ヒグレと時量師神
至が、用事があると告げて、大地と別れてから数刻。
至は時間屋の前に立っていた。
人生のほとんどを過ごしたけれど、ここに"帰る"ようになったのはここ数ヶ月。たったの数回。
しかも今の至にとって"帰る"という表現は、この場所にあまり適さないような気がしていた。
帰ろうと思った時に浮かぶのは、久谷家の、季節の花々や木々に囲まれた重厚ながらも温かみを感じる家であり、庭仕事をする清太郎であり、突飛ながらも世話好きな大地であり、突然現れた他人である自分に身内のように接してくれる一粒の両親。
そして一粒。
至にとって一粒は自分の世界を変えた人だ。
当然現れて、至の何もかもを変えてしまった。
驚き、戸惑い、喜び、好奇心、苛立ち、悲しみ、欲望、愛しさ
あらゆる気持ちを至にもたらした。
苦しくもあった。
全部知らなかったものをこの歳で知るのは
知らなかった今までを知ることでもあった。
一粒と近くに居ると、いままで認識していた"自分"が分からなくなる時が、度々あった。
あまり普通とは言えない人生を過ごした至から見ても、彼女の人生は平穏とは言えなかった。
それでも至から見る彼女は
驚いたり、笑ったり、拗ねたり、泣いたり
傷ついて、怖くて臆病になっても、時には逃げて、気づかないふりをして、懸命に進もうとしているように見えた。
黒い瞳が大きく見開かれると、何を映しているのか瞳の中を覗きたくなった。
はにかんで口元を綻ばせていると、自分も自然と口元が緩む。
口元を尖らせて、こちらを不満気な視線を向けてくれば、頭を撫でてやりたくなった。
流すまいと、堪えて目に涙を溜めている時は、抱き寄せて、胸の中に閉じ込めたい衝動を堪えた。
花火大会の時、一粒が、"もしも"の話をした。
"もしも、子供の時、秘密で二人で花火大会に行ってたら__"
(…初恋になっていただろうな。)
間違いなく幼い自分は、たった一晩だけ会った彼女に夢中になると思う。
そして、残りの時間屋での人生の宝物にしただろう。
もしかしたら、たとえ運命の女性とやらが現れていても、彼女じゃないことに落胆して、帰してしまっていたかもしれない。
時間屋では、訪れてきたものは、必ず去っていく。
そのことに疑問を持ったこともないし、ましてや引き止めようとしたことなど、思ったことすらなかった。
そういうものだったから。
一粒も一度は去った。
彼女は逃げた。
でも、気がつけば追いかけていた。
背後で先代も、何か言っていたけれど、自分の意思で、時間屋を飛び出していた。
そう、初めて去ることを受け入れられなかった。
そして、追いかけて、追いついて、共に過ごしていると、
何となく、なぜあの時追いかけたのか、自分の中に答えがある気がした。
久谷家で過ごす間
ふと、背後から大きな膜が被さってくるような、思考がぼんやりと溶けていく時が何度かあった。
そうすると、ぼんやり、自分はやはりもとの止まった時の中に、戻るべきなのかと、そんな考えが浮かんでくる。
その度に、一粒がどこからともなくひょっこりと現れるのだ。
『時量さん』
不透明な霞んだ膜に一粒の砂粒が、ポツリと落ちる。
そこから広がる波紋が、少しづつ、歪んだ油膜を切り開き、視界が晴れていく。
至は文化祭で一粒の姿を見て、自分の向き合い難い愚かな感情が、はっきりした。
(とっくに、分かっていたのに、)
だから時間屋に行かなければならないと思った。
もしかしたら最後の"帰り"になるかもしれないけれど。
『こんばんは。』
相変わらず薄暗い店内の中には、奥の作業台に先代が座っているだけだ。
数ヶ月前までは薄暗いと思ったことすらなかった。
ここだけが至の世界だったから。
一粒と五十年前の記録を調べた後も、至は時間を作って、何度か一人で記録を見返していた。
その時は気にならなかった小さな違和感が、今となると、まるで"気づかせよう"と用意されていたようにも思える
『五十年前の記録を見て、先代にお聞きしたいことができました。』
『…』
話を聞いてはいるようだが、先代の視線は至の方を向いてはいない。
"彼"もこの後至が指摘する物をわかっているのだろう。
『大砂時計の砂の量が、記録と合っていない。僅かな量などではない。おそらくおおよそで、三十年分ほど。』
『そうですね。』
至は時間屋の仕事を無責任に行なってきたわけではないと、自分では思っている。
ただ、"そうあるものだ"と、目の前の物を受け入れ続けたことで、向き合ってなかったのかもしれないと今では思う。
大砂時計の量と、砂時計製作の記録のとのずれも、そういうこともあるのかもしれないと、気づきつつも深く考えなかった。
しかし、今日文化祭の一粒を一目見た時に、馬鹿みたいな幻想を抱いてしまった。
三十数年前、時間屋の後を継いだばかりの頃、作業台に座っている至。
扉が開いて、一人の女性が訪れる。
至は一瞬で理解する
"ああ、私にも訪れたのだ"と
そしてその女性は、花柄のワンピースを着た一粒だった。
『正確には三十四年だね。数字が半端なのはヒグレの慌てん坊かな?』
答えた声は、作業台に座っていた先代の、いや、父ヒグレのものではなかった。
いや、最初からずっとヒグレではなかったのだと、今では至も分かっていた。
男は長い髪に、白の狩衣を纏っており、色彩こそ自分と似通っているものの、圧倒的に纏う空気の重さが違った。
おそらく人ならざるもの。
『至、今回の最初のはじまりはヒグレだったんだよ。』
父ヒグレに、幼い頃一度だけ聞いたことがある。
『我々時間屋のご先祖は、神さまなんだよ』と。
その名を時量師神。
火の国の神、伊弉諾ミコトがその身に身につけていた袋を投げ捨てた際に生まれた神様。
その小さな神様が、人の過ぎさった想いのために、私たちの時間屋を作ったと。
狩衣の青年はゆったりとした動作で立ち上がり、まるで世間話でもするように軽い調子で話し始めた。
まるで見てきたことのように。
『ヒグレは今までの時間屋に見ない、とても愛情深い子だった。いや、僕も"あの時"まではあの子がそんな子だったなんて知らなかったよ…。』
青年は目をつぶって、まるで何かを悔いるように、その細い両の手の平を合わせた。
『彼は本当に愛してしまったんだ。そして、その愛に縋ってしまった。』
たった一度の逢瀬。
たった一度だけ結ばれて、去っていった女性。
しかもヒグレがそのことに気がついたのは彼女が自分の元を過ぎ去ってからであった。
『ヒグレが、ある女性の絵を大事にしていたのを知っているかい?』
至は頷く。
ヒグレ自身が描いた、至の母の姿だと、ぼんやりと特徴のない女性の絵を見せてもらったことがある。
想い人を失ったヒグレの愛情は、次第に今は居ない彼女の忘れ形見である至に向いた。
時間屋は代々同じような容姿で、ヒグレとよく似た至の見た目に、愛した彼女の面影などない。
『君を幸せにすることで、ヒグレは自分を救いたかったのかな?』
至が成長するにつれ、彼の子供らしい世界への好奇心や、外への隠しきれない憧憬、にヒグレは気づいていた。
彼はきっと自分と同じように苦しむ。
愛を知ってから、それを失うことに。
"ではいっそ、知らなければ。"
ヒグレは代替わりした後、"その時"が訪れるのを慎重に待っていた。
代替わりしてからも、何かと理由をつけて至を奥で作業させることにした。
自分が店の表に立ち、至に気付かれないように。
そして"その時"は思っていたよりも早く訪れた。
『すみません、勝手に入ってしまって。…お店かと思って』
至よりも年上だろうけれど、花柄のワンピースを着た素直そうな愛らしい雰囲気の女性。
キョロキョロと店内を見渡しているその様子をあえて無視して、ヒグレは素早く彼女の手に用意しておいた物を握らせる。
『ここには二度と来てはいけない。そしてそれを持っていってください。もしも、時間を戻したいようなことがあったら、使ってください。』
鬼気迫るようなヒグレの雰囲気に気圧されたのか、女性は一度だけ頷くとすぐに店から走り出ていった。
ヒグレは、自分のしたことの重さがのし掛かったように、がっくりと肩を落として項垂れた。
さすがに時戻しの砂時計を騙して使わせるまでは出来なかった。いや、渡した時点で騙したも同然だ。
もしも彼女が正しい条件が揃っていない状態でそれを使えば、彼女が時の中でどうなるか分かったものではない。
