんだよねェ」
明るく乾いた笑いで失敗を吹き飛ばす有元に、何かに気づいた会長が声を掛けた。
「有元さん。あなた『三角関数表』は持ってないのかしら? 私も詳しくは分からないけど、必要だと聞いてるわ」
「何ですか、それ。あたしは自慢じゃないけど数学が一番苦手なんです」
会長の詰問に、有元は意外な顔をして軽く返す。その答えに俺は落胆し、首を振った。
「何よ、その態度。どうせ、あたしは谷と違って馬鹿チンですよォ! 教えてくんないなら、とっとと行ってくんない? 邪魔だから」
少し苛立った表情に暗さはないが、有元の声から笑いの成分が消えた。その微妙な変化を見て取った俺は、「すまん」とあっさり謝る。
「謝罪ついでに俺が知る範囲で助言できるなら、江戸時代で寛政から文化年間に活躍した『伊能忠敬』の方法だな。彼は17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させたことで有名だ。特に享保年間、徳川吉宗の改革で、それまで輸入禁止だった『御禁書』が輸入される。
その中に中国語に翻訳されたヨーロッパの数学書『歴算全書』や『崇禎歴書』『数理精薀』があったのだが、それが現在使用してる三角測量の基礎となってる」
「で、具体的な方法は?」
答えを急かす有元に、俺は腕を組んで唸った。
「文献で読んだだけだからな。実際の手順は分からん」
「……使えないじゃん」
「使えないわね」
期待外れの怪訝な顔で俺への不平を、有元は八つ当たり気味に、会長は不甲斐なさを露わにして投げつける。俺は不利な状況への文句を、言葉に詰まりつつ、無様な声で漏らした。
「っ、そ……、それは、だな。これから話すとこだったんだ。実務に長けてる人間に電話するから、ちょっと待ってろ」
俺はやや慌ててスマートフォンを手に取る。架電すると、まともに呼び出し音が響かないうちに相手が出た。
『平良、どうしたの?』
「灼か。今、会長と部活動の巡見中なんだが……」
『へェー……。会長と一緒なんだぁ』
急に、スマートフォンの向こう側から、重く剣呑な声が伝わってくる。俺は能面のように固まった顔、その前髪の間で眉を強張らせている灼の姿が容易に想像できて、俺は僅かに焦りを覚えた。
「い、いや……えっと、おまえ知ってるはずだろ?」
『知ってるわよ。何だかあんたの周りに女子が他にもいる気がしただけだわ』
電話口でクスクスと笑う灼の声が、悪魔の囁きのように聞こえ、俺は思わず周囲を見る。全く今日の俺は女子に翻弄されてばかりだ。
「よ、要件なんだが……。『地質調査研究部』に測量の実測作業を教えてやってほしい」
『うーん……』
暫し間が空く。きっと唇に人差し指を当て、考え事をしているに違いない。
『いいわ。掃除当番だから、終わったら行けばいいのね。ちなみにレベルは何?』
俺は、ちらりと有元の横にある器具に視線を移す。一瞬、どう説明するべきか悩んだが、すぐに諦めた。
「なんでも以前在籍してた先輩が自作したものらしい。機能するかどうかは分からん」
『そう。だったら考古学研究部が使用してたレベルを持っていくわ』
「すまん。校舎裏の築山に『地質調査研究部』の部員がいるから宜しく頼む。じゃあ」
俺はスマートフォンの電話機能をオフにして、有元を見る。
「後で灼がレベルを持って来て、教えてくれるそうだ」
「双月って……一年でしょ?」
有元が釈然としない不安の色を浮かべた。俺は非常に大袈裟な態度で喧伝する。
「心配するな。灼は小学校の頃から古墳の実測調査をしてたし、『測量士補』の資格も持ってる」
「……ホントに双月って何でもできるのね」
深く嘆息した有元は、丘に登って綱の長さを測っている背の高い男子を見た。
「一年の後輩が言ってたわ。調理実習の授業で双月、プロ顔向けだったって。ねえ、そうだったんでしょ? 諏訪野君」
