時の旅人と神様
夏休みも目前、どこか集中の欠いた雰囲気の教室で、先生も半ば諦めて、黒板に謎の漢字の羅列を書き綴る。
古文の先生は、日本の古文より中国の古典が好きで、よく暇に任せて語る。
"それ天地は万物の逆旅なり、光陰は百代の過客なり。"
ーこの天地というものは、あらゆる命がしばし身を寄せる宿であり、時間というものは、果てしない時代を通り過ぎてゆく旅人であるー
人間が時間の中を旅しているというより、時間のほうが私たちのところを通り過ぎていく。今日という時間がやってきて、私たちの前を通り、二度と戻らず去っていく。
この大昔の中国の学者はそんな風に考えたと。
目を閉じて、
先生の声と、クラスメイトの囁き
校庭の体育のホイッスル
遠くの廊下の足音の反響
全部遠ざけて、暗い暗い深いところに
落ちていく
じゃあ、時量さんのところに戻ってきた旅人は、二度と戻れない道のりを戻ってまで、彼に会いにきて、何がしたかったんだろう。
「暑いよー」
「暑いですね」
「嘘でしょ?時量さん、全然汗かいてるように見えない。」
「それ、造園の仕事の方々にもよく言われますけど、普通に暑いですよ。」
「そうなんですかー、はい、ミニ扇風機、時量さんにも貸してあげる。」
私たちは7月のジリジリと灼熱の太陽の下、住宅街。
私たちは、時戻しの記録調査のために放課後待ち合わせて、時間屋に向かって歩いていた。
時量さんはわざわざ学校まで迎えにきたので、校門まで一緒に帰っていた玲奈ちゃんに
「住み込みのイケメン!」と指さされていた。
辿り着いた時間屋は、両脇が背の高い住宅に挟まれているため、日陰になっている。
もう何度も見ているのにも関わらず、私はこれから入ることを考えると少し緊張する。
時量さんにとっては実家だし、そんなことはないのか、特に躊躇もなく引き戸を開ける。
「先代、来ましたよ。」
「お邪魔します。」
「はい、いらっしゃい。」
のんびりした感じの先代の声がして、私も時量さんの後ろについて、会釈しながら店内にはいる。
「今日は五十年前の記録を調べさせてください。」
「どうぞ。」
「時戻しの客は来ていないですか?」
「誰も来ていないよ。」
「なるほど。」
私は時量さんに連れられて、時量さんと初めて顔を合わせた時に、彼が出てきた奥の扉に入っていった。
部屋自体の面積は狭いけれど、四辺の壁全てに木製の本棚が作り付けられており、全ての棚にぎっしりと記録と思われるノートで埋まっている。
この部屋は窓が無いせいか、かなり暗い。
部屋の中央には長机があり、おそらく砂時計作りに使われる工具が綺麗に並べてある。
先に部屋に入った時量さんが、その机の上にあったランプを持ってつまみを捻った。
ふんわりと、そこを中心に部屋に橙色の明かりが広がる。
「これ、記録が収まりきらなくなったらどうするんですか?」
紙の量に圧倒されながらも、私が現実的な質問をすると、時量さんが板張りの床を指差す。
「さらに昔の記録は地下室にあります。ここがいっぱいになると地下に移動させます。さらに昔の記録はどうなんでしょう?私も分かりません」
時量さんは指で棚を辿り始めて、何冊か手に取って眺めては戻してを繰り返してから、私を見た。
「まず50年前の記録の場所のあたりをつけますね。ここは暗いので、表の部屋で先代と待っていてください。」
先代さんはニコニコしているけれど、会ったばかりの時量さんより、さらに口数が少ないようで、私と先代さんは向き合ったまま沈黙していた。
手持ち無沙汰で室内をキョロキョロ観察してしまう。
確かその辺、実は引き出し梯子があって二階にお風呂とか、台所とか寝る場所があるって時量さん言ってたな。
奥に目を凝らしてみるが、室内は吊り下げ型の照明一つだけで、奥には光が届いていなくて見えない。
1階がこの広さなら、2階は布団やお風呂なんておいたらほとんど場所ないよね?
子供の時、外にも出れないで、どうやって遊んだりしたんだろ?