自己満足のために、罪のない彼女の運命を捻じ曲げてしまったことをヒグレは自覚していた。
『ヒグレによって、君と出会うことのなかった彼女は、おそらく不正な時戻しにより時軸の中を彷徨っただろう。行くべき時がなかったのだから。』
とんでもない事実を突きつけられたのかもしれないが、至の心は凪いでいた。
『ヒグレを恨むかい?』
『いいえ。』
『どうして?君とっては、ヒグレの行いは、ひどいことではないのかい?』
『…きっと、私も、彼の立場なら同じことをするからです。』
『君は、容姿は僕にそっくりなのに、中身はヒグレにそっくりだ。』
『彼は、私の父ですから。』
幼かった頃の至にとって、ヒグレは"世話をしてくれる人"で、"仕事を教えてくれる人"で、
時間屋を継ぐ頃には、"先代"になり、あまり父と思ったことは無かった。
(一粒さんに"お父さん"と言われた時、驚いたしな。)
至の反応は、狩衣の青年にとって満足するものだったのか、にっこりと微笑んで頷いた。
『"彼女"はどうなったのですか?』
『僕は見ていただけで、何もしてあげられなかった。彼女は時軸から外されて、ゆっくりと消えていった。…でもね、彼女というか、彼女の小さなカケラが不思議と残ったんだ。』
(ああ、)
『その小さな小さなカケラは、時軸の中を漂い、何度も何度も消失を免れて、長い時を経て、なんと己が弾かれた小さな穴の隙間から、時軸の中に戻ったんだよ。その時にはさらに小さくなって、まさに砂の一粒くらい。』
(やっぱり、君だった)
『そして、時軸の中でなんとか命になったその一粒は、残念ながらかつての彼女ではなかった。あまりに小さかったからね。それでも、時軸は異物として、すぐに異物の一粒から生まれた彼女を弾き出そうとした。』
(それでも、)
『とても運の良い子だよ。時を掛けて人間に大事にされ続けた樹木が、我が子のように彼女を時軸から守り続けた。』
幸運や御神木だけではない。
(一粒さんを愛する家族が、一粒を守ったんだ。)
『でも、時の因果はどうしても避けられないのか、御神木は大きな傷を負い、力を失い、彼女は大砂時計に導かれてしまった。』
あの日、一粒を見て、少女であることに驚いた。
普通、時戻しの客は大人だ。
過ぎた時間の中での後悔によって、訪れるから。
『あの時、時軸は確かに一粒を消そうとした。』
至も、気を失って床に倒れた彼女を見つけ、介抱しながら同じ結論に至った。
そして、少しの憐れさをもって、"きっとこの子は消されるべき存在なのだろう"と。
『でも同じ時に、至と一粒出会った。いつだって、時軸は正しいほうに調整される。何の因果か、君たちの"運命のタイミング"の方が正されるように時の調整が変わった。』
だから一粒ではなく、時計屋が戻ったのだ。
今の一粒ではない、"以前の彼女"のカケラと、至が正しいタイミングで出会うために。
(やっぱり君のせいなんかじゃなかった。)
ヒグレのせいとも思わない。
これは、運命に、大きな力に、抗おうとした人たちが繋いだ軌跡だと、至は薄れゆく意識の中で思った。
『だからね、君たちは2人でいれば"正しい"んだ。』
至はだんだん自分の思考がぼやけてきていることに気が付かなかった。
もう抗えないほどの濁った分厚い膜が自分を覆っている。
しかし、思えばこの膜は時間屋に居た時は常にあったような気もする。別段これでいいと、ここから抜け出そうという気もなかった。
でも今はダメなんだ。
(君は謝る必要なんてなかったんだよ。)
『一粒さんは、何も間違っていません。』
『そうかな?』
『御神木が守れなくなった今、大砂時計を彼女を代わりに、せめて彼女が生きている間に守護に。』
『それはダメなんだ。』
『…なぜ』
視界が濁ってきたのは、自分の目だけではなかったとようやく至は気づく。
時間屋がゆっくりと、この空間ごと濁って、まるで崩れ落ちる砂のように歪んでいく。
大砂時計すらその歪みに引き摺られて、あれだけ美しかった曲線はぐにゃりと醜くひしゃげていた。
『時間屋が、もうなくなるから。』
"至、最後の僕の子。さようなら"
至の意識は、その神の言葉を最後に砂に消えた。




