6 美術館
当日、約束の時間の十五分前。
高瀬は待ち合わせ場所に選んだカフェのテラス席に座っていた。モノトーンで纏められたコーディネートは紗雪によるもので、強引に着せられた。
席に座った直後に、螺旋の姿が見えた。ブラウスに、落ち着いた色合いのスカート、その上にスプリングコートを羽織っている。白銀の長髪も相まって、全体的に淡い色合いの印象を受ける。彼女の私服姿を見慣れていない高瀬は思わず見惚れた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか」
「いえ、今来たところです」
それは真実だったし、実際待ち合わせの時間まではまだ十五分ある。彼女ならば時間よりも早く来るだろうな、という直感は正しかった。
「……何か軽く食べます? 今朝起きてから何か食べました?」
「…………朝食は済ませています」
「それは……食ってませんね」
「…………」
螺旋は静かに目を逸らした。朝食抜き確定である。
「軽くでいいんで、何か食べましょう」
「……はい」
モバイルオーダーが可能だったので、高瀬はスマートフォンでアプリを立ち上げた。メニューを表示させ、螺旋に見せる。
「何がいいですか?」
「……紅茶を」
「飲み物は紅茶で、食べ物は何にします?」
「……甘くないものを」
例によって紅茶だけで済ませようとした彼女を上手く誘導してその答えを聞き出すと、高瀬はフードメニューの詳細を表示させた。螺旋はしばらく迷ってから、
「……でしたら……こちらのサンドウィッチを」
BLTサンドを示す。高瀬はそれらを選択し、自分はコーヒーをカートに追加する。
「……高瀬さんは何か召し上がらないのですか」
「俺はちゃんと朝食食ってきたんで」
「…………不公平です」
螺旋のささやかな抗議に、高瀬は小さく噴き出した。
高瀬が何故笑っているのか理解できないらしい螺旋は、微かに首を傾ける。だが彼女はそれ以上抗議せず、傾けていた首を元の位置に戻した。それを見守りながら注文を終え、画面に表示された番号を確認した高瀬は、
「じゃあ、店内で受け取って来るんで、ここで待ってて下さい」
そう言って立ち上がった。
「……はい」
彼女は小さく頷いた。
食事を終えてから、二人は目的の美術館に到着した。
「……美術館は、久し振りです」
螺旋が小さく言う。
「……実は俺も、そんなには来ないんですけど」
高瀬も正直に言ってから、
「羽佐間さんは、前回来られた時は何を見られたんですか?」
「モネです」
「お好きなんですか、モネ」
「……叔母が、好んでいました」
「……すみません」
彼女の叔母であり魔術の師匠でもある宵宮暁音は、彼女が禁術を行使するに至った事件に大きく関わっていた悪神によって命を奪われている。
「高瀬さんが謝ることはないでしょう。モネの絵には……思い出が、あります」
高瀬に気まずい思いをさせた、と感じたらしく、螺旋は高瀬を見上げて目を合わせながら言った。
「……モネ、羽佐間さんらしいと思います」
「…………?」
「行きましょう。抽象画がメインで、立体作品とかインスタレーションとかもあるらしいっすよ」
「楽しみです」
相変わらず表情にほぼ変化はないが、その声は少しだけ柔らかかった。
館内に展示されている抽象画を、彼女は興味深そうに眺めていた。高瀬はどちらかと言うと、そんな螺旋の横顔を眺めている時間の方が自然と長くなっていたが、本人にその自覚はなかった。
螺旋がどの作品に特に興味を引かれているかは、その視線を向けている長さで高瀬にも判った。どうやらそれらには配色の共通点があることを、高瀬は何となく理解する。ちなみにそれぞれの作品について、高瀬には作者の意図は理解できなかったし、その必要もないだろうと思った。
「……これ、色遣いが面白いですね」
小声で言うと、螺旋も小さな声で、はい、と頷いた。
「無秩序の中に形成された秩序を感じます」
「……なるほど」
螺旋は画家の意図を汲んでいるらしい。言われてみればそんな気もする絵だった。
立体作品のセクションになると、彼女が興味を示す作品の共通点は判らなくなった。だが特徴的な作品たちは、その斬新さからか見飽きることがなかった。
螺旋の方も、時折高瀬の様子を窺っているのが判った。
たまに小声で感想を交わし合いながら、やがて最後の展示の鑑賞を終えた。
その先がショップになっていた。この企画展にちなんだグッズも販売されてるようだ。二人は自然にそちらへ足を運ぶ。
「……これは」
ショップの入り口で、彼女はふと足を止めた。
その視線の先にあったのは、彼女が気に入ったと思われる絵画がデザインされた紅茶の缶だった。
「……プレゼントしてもいいですか?」
高瀬が問うと、螺旋は小さく首を傾げる。
「……自分で買いま――」
「プレゼントします。させて下さい。そういうもんです」
「……そういうものなのですか」
「そうです」
「では……お言葉に甘えます。ありがとうございます、高瀬さん」
「いえいえ」
もう少しショップを見て回ってから結局その紅茶缶だけを買うと、高瀬は改めてそれを彼女に手渡した。
「ありがとうございます」
彼女は再び礼を述べながら両手でそれを受け取り、それから数回瞬きをした。そんな彼女を、高瀬はどこか微笑ましく見ていた。調子は狂うが――これまでの恋愛における常識がほぼほぼ通用しない――何故か寧ろ心地よかった。
美術館に併設されているカフェでやや遅めの昼食を済ませ――螺旋は少し前に遅めの朝食を摂ったばかりということで、ごく軽めのメニューを選んだ――高瀬は螺旋に問うた。
「羽佐間さん、疲れてません? 大丈夫です?」
「いえ、特には」
彼女は少しだけ首を傾けて答える。
「……企画展、どうでした?」
「どれも興味深い展示でした。特に、あの無秩序の中に形成された秩序の絵画は」
僅かに頷きながら答える様子を見て――どうやらあの絵は相当気に入ったようである――退屈させずに済んだらしいことに高瀬は安堵していた。美術館デートは、紗雪からはダメ出しを喰らったプランだったからだ。しかし彼女が賑やかな場所を好むとは思えなかったし、それで静かな場所を選んだ結果がこれだった。結果的にこのプランはそこまで失敗でもなかっただろう。
「……高瀬さんは、どの展示が印象に残りましたか」
静かに問われ、高瀬は記憶を辿る。そこで気付いた。
――作品よりも、明らかに螺旋を見ていた時間の方が長い。何が展示されていたか、よく覚えていない。
「あー……えー……あの、白くて丸いオブジェ……っすかね?」
「……確かにあのオブジェも印象的でした」
唯一印象に残っていた作品を口に出すと――無論それも彼女が長時間視線を向けていたからである――彼女は頷いた。
「正直、俺はそんなに美術品に詳しいわけではないんですけど……他に静かな場所も思い付かなくて……」
高瀬は正直に告げる。彼女はまた小さく首を傾げてから、微かに口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
「……いえ」
少しの間、静かな時間が流れた。
「……羽佐間さんが行きたい場所とかは、ありませんか?」
その問いに、彼女は少し考え込んだ。
「…………」
かなり真剣に悩んでいる様子だ。彼女が娯楽に興味を持っているとは思えない、と気付き、高瀬は問いを変える。
「ええと、じゃあ……普段よく行かれるところは……?」
「……紅茶専門店、でしょうか」
確かに彼女は紅茶愛好家である。
「じゃあ、今度、一緒に行ってもいいっすか?」
「……はい」
螺旋は静かに頷いた。