呼ばれた背の高い男子が俺にペコリとお辞儀した。それを見届けた有元は聞こえるか聞こえないかの声で言う。
「まあ、目立つ反面、一部の女子から煙たがられてるみたいだけど……」
有元は嫌悪でなく、悲しみの表情を見せること一瞬、いつも通りの明るい笑顔に戻った。
「わかったわ、ここで待ってる。谷、あんがと」
「いや、俺は何もしてない。頑張れよ」
俺は会長を伴って、次の巡見場所へ向かう。
校舎裏を抜けると、狭い敷地に見合った狭いグランドのトラックを、のんびり走る生徒、己の限界まで猛進している生徒、それぞれがそれぞれのペースで走っていた。そのグランドの端に二面のテニスコートがある。
「新庄さん。あなた、生徒会の業務まだ終わってないわよね? 一体いつまでに終わらせる気なのかしら」
フェンス越しに、会長がフェイスタオルで首筋を拭いている少女に声を掛ける。その声に新庄と呼ばれた女子が凍り付いたように固まった。
「……ここまで来るなんて。会長、あんたのやり方、相当陰険ですよ」
ふん、と侮蔑の吐息を漏らしたように見えた。新庄が感情の昂ぶりを露わにするが、彼女の激昂を無視して、会長は平静な声……そう聞こえるだけの、心底から寒さに震えあがらせる程の平静な声で言う。
「今は谷君と巡見中よ。だから別にあなたに会いに来たわけではないわ。でも、せっかく来たのだから大事なことを伝えるわ」
無関心で涼やかな声の、重さが増す。新庄は静かに、挑むように訊く。
「何でしょう?」
「この前の朝、資料整理をお願いしてたのに、あなた部活の朝練を優先したわ。朝練は大事だけど、生徒会に入った以上、両立させるのも必要なこと。私、その時『三度目はないわよ』と警告したはずよ。庭球部の部長……今は元部長かしらね。あなたのスポーツ推薦の底上げを依頼されたので、生徒会へ入ってもらったのだけど、このままだと確実にスポーツ推薦は無くなるわ」
「か、会長のくせに脅す気!?」
新庄の、裏返りかけた怒声がテニスコートに迸った。練習を中断し、一年の女子部員たちがこっちを怪訝そうに見つめている。怒りで全身を戦慄かせている新庄を、会長は、あくまで無表情で見上げていた。
……ああ、会長に早朝から手伝わされた時、生徒会室に飛び込んできた女子か。
俺は、新庄の陰になったその顔に、より以上の恐怖が凝っていくように見えた。きっと会長にも怯えと危機感が伝わっているはずだろう。
「脅すつもりは毛頭ないわ。ただ事実を伝えるだけ。後はあなた次第かしらね」
新庄は押し黙り、思い倦ねつつ、口火を切るきっかけを必死に探していた。しかし実際はほんの数秒の沈黙を経て、動揺を隠さず会長に告げる。
「会長……。あ、あたしと勝負してくださいッ!」
その言葉のあまりな衝撃に、
「な……ッ」
「えッ……?」
俺と会長、二人同時に間抜けな声を上げていた。
●灼のうんちく
今回、初めてじゃないかな? あたしが登場しなかったのって。でも、いつも平良にベッタリって言われるのは癪だから我慢するわ。
作中に平良が説明してた『伊能忠敬』の三角測量。傾斜のある場所では、実は高校で習う『余弦定理』つまりコサインを用いていたと言われています。そして伊能忠敬は『八線表』という関数一覧表を常に携帯していたと言われてます。
現在ではまあ、常識的ですが当時はそんなに三角関数は有名ではありませんでした。日本で数学が発達するのは享保年間以降となります。
幕末の頃、関流算術・内田五観のお弟子さんだった法道寺善という人が著した『算法量地初歩』という本の例題のひとつとして、陸から離れた島の横に停泊している黒船までの距離を求めなさいっていうのがあるのよ。砲術の教科書でもあったのよね。
いずれにしろ、関東地方を測量した伊能忠敬は幕府に認められ、将軍自らのお声掛りで、全国の地図を作成することになったわ。裏の命令として各地の大名の動向を探る密偵でもあったというのは有名だわ。