最後の希望
夜が更け、城の片隅に繋がれた赤兎馬の姿を、わしは見ていた。
天下の名馬も、この窮状にあっては痩せ細り、その毛並みは艶を失い、かつてのような威風堂々とした様子はない。
食糧は底をつき、兵士たちも飢えに苦しんでいるというのに、将軍は最後のわずかな馬草を、赤兎馬の前に置いた。
赤兎馬は、ゆっくりと顔を上げ、主人を見つめた。
その瞳には、かつての荒々しさではなく、深い信頼と慈しみが宿っている。
馬草を喰んだ赤兎馬は、ぶるっと頭を振るわせ、主人への感謝を示した。
わしには、まるで「ありがとう」と言ったように聞こえた。
これまで何百頭とわしの厩舎につながれた馬をみてきたが、こんなにも信頼し合う主人と馬をみるのは初めてだ。
将軍は、赤兎馬の首を優しく撫でた。その手つきは、戦場を駆け抜ける猛将のものではなく、我が子を慈しむ父親のようだった。
わしは、その光景に胸を打たれ、人間のすることだから、よく分からぬが……こんなにも深く慈しむ心があるのだと、ようやく分かったような気がした。
この数日、城は沈黙していた。敵の攻撃も小康状態となり、兵士たちはわずかな体力を温存しようと、互いに言葉を交わすことも少なくなっていた。
そんな重苦しい空気の中、周倉が将軍に近づいた。
「将軍…近頃、お髭のお手入れをされておらぬご様子。わしが、この周倉めが、いつものように…」
周倉は、言いかけて口を噤んだ。
彼の目には、悲しみと、そして将軍を気遣う深い情が浮かんでいた。
髭の手入れは、関羽将軍にとって、武将としての誇りそのものであった。しかし、この死地にあって、そのような日常の営みは、もはや意味を持たないのかもしれない。
周倉は、将軍が「もはや、そのような時ではない」と口にするのを覚悟していた。
しかし、関羽将軍は、ゆっくりと周倉に向き直ると、その顔にわずかな笑みを浮かべた。
「周倉よ、何を言っておる。わしともあろうものが、己の誇りを怠るわけがなかろう。」
その言葉に、周倉の瞳に安堵と喜色が灯った。
「…そうでしたな! では、早速!」
周倉は、将軍の髭を手慣れた手つきでとかし始めた。その指先が、何千もの戦場を駆け抜けてきた勇猛な髭に触れるたび、わしは二人の間に流れる、言葉にはできない深い絆を感じた。
それは、主従の関係を超え、家族のような温かい時間だった。
数日後、ついにわずかだったその糧食も、底をついてしまった。
兵士たちの顔から、最後の希望の光が消えていく。将軍の毅然とした表情にも、かすかに苦渋の色が浮かんだ。
この日、兵士たちは互いに向かい合い、小さな声で話し合っていた。
彼らの故郷はそれぞれ異なり、家族を思い出す言葉が、かすかに城壁にこだまする。
「…わしは、もう一度、故郷の村の祭りで、皆と酒を酌み交わしたい…」
「わしは、娘に会いたい…」
「わしは…」
言葉は途切れた。その口から出てくるのは、もはや悲痛な嗚咽だけだった。
だが、その中で、一人の若い兵士が、涙をぬぐって強く言った。
「泣くな。将軍は、必ず我らを故郷に帰してくれる。この城は、まだ生きている。将軍がいる限り、我らは負けぬ。天下無双の関羽将軍ぞ!」
その言葉は、他の兵士たちの心に、わずかながらも再び炎を灯した。
彼らは、将軍の姿を、まるで信仰の対象のように見つめていた。
また本当の父のように慕っていた、いや、わしはそれ以上の強固な傷で結ばれているように感じた。
その背中が、この廃れた城の壁よりも雄弁に、彼らの希望を語っていた。
「廖化よ、そなたに頼みたい事がある。わしの、この関羽の頼みじゃ。聞いてくれるか?」
将軍は、ゆっくりと、語りかけるように廖化に言う。
廖化も、「はい」と一言だけ頷く。
将軍は続ける。
「いまこの麦城にいる、全員の命をそなたに託したい」
将軍は、廖化を呼び寄せ、静かに告げた。
「この城は、もはや風前の灯。この窮状を、上庸の、劉封さまと孟達に伝え、援軍を請うてほしいのじゃ」
廖化は、言葉もなく将軍を見つめていた。
その瞳には、将軍と別れて一人援軍を請いにいくことへの、深い苦悩が浮かんでいた。
「…将軍」
「行け、廖化。この城に残る者たちの、最後の望みじゃ。必ずや、劉封さまと孟達に援軍を、と伝えてくれ。しかと頼んだぞ、わしとみなの願いじゃ。」
将軍は、そう言って廖化の肩を強く叩いた。
廖化は、その手を静かに握りしめると、深々と頭を下げた。
「必ずや…必ずや、劉封さまと孟達殿に援軍を、と伝えて戻りまする。この廖化、この身が引きちぎれようとも戻りまする。将軍もご無事で!」
関羽将軍は
「もちろんじゃ、わしが遅れをとったことがあったか?」
そう返す。
沈痛な面持ちで
「はっ。」
一言そう言って、廖化は夜陰に乗じて城を後にした。
わしは、彼の後ろ姿に、僅かながら希望の光を見出した。