「……そろそろ出ます?」
「……はい」
二人は席を立つと、高瀬が会計を済ませ――自分の分を払おうとする螺旋をどうにか遮った――美術館を出た。
別れ際、
「……高瀬さん、今日は――ありがとうございました」
螺旋はいつもより少しだけ柔らかな表情で言った。
「い、いえ! こちらこそ、楽しかったです。疲れてません?」
「私は疲れていません、高瀬さんこそ……」
「俺は全然大丈夫です」
ふわりと風が抜け、彼女の白銀の髪を揺らした。
「……では、気を付けて帰って下さいね」
「はい……高瀬さんも」
髪を押さえて彼女は言って、軽く一礼して背中を向ける。高瀬は彼女の姿が見えなくなるまでそれを目で追った。一度だけ彼女が振り向いたので、軽く手を振る。彼女はどうすべきか迷った様子で片手を彷徨わせ、結局少し困ったように微笑んでから会釈をし、進むべき方向へ向き直った。
彼女の姿が見えなくなると、高瀬は心に温かいものを抱えながら家路に就いた。
高瀬が送ったメッセージに、彼女からいつものように文字の返事と、彼がいつも使うスタンプと同じキャラクターの『ありがとうございます』というスタンプが返ってきた。
その夜、紗雪は意を決したように静かに口を開いた。
「……お兄ちゃんさ、羽佐間さんだけど……」
「何だ?」
「……黒髪じゃ、なかった?」
「……紗雪、お前まさか――」
「……あの銀色の髪、どういうこと?」
「――紗雪、俺たちのこと見てたのか?」
「……それは、ごめんなさい。ちょっと出来心で、どんな感じかなーって……けど、ごめんなさい」
紗雪はまっすぐに謝罪を口にする。高瀬は小さく息を吐いてから、
「……長くない、って、話しただろ」
「うん」
「……その辺の、事情だ」
「……羽佐間さんって、普通じゃ、なかったり、する?」
「どういう意味だ」
「あ、悪い意味じゃなくて……何て言うのかな、私には言えないような、秘密があったり、するんだよね、多分」
「……その辺、は――」
――言えない。彼女が魔術師であることも、彼女と高瀬が所属する警察庁刑事局の部署が極秘の異能部署であることも、言えるはずがない。
その高瀬の沈黙で、紗雪は何かを確信した。
「……お兄ちゃんさ、警察庁に移ったのって……一番最初に警察庁に移ったのって、いつ?」
「…………」
「……判った、いや、判んないけど――私がっていうか、一般人が踏み込めない領域が、あるんだね」
「…………」
高瀬は無言を貫き、紗雪にとってはそれが何よりもの答えだった。
「……ま、いっか。羽佐間さんはやっぱり綺麗だったし、前よりも――雰囲気が柔らかくて、素敵だね」
「……紗雪、悪いな」
「ま、お兄ちゃんが変だったのって五か月くらい前からかな、それを考えたら今更だし」
高瀬が特捜へ異動になった頃からその異変に気付いていたような口振りで、紗雪は言った。
「今度改めて紹介してよね、あといつお義姉さんになるのかも教えてね」
「っ、紗雪!」
「そうだ、お菓子作るから、羽佐間さんにも食べてもらいたいなぁ、羽佐間さんが好きなお菓子って何だろう?」
「……羽佐間さん、甘いもの苦手だぞ」
「……えっ?」
「だから、羽佐間さんは甘いもの苦手だ」
「……え、え、じゃあ、あのときのクッキー――」
初対面で紗雪が押しつけたクッキーは――そもそも紗雪の作る菓子類は、甘いという形容に治まりきらない甘さである。
高瀬は何も言わずにただ頷いた。
「……そうなんだ、悪いことしちゃったんだね……あのとき羽佐間さん、怒ってなかった?」
「羽佐間さんは――そういう人じゃないからな」
「……うん」
「まあ……菓子は止めとけ。紅茶は好きだ」
「うん。じゃあ、ちゃんとうちに呼んでね? 絶対ね?」
「……そのうちな」
高瀬はそう応えて、紗雪は嬉しそうな表情を浮かべた。




