第55話 三回戦、常勝の令嬢
レオナルドとの死闘を制した夜、大会本部が用意した貴賓用の宿舎では、ささやかな祝杯が上げられていた。とはいえ、豪華な料理に真っ先に手を伸ばしたのはミミで、シルヴィアは護衛の任を忘れず扉の前に陣取り、リーゼロッテは早々に帳面を広げて次の対戦相手の情報を整理し始めている。
「勝った勝った! ご主人様、レオナルドさんの持ってた葡萄酒、めちゃくちゃ美味しかったのです!」
「お前は毎回そこかよ……まあいいけどよ」
アキトは長椅子に寝転がり、指先でコインを弾ませながら天井を眺めていた。二回戦を勝ち抜いた高揚感よりも先に、腹の底にわずかな疲労がわだかまっている。【絶対因果】を心理戦の要所要所で使い続けたせいで、魔力の残量が思っていたより心許ない。
「アキト」
リーゼロッテが帳面から顔を上げずに声をかけてきた。
「浮かれているところ悪いですが、三回戦の対戦相手が正式に発表されました。相手は――イザベラ・フォン・クロイツェル」
「誰だそれ」
「『常勝の令嬢』と呼ばれている方です。大会に初めて出場してから六年連続で準決勝以上に進出し、一度も負けたことがない。今大会も当然のように予選を無傷で突破しています」
シルヴィアが扉の前から振り返り、腕を組んだ。
「噂は聞いている。クロイツェル商会といえば、大陸中に情報網を持つことで有名な家だ。あの令嬢自身も、対戦相手の癖や過去の勝負をすべて調べ上げた上で卓につくと聞く」
「つまり、俺の手の内も筒抜けってことか」
アキトが口の端を歪める。ニヤけているようにも、面倒くさがっているようにも見える表情だ。ミミが耳をぴくりと動かした。
「ご主人様、今のは楽しそうな顔なのです」
「バレたか」
完全な情報戦を仕掛けてくる相手というのは、実のところアキトにとって初めての種類の敵だった。イカサマも通用しない、心理の揺さぶりすら事前に対策されている可能性がある。だからこそ面白い、という博徒の血が疼く。
「面白がっている場合ですか。魔力はどれくらい残っているんです」
「……半分もねえかもな」
リーゼロッテの声が一段低くなる。アキトは肩をすくめて答えた。嘘をついても仕方がない相手だ。
「レオナルドとの一戦で、けっこう使い込んじまった。次で温存しないと、決勝まで保たねえ」
「なら今回は、スキルに頼らない立ち回りが必要になりますね」
「上等だ。むしろそっちのが性に合ってる」
アキトは起き上がり、指先のコインをぴたりと止めた。純粋な技術と読み合いの勝負――前世で培った博徒としての矜持が、静かに火を灯す。
翌日、リーゼロッテとシルヴィア、ミミはそれぞれの伝手を頼ってイザベラの情報収集に動いた。
リーゼロッテは大会本部の記録係や両替商から、彼女の過去の対戦記録を洗った。
「六年間で公式戦五十二勝、無敗。使用するゲームは主にファイブカード・スタッド。特徴は、序盤のベットで相手の呼吸や視線の動きを執拗に観察し、中盤以降はほとんど確実な手でしか勝負に出ないこと。無理をしない、堅実を極めた勝ち方です」
シルヴィアは護衛として雇われている騎士崩れの男たちから話を聞き出した。
「彼女の護衛は皆、元は大陸各地の諜報機関出身らしい。試合前に対戦相手の宿泊先や食事の量、睡眠時間まで調べ上げていると噂されている。……正直、褒められた手段とは思えないが、合法の範囲内ではあるそうだ」
ミミは会場の裏で、令嬢付きの小間使いの少女とこっそり仲良くなっていた。
「イザベラお嬢様、すっごく綺麗な人なのです。でも、笑ってるのに目が全然笑ってないの。あと、負けるのがものすごく怖いんだって、小間使いの子が言ってたのです」
「怖い、ね」
夕食の席で三人分の報告を聞いたアキトは、顎に手を当てて考え込んだ。
「完璧な情報収集と、堅実な勝ち方。裏を返せば――」
「負けを極端に恐れている、ということですね」
リーゼロッテが先んじて言葉を継いだ。二人の視線が交わる。
「六年間無敗というのは、裏を返せば六年間、一度も『賭け』をしていないということです。彼女は常に、勝てる手でしか勝負をしていない」
「なら俺がやることは決まってる」
アキトはニヤリと笑った。
「情報が通用しない状況を作ってやりゃあいい。奴が読み切ってる俺の『癖』とやらを、勝負の途中でぶち壊してやるのさ」
「また無茶な……」
シルヴィアが額を押さえる隣で、ミミが目を輝かせた。
「さすがご主人様なのです!」
「調子に乗るな。魔力が心許ない状況で、無茶な博打を打つのは危険だと言っているんです」
リーゼロッテの言葉に、アキトは珍しく神妙な顔で頷いた。
「わかってるよ。だからこそ、今回はほとんど素の技術でいく。お前らの情報がありゃ、勝ち筋は見える」
窓の外、大陸随一の都カルディナの夜景が瞬いている。明日にはもう、三回戦――全六十四名中、残るはわずか四名という舞台が始まる。
三回戦当日。会場は昨日にも増して観客で埋め尽くされていた。無敗の令嬢と、予選から本戦まで一度も敗れていない新進の博徒という組み合わせは、大会の目玉として大陸中の噂を集めていたらしい。
卓を挟んで座るイザベラは、噂に違わぬ美貌の持ち主だった。銀糸の混じった栗色の髪を結い上げ、宝石のような碧眼でアキトを静かに見つめている。表情は穏やかな微笑みを浮かべているが、その奥に一切の隙が見えない。まさにミミの言う通り、目だけが笑っていなかった。
「初めまして、アキト様。噂はかねがね伺っております。安酒場から成り上がった、稀代の博徒だと」
「ずいぶん詳しいじゃねえか。俺の朝飯のメニューまで知ってそうだな」
「実際に存じ上げておりますわ。塩漬け肉と硬いパン、それにミルク」
アキトの口角がわずかに引きつった。図星である。
「趣味悪いな、お嬢様よ」
「勝つためには手段を選びません。それが、私の流儀ですので」
ディーラーが最初のカードを配り始める。ファイブカード・スタッド――最初の一枚は伏せ札、残りは表向きに配られていく形式だ。相手の表情、仕草、賭け金の出し方、そのすべてが情報となる勝負。
アキトは配られた伏せ札をちらