ハルを愛する人 (7)
全ての力を使い果たしたのか、タエは気を失ってしまった。蛇の呪いは、それだけ強力だったのだろう。ただ、銀の鍵はその上を行く力を持っていた。
タエの前でしゃがんで、ヒナはその手から蛇の亡骸を離した。これはもう必要無いでしょう。ヒナが葬っておくよ。
さて、一件落着と言いたいトコロだけど、まだ後始末が残ってる。知りたいこともあるし。
「ナシュト、お仕事」
ヒナの横にナシュトが姿を現した。なんだ、最近素直じゃん。いつもこのくらい言う事聞いてくれるととても助かるんだけど。
銀の鍵でも出来ないことは無いんだけど、ナシュトの方が器用にこなせることがある。記憶の操作だ。
「この者から記憶を消せばいいのか?」
うーん、まあそうなんだけどさ。
「その前に、知りたいことがあるのよ」
蛇の呪い。身喰らう蛇の呪い。これらはちょっと、洒落にならない。おまじないの領域を越えている。タエが何処でこの呪いを知ったのか、出所を抑えておいた方が良いだろう。
別に正義の味方を気取るつもりはない。ただ、手に負えなくなる前にその正体を掴んでおくことは肝要だ。ヒナやハルにとって危険な相手である可能性があるのなら、知っておいて損は無い。
タエの記憶の中にある、この呪いに関する情報。ヒナだけだとうまく鍵の力を使いこなせないから、ナシュトに手伝ってもらって、呪いの出所を洗い出す。
さて、一体何処のどなたが、こんな危険な呪いを女子高生に吹き込んだのやら。
「ヒナ!下がれ!」
えっ?
ビックリして後ろに倒れ込んだ。ナシュト?今叫んだ?
ヒナの鼻先を、黒い指先がかすめる。今の、何?
タエの顔から、真っ黒い右手が伸びている。何、これ?肘から先だけの、本当に真っ黒な手。ヒナの顔に掴みかかろうとしていた手は、しばらく指をもぞもぞと動かしていたが、だらり、と垂れ下がって姿を消した。もし捕まってたら、どうなってたんだろう。ヒナは久しぶりに背筋がゾッとした。
「罠だ。呪いに関する記憶を探ろうとすると発動するようだ」
へええ。それは考えていなかった。
ナシュト、ありがとう。まさかこんな風に助けられるなんて思いもしなかった。
でも、罠を張っているなんて油断がならないというか。
本当にガチな相手、ってことじゃない?
「これ、罠だけ外せないの?」
まあ、そんなぬるい相手じゃないよね。
「その場合この人間の精神が正常であることを保証出来なくなる」
じゃあ却下だ。困ったもんだ。神様も肝心な時には役に立たない。
「記憶を消すことは出来るんでしょう?」
「罠ごと消し去ることは出来る。そちらは問題ない」
そういうところまで、どうせ織り込み済みなんでしょ。腹立たしい。
なんだか掌の上で踊らされているみたいで、酷く不愉快だ。あまりに手慣れている。こういうことにこれだけ精通した相手が、ヒナとつながった場所にいる。そう考えるだけで本当に嫌な気分になる。
ひょっとしたら、これはまずい相手なのかもしれない。悪戯に干渉して、反感を買って敵に回すべきじゃない。なるべく刺激せずに、可能な限り関わり合いにならないようにしなくては。
「じゃあ、タエから呪いと、後は私に関する記憶だけ消しておいて」
多分、そんな程度で問題ない。
支倉先輩は、実はあれからヒナの前には一度も姿を見せていない。ハルと付き合い始めたという噂もあって、とっくにヒナに対する興味など失ってしまったのだろう。まあ気になる子、とはいってもその程度のことだ。支倉先輩から感じたヒナに対する感情も、思春期男子の正常な性的欲求以上のものは感じなかった。だから印象に残らなかった、というのもある。
呪いに関しては、罠のこともあるし、タエには過ぎたものだ。忘れてもらうに越したことはない。
