第5話(前半)「0612と創作者の影」
―――現実世界・中継セクター医療棟―――
電子心音計の規則正しい刻みだけが、白い部屋に響いていた。
ベッドに横たわる長老の顔は、時空を旅していた頃の血色はなかった。深く刻まれた皺が、いっそう際立って見える。胸元の酸素マスクは外されており、その呼吸は浅く、しかし確かに続いている。
「……長老。お聞きになっていますか」
学生が、ベッドの脇で静かに呼びかける。彼女の手には、端末が握られている。画面には、融合セクターのデータが流れ続けている。
『……聞こえている』
長老の声は、弱々しかった。でも、その言葉には、確かな力が宿っていた。
「会議室の皆さんは、今、融合セクターで戦っています。システムが、すべての物語を一つに統合しようとしています」
『……知っている』
長老は、目を開けた。その瞳は、かすかに光っている。
『わしは、このベッドの上で、ずっと観測していた。お前たちが、何をしているかを』
「……それなら」
学生が、端末を差し出す。画面には、0612のデータが表示されている。
「この数字の意味が、分かりますか? システムはこれを『エラー』として処理しています。でも、私たちには、それが何か大切なもののように思えてならないんです」
長老は、その数字を見つめた。しばらくの沈黙。
『……0612』
彼の声が、かすかに震える。
『それは、人が付けた番号と聞いたことがある』
「……番号?」
『ああ。あの数字には、本質的な意味はない。ただ、誰かが記した、一つの印に過ぎない』
「……でも、それなら」
学生が、首をかしげる。
「どうして、あの数字が、すべての世界に現れるんですか?」
長老は、答えなかった。代わりに、彼は自分の手を持ち上げた。その指が、かすかに動く。まるで、何かをなぞるように。
『……昔な』
彼の声が、遠くを見るように響く。
『わしがまだ若かった頃、一人の創作者の伝説を聞いた。彼は、物語を書いていた。でも、彼の物語は、誰にも読まれなかった』
「……なぜ、ですか」
『彼は、完璧な物語を書こうとしなかったからだ。彼は、未完の物語を書いていた。誰かが、その続きを考えられるように。誰かが、その物語を生きられるように』
長老の指が、空中をなぞる。その軌跡は、0612の形をしていた。
『彼は、最後のページに、この数字を記した。彼は言った。「これは、私が書いた物語ではない。これは、誰かがこれから書く物語の、始まりの印だ」と。聞いた噂だ』
「……それが、0612の正体なんですか?」
『さあな』
長老は、微笑んだ。
『わしにも、分からん。ただ──』
彼の指が、空中で止まる。
『──あの数字を見るたびに、わしはその話を思い出すのだ。そして浮かんでくるのだ。見たこともない創作者の、寂しそうな笑顔が』
(第5話後半に続く)




