潰えた希望、陸遜の冷たい声
だが、その希望は長くは続かなかった。
数日経っても、援軍は来なかった。
関平が、将軍に尋ねた。
「父上、廖化殿は…どうされたのでしょうか。もしや、呉軍に捕らえられたか、まさかそれとも…」
その言葉の続きを、関平は口にすることができなかった。
関羽は、静かに首を振った。
「廖化は、そのような男ではない。呉軍に降ることなど、決してあり得ぬ。残念ながら、呉軍に捕らえられたのであろう。」
その言葉に、関平は絶望の表情を浮かべた。
廖化の消息が不明な以上、もはや援軍の望みは絶たれたのだ。
その夜、城門の外から、一つの声が響いた。
それは、静かだが、深く、冷たい声だった。
呉軍の総大将、陸遜の声だった。
「関羽将軍!聞こえているか!」
城内に、一瞬の静寂が訪れた。
陸遜の声は、あたかもわしの壁に染み込むかのように、はっきりと響いた。
「聞くのだ!援軍は来ぬぞ!!将軍が頼りにした劉封と孟達は、お前を見捨てたのだ!いくら待っても、永遠に援軍など来はせん。お前は、もはや用済みの男なのだ。潔く兜を脱ぎ、降伏するのだ!そうすれば、わしが孫権さまに取り計らってやろう。我が主、孫権さまは情け深いお方。関羽将軍、そなたほどの豪傑が、ここで犬死にしても良いのか?!」
陸遜の言葉は、わし麦城にいる兵士たちの心に、深い絶望を突き立てた。
将軍の背中を見つめる兵士たちの目に、動揺と恐怖が浮かび上がるのが、わしにも見て取れた。
だが、将軍は微動だにしなかった。
彼は、ただ静かに、陸遜の言葉を聴き、そして、ゆっくりと口を開いた。
「犬死にか…ははは!そのような言葉で、この関羽の心が揺らぐと思うな!わしは、犬死になどはせぬ!!わしは、我が忠義の魂とともに、この地で生き抜くのだ!」
さらに将軍は続ける。
「陸遜よ、わしの知る限り、兵法とは、敵将の心を揺さぶるためのもの。だが、わしが心を砕くのは、お前たちのような卑怯な輩の言葉ではない。わしが信じるは、ただ一人、わしの兄者で、主である玄徳さま、いや、劉公爵さまと、この城に残った誠の武勇を持つ、忠義の者たちだけだ!」
関羽将軍の声は、陸遜の言葉に負けず、いやそれ以上に強く、わしの城壁に響き渡った。
その言葉は、絶望の淵に立たされていた兵士たちの心に、再び希望の光を灯した。
彼らは、将軍の言葉に涙を流し、再び立ち上がり、武器を強く握りしめた。
わしは、その姿を見て、この将軍の威厳が、どれほど偉大なものであるかを、改めて思い知った。
しかし、そして、ついに最後の時が来た。
もはや、打つ手はなかった。
関羽将軍は、関平を連れ、最後の脱出を決行することを決めた。
周倉と王甫は、最後まで共に戦うことを願い出たが、将軍は首を縦に振らなかった。
「周倉よ、王甫よ。これまで本当によく仕えてくれた。礼を言う。しかしお前たちには、この城を守るという最後の役目がある。わしが脱出した後、数日間は持ち堪えよ。炊煙を上げ、城内は活気づいているように見せれば、呉軍は援軍が来るのかと訝しみ、しばらくは攻めてこられまい。しかしその数日で援軍がこない場合には、もはやわしは…」
「将軍!その先はおっしゃらないでくだされ!」
周倉が、将軍の言葉を遮った。
彼の瞳は涙で潤んでいた。
将軍は、静かに頷き、二人は城に残るよう命じた。
二人の瞳には、深い悲しみと、そして将軍の命令を果たすという、揺るぎない決意が宿っていた。
夜が更けた。
関羽将軍は、関平と共に、最後の脱出を試みようとしていた。
城門へ向かうその足が、ふいに止まった。
彼は、短刀を手に、わしの石垣に近づいてきた。
そして、まるでわしの体に文字を刻みつけるかのように、その刃を深く突き立てる。
痛かった。
それは、わしは、ここに建てられ、永くここに城としていたが、心臓を抉られるような、いまだかつて経験したことのない痛みだった。
だが、その痛みの奥に、彼の固い決意が流れ込んでくるのを感じた。
「我倒れぬ」
その四文字は、将軍の魂の叫びであった。
わしは、その言葉に、彼がこの城を出たとしても、決して己の武人としての誇りを捨てることはないという、揺るぎない覚悟を感じ取った。
しかし、同時に、その覚悟が、どれほど深い孤独と絶望の上に成り立っているのかも理解してしまった。
わしは、悲しかった。
将軍が刻んだこの文字は、勝利への誓いではなく、むしろ、もはや戻れぬ故郷への、そして叶わぬ兄弟との再会への、最後の無念の証のように思えた。
わしの石壁に突き刺さった短刀は、彼の心臓から流れ出た血潮を、そのまま吸い上げているかのようだった。
その直後、城門が静かに開き、関羽将軍は、関平と共に、わしの石垣の陰へと姿を消した。
その直後、城壁のあちこちから、細く、しかし確かな炊煙が立ち昇り始めた。まるで、城がまだ生きているかのように、あたたかな光と煙が夜空へと伸びていく。
「将軍がお残しになったのは、ただの命令ではない。我らに、最後の戦いを見せてくださると言うことだ!」
周倉が、わしの石垣に手を当て、力強く言った。その温もりは確かに伝わった。
王甫も、その隣で、そっと静かに頷いている。
二人は、将軍の指示通り、城内に残ったわずかな兵士たちに、最大限の活気があるように見せかけるべく、必死に働いていた。
火を焚き、音を立て、まるで大軍が籠もっているかのように見せかけようと。
城外の呉軍は、その炊煙と、城内から聞こえるわずかな音に、訝しげな視線を送った。
「城を見ろ!何だ、あれは? 城内が、またにわかに活気づいているぞ」
「おー!」
威勢の良い時の声も上がる。
「まさか、援軍が来たのでは…?」
「いや、そんなはずはない。蟻の子一匹逃れられぬ程、この麦城を包囲しているはずだ…、しかしまさか、、、」
兵士たちの間に動揺が走った。
援軍の可能性に、呉軍の攻勢は一瞬、鈍った。
完全に包囲しているとはいえ、敵の抵抗がまだ続いているとなれば、慎重にならざるを得ない。
そのわずかな迷いが、逃亡する関羽親子に、一瞬の猶予を与えた。
だが、その猶予は長くは続かなかった。
馬の蹄の音が、やがて夜の闇に消えていく。
城内には、再び重苦しい静寂が戻った。
だが、まだ戦いは終わっていなかった。
関羽将軍が去ったことを知らない呉軍の兵士は、城に残された少数の兵士たちに総攻撃を仕掛けてきた。
城内は、最後の抵抗に燃えていた。
兵士たちの悲鳴と、斬り結ぶ音が響き渡る。
やがて、そのすべてが、無情な沈黙へと変わった。
そしてわしは、また再び廃墟となるのだった。