ヒナのことも、それに関連して忘れておいてもらう。後はタエ次第。頑張って支倉先輩の隣に立てるようになって欲しい。
ナシュトがタエの記憶を消す。バイバイ、タエ。もしお友達になることがあったら、その時は支倉先輩のこと聞かせてね。ヒナも、ハルのこと教えてあげる。ハルがヒナにとって、ただの幼馴染じゃないって。
・・・ああ、しまった。
慌てて携帯を取り出して時刻を見る。やっちゃった。あーあ。
これからまだ色々と後始末が残ってるのに、もうこんな時間。
ごめんね、ハル。タイムオーバーだ。
部屋に入ってすぐ、ヒナはベッドの上に倒れ込んだ。ああ、そういえば前もこんなことあったね。最近こんなのばっかり。
外ではまだ雨が降り続いている。もうすっかり日が落ちて真っ暗だ。雨脚が強くなって来たのか、雨粒が窓硝子を叩く音がする。
あれから、まずはタエを保健室に運んだ。目が覚めたら体育倉庫で一人、とか怖すぎるでしょう。そのくらいのケアは必要。流石にヒナ一人で運ぶのは無理だったので、バレー部員の人にも手を貸してもらった。タエを保健の先生に預けて、ヒナはすぐに退散した。何しろ、タエとはまだ面識が無いことになっている。
その後は学校の裏の花壇に、蛇の亡骸を埋葬した。ごめんね、あなたには何の罪もないのにね。タエに殺されて、ヒナには二度殺されて、計三回殺された。酷い仕打ちだよね。人間の身勝手さを許してください。
さて、これだけのことをこなすには、やっぱりそれなりの時間が必要になるわけで。結局、ハルと一緒に帰るという当初の約束は果たすことが出来なかった。がっかりだ。
ハルにはメッセージを出しておいた。『ごめん、急用が出来ちゃって一緒に帰れない』って、それだけ。ううう、ハル、ゴメン。ホントにゴメン。
携帯を見ると、ハルから返信が来ていた。
『大丈夫。気にするな』
短い、それだけのメッセージ。
ハルからのメッセージを見ていたら、なんだかものすごく申し訳ない気持ちになってきた。
ハル、ヒナはハルに言ってないこと、いっぱいある。
銀の鍵に、ナシュト。ハルに秘密は作らない、隠し事はしないって決めてるけど、話してないことは沢山ある。聞かれたら答えるなんて勝手に思ってる。わかってる、そんなのは言い逃れだ。
ハルのことはとても大切。ハルはヒナにとっての一番。それは本当。
だから、こうやってハルに言えないことがあるのは、すごくつらい。苦しい。
全部話しちゃえって思う時もある。何もかもぶちまけてしまえばスッキリするって、そう考えることもある。
ハルならヒナの話をちゃんと聞いてくれる。信じてくれる。ヒナのことを、頑張ったなって褒めてくれる。きっとそう。
でも、それは諦めちゃったみたいで、なんかヤなんだ。メンドクサイ娘だと思うよ?メンドクサイんだけどさ。
ヒナはハルのために頑張るって決めたんだ。これはヒナの戦い。負けたくない。こんなわけのわからない銀の鍵や、神様なんかに負けたくない。ヒナの気持ちは、ハルを好きだっていう気持ちは、そんなものには負けないんだ。
ハル、大好きだよ、ハル。
ハル、声が聞きたいよ、ハル。
ハル。
通話アイコンに指が伸びる。
ハル、ごめんね。
タップする。呼び出し音がする。1コールで切るつもりだった。
「ヒナ?」
ハル、どうしてすぐに電話に出てくれるの?
「ハル、ごめんね」
どうしてヒナが声を聞きたい時、すぐに声を聞かせてくれるの?ヒナの名前を呼んでくれるの?
「どうしたんだ、ヒナ。何かあったのか?」
どうしてヒナのことを心配してくれるの?
「今日、一緒に帰れなくて、ごめんね」
ハル、一緒にいたいよ、ハル。
「ああ、大丈夫だって。そんなに気にするなよ」
どうしてヒナのことを許してくれるの?
