プロローグ 堕落の瞬間
さあ、始めようか。
俺、九条蓮司、三十二歳。大手総合商社の海外事業部で、五年連続トップの成績を叩き出し続けてきた男だ。
同期の誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまでオフィスに残る。休日は接待ゴルフか、資料作りか、次の交渉の下調べ。恋人もいなければ、趣味と呼べるものもない。だが、それでよかった。俺には「勝つこと」が全てだった。
その日も、俺は東南アジアの新興財閥との大型契約をまとめ上げたばかりだった。相手の弱みを的確に突き、こちらの譲歩は最小限に抑え、それでいて相手にも「良い取引だった」と思わせる。それが俺のやり方だ。搾取するのではなく、対等な取引の形を装いながら、実際には常に主導権を握る。
深夜二時。誰もいないオフィスで、俺は最後の決裁書類にサインをした。
「……終わった、か」
達成感より先に襲ってきたのは、鉛のような疲労感だった。胸の奥で、心臓が今までにない重い音を立てている。
(少し休めば、大丈夫だ)
そう思った次の瞬間、視界が急速に暗転した。椅子から崩れ落ちる自分の体を、まるで他人事のように見下ろしている自分がいる。
(ああ——俺は、結局、誰とも対等じゃなかったな)
最後に浮かんだのは、そんな諦念だった。誰よりも上に立つことにこだわり、誰も対等な相手として見ていなかった。取引相手さえも、踏み台としか思っていなかった。
意識が完全に途切れる直前、聞き覚えのない声が、頭の中に直接響いた。
『——契約、しますか?』
それが、九条蓮司としての最後の記憶だった。
第一話 乞食としての目覚め
目を覚ますと、俺は瓦礫のような藁の上に横たわっていた。
全身が痛い。それも、疲労とは違う種類の痛みだ。骨と皮ばかりの体、垢にまみれた肌、そして耐え難いほどの空腹。鼻を突く生ゴミと排泄物の臭いに、思わず顔をしかめる。
「……は?」
声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。見下ろした自分の手は、記憶にある俺の手より一回り小さく、骨ばっていた。
周囲を見渡す。石造りの狭い路地。崩れかけた木箱を寝床代わりにした者たちが、あちこちに転がっている。誰もが痩せこけ、生気を失った目をしていた。
(スラム、か。それも、異世界の)
状況を理解するのに、それほど時間はかからなかった。エリート商社マンとして培った分析力は、どうやら体が変わっても健在らしい。
死んだはずの自分が、見知らぬ世界の、それも最底辺の乞食として転生している。よくある話だ、と俺は内心で自嘲した。前世で読んだラノベなら、ここで「実はとんでもないチート能力持ちでした」と展開するのが定番だろう。
だが、俺の体に宿る力は、剣も魔法も、圧倒的なステータスでもなかった。
ふと、視界の端に半透明の文字が浮かんだ。
【契約スキル:発現条件を確認しました】
対象:九条蓮司(転生後個体)
スキル名:契約
効果:双方の合意に基づく誓約を魔法的に固定する。
強制力はないが、破棄した場合は相応の代償が発生する。
(……契約、だと?)
剣も魔法も授からず、与えられたのはただの「約束を守らせる力」。しかも、強制はできない。相手が合意しなければ、何も起こらない。
普通なら絶望するところだろう。だが俺は、思わず笑ってしまった。
「悪くない」
力で相手をねじ伏せる能力なら、俺より強い者に出会った瞬間に終わりだ。だが、対等な取引を成立させる力なら話は別だ。相手が誰であろうと、合意さえ引き出せれば、俺の土俵で戦える。
それは、商社時代に俺が磨き上げてきた武器そのものだった。
腹の虫が、耐えかねたように鳴った。まずは、この体で生き延びる方法を考えなければならない。
路地の奥に目をやると、一人の少女が、パンの欠片を大事そうに抱えて座り込んでいるのが見えた。同じ乞食仲間だろう。年齢は十歳前後に見える。
(あれを、交渉で分けてもらう……というのは、さすがに鬼畜が過ぎるか)
俺は思考を切り替えた。奪うのではなく、与えられるものを持たない今の自分に何ができるか。
ふと、路地の入り口に張り出された一枚の貼り紙が目に入った。滲んだインクで、こう書かれている。
『没落した名家、ヴァレンティア家。屋敷の修繕を手伝える者、日当あり』
(ヴァレンティア……没落した名家、か)
俺の中の商社マンとしての勘が、微かに疼いた。落ちぶれた名家には、大抵、表に出せない事情と、まだ誰も気づいていない価値が眠っている。
乞食の体一つで、そこに潜り込めるかどうかは分からない。だが、試す価値はある。
「さて——最初の取引相手は、誰にしようか」
空腹に震える体を引きずりながら、俺は貼り紙の示す方角へと、一歩を踏み出した。
これが、底辺の乞食による、対等な成り上がりの——始まりだった。
(第二話につづく)