「…あの、時量さん、いや、えーっと至さんは小さい時どんな感じでした?」
「至はねぇ、今とそんなに変わらんよ。」
「はぁ、そうなんですか。」
(しまった。終わっちゃった。)
私が、もじもじしているのに先代はニコニコしている。
「あぁ、今の至を見ていると、5歳くらいの時の至をよく思い出すよ。彼は時間屋には珍しくよく話す子で、本をたくさん読んで外への関心も強くてねぇ。」
「へぇ。」
そのまま先代は遠くを見つめるように、固まってしまう。
しばらくそのまま静かな時間が流れて、話は終わったかと思ったら、唐突にまた口を開く。
「時間屋はどうやって後継ぎが生まれると思う?」
「え、それはその、女性が産むのでは?」
「そう。でも時間屋には店主しかいることができない。」
「じゃあ、どうして…?」
「時がくるとね、時軸が運命の女性を時間屋に引き入れる。そして、一度きりの愛を結び、妊娠して、後継ぎを出産したら、運命のままに彼女は去っていく。」
"光陰は百代の過客なり"
会いにきて去っていく女性を想像した時、今日の授業の言葉と重なった。
「運命の女性なのに、過ぎていく客なの?時計屋さんは進めないの?」
「とても懐かしい表現だ。李白の言葉かな?」
振り返ると、先代居たはずの席に知らない男性が座っていた。
とても長い髪で、白っぽい袴みたいな服を着ていて、見た目は色白で、灰色の髪の毛。
先代さんや時量さんに似ているけど、さらに浮世離れしている。
突然話していた人間が、知らない誰かに変わってたら、普通もっと、驚いたり、怖くなったりしそうなのに、私の心は落ち着いていた。
あまりにも目の前のこの人が当然のようにそこにいて、馴染みすぎてるせいか。
朗らかに微笑んで、黙って見つめる私を見つめ返している。
「あなたは…誰ですか?」
彼は、私の質問を聞くと、とても申し訳なさそうな、悲しそうな顔になる。
「ごめんね、本当はヒグレはもともと戻れなかったんだ。時間屋の店主はその骨を大砂時計に捧げるからどんなに時は戻っても、朽ちた彼らは戻らない。」
「ヒグレって、誰ですか?」
「時間屋の、至の前の当主だよ。」
受け入れ難い上に、初耳な情報が一気に入ってきて、私は混乱していた。
「つまり、時量さんのお父さん、生き返ってなかったってこと?」
「"生き返る"か…。うーん、まぁそう思っていいよ。彼は"生き返れなかった"から、わたしが代わりにきて、代わりをしていた。」
彼は、時量さんにとっては残酷になるであろう事実を、まるで正解した私を褒めるように、ニコッと微笑みながら答えた。
「…じゃあ、お父さんじゃないあなたは、誰なんですか。何のためにこんなこと…」
私は怒っていた。
なぜそんな期待させて裏切るような真似を、この人は、大したことじゃないみたいに笑いながら話すのか。
「私は最初の時間屋、時量師神だよ。」
「…神、様…?」
「至は来ないよ。」
「…!」
「心が読めるわけじゃない。君すぐそっち見たから。」
と神様を名乗る彼は奥の扉をチラリと見やる。
私が咄嗟に時量さんの居る部屋に視線を走らせたのがバレている…。
手足の先が冷たくなるような感覚がする。
「今奥の部屋だけ、ほんの少し同じ時が繰り返されている。」
「…」
神様を名乗るこの人は、にわかに信じ難いことを、一人言ごとのように呟いて、自分の指先を立てて、時計の針のように右に左に小さく振った。
(…でも、現に時量さんがこんなに私を放って部屋に籠るのは、変な気がする。)
「私は神様だけど、そんなに大した力は無いんだ。さっきも言ったように心も読めないし、時戻しも、色んな条件が全て揃って、強く望む人間にしか出来ない。」
口の中に溜まっていた生唾を飲みこむ。
「…私を、消しにきたんですか?」
「違うよ。」
拍子抜けするほどあっさり否定されて、一気に緊張で固くなっていた身体が緩む。
私は倒れないようにお腹に力をいれて、しっかりと踏ん張って立つ。
とりあえず唐突に現れた神様はどうやら私を消しにきたわけではないようだった。
「どちらかと言えば、至かな?」
「?!」
「一粒。君と至は2人でいれば時軸から弾かれはしないだろう。けれど、離れてはいけないよ。」
「…どういうことですか?」
神様の瞳をじっと覗き込むけど、その中にあるのが真実なのか気まぐれなのか、その答えは見つからない。
「この先、至を失いたくないなら、どんなことが起きても手を離してはいけないということだ。」
「え?四六時中ってこと?」
私の質問が愉快だったのか、彼は「それもいいかもね」とクスクス口元を押さえて笑ったので、私はムッとして黙り込む。
「私があまりたくさん話すと、それこそもっと大きな存在に消されてしまうからね。もう少しヒグレで居させておくれ。」
そう言って、内緒話をするかのように、人差し指を口元に当てると、瞬きする間に神様を名乗る男性は、元のニコニコした先代の姿になっていた。
「あ…」
「一粒さん、準備ができたのでこっちで読みましょう。」
あまりにもタイミング良く奥の扉が開いて、紙束を抱えた時量さんが現れる。
「分かりました。」
私は急いで走って、時量さんに駆け寄った。
奥の扉が閉まる前に、一度だけ振り返ると先代の姿をした人が、うつらうつら船を漕いでいた。
(…ヒグレさん)
きっと、今はまだ、時量さんには言わない方がいい。
そんな気がした。