「ハル、ごめんね」
言いたいこと、言わなきゃいけないことが沢山あるのに、言えなくてごめんね。
「ヒナ、何かあったのか?」
あったよ。いっぱいあった。いっぱいあるんだよ、ハル。
「何でもない。何でもないよ」
でも話せない。話せないんだよ、ハル。
「何でもないって、お前」
涙が出てる。知らない間に泣いていた。ハル、ヒナ泣いてるみたい。
「ハル、この前、ヒナに告白してくれた時」
嬉しかったよ、ハル。ヒナは本当に嬉しかった。でもね。
「お手軽な女の子と思ってる、なんて言ってごめんね」
あれは、言っちゃいけない言葉だった。
タエに言われて、ヒナは本当に嫌だった。だって、ヒナはハルのことをそんな風には思ってない。ハルは、かけがえのないハル。世界でたった一人のハル。ヒナの居場所。ヒナの一番。
ハルは、ヒナからそんなこと言われてどう思っただろう。ヒナがハルからそんなこと言われたら、すごく悲しい。すごくつらい。ハルのことこんなに好きなのに、それがわかって貰えないのは、本当に苦しい。
絶対にそんなこと言っちゃダメだった。ハルの気持ちを考えたら、そんな言葉は口にしちゃいけなかったんだ。
「ハル、ごめんね」
ハルの声が聞こえない。
電話は沈黙している。
「ハル?」
やだ、ハル、返事して。
声を聞かせて。
「ハル?」
行かないで、ハル。消えないで、ハル。
ヒナのそばから、いなくならないで。
「ハル?」
ごめんなさい、ハル。ごめんなさい。
お願い、ヒナを置いていかないで。
「ハル?」
嫌だよ、ハル。
寂しいよ、ハル。
「ハル?ハル?」
ハルは沈黙したままだ。どうして、ハル?ヒナは、ハルがいてくれないと。
ハルがいてくれないと。
もう、どうしたらいいか、わからない。
ハル。
ハル。
お願い、ヒナを捨てないで。
「ヒナ、聞こえてる?」
ハル!
ハルの声。
「うん、聞こえてる」
ハルの声、聞こえてるよ。
他の全ての声が、音が消えてしまったとしても。
ヒナには、ハルの声だけは聞こえてる。
あの雨の日からずっと。
ハルの声は聞こえてる。ハルの声だけは聞こえてる。
だって、ハルのこと、大好きだから。ヒナはハルのこと、大好きだから。
「窓、開けて」
え?
嘘でしょう?
すぐに立ち上がって、窓の方に駆け出す。外は真っ暗。酷い雨。あの時と同じ、強い雨。
力いっぱい窓を開け放つ。カーテンが暴れる。吹き込んでくる雨粒なんて気にならない。だって、そこには。
窓の下、玄関の前。
黄色い傘が揺れてる。携帯の画面の光が見える。小さな輝きの中に。
ハルの顔が、見える。
「よっ」
ハルは、ヒナを照らしてくれる光。
そうだ、ハルはいつだって、ヒナを助けてくれる。ヒナを探してくれる。ヒナを見つけてくれる。ヒナをわかろうとしてくれる。
雨の中、ヒナのために走ってくれる。
ねえ、どうしてハルはそんなにカッコいいの?
どうしてヒナが会いたい時に、ヒナに会いに来てくれるの?
ハル。
「ハル」
どうしてヒナのために、ここまでしてくれるの?
「ん?」
ハル、ヒナはハルのこと大好き。
もうどうしようもないくらい、好き。ハルがいてくれれば、もう、何もいらない。銀の鍵も、神様も、何もいらない。
「ちょっと待ってて」
伝えなきゃ。ハルに直接。少しでも早く。
おへその下に手を当てる。これはまだ、もうちょっと後で。だって二人は高校生だし。
それに、今はもっと大事なことがある。
もう少しで電話で言ってしまうところだった。やっぱりこういうことは、直接伝えないと。好きだよって。大好きだよって。
さあ、玄関に急ごう。
そこにはハルがいる。ヒナの大好きな、ハルが。
ヒナは、ハルのことが好き。
大事なことだから何度でも言う。
ヒナは、ハルのことが好き。
読了、ありがとうございました。
物語は「ハルを夢視ル銀の鍵」シリーズ「弟のジジョウ」に続きます。
よろしければそちらも引き続きお楽しみください。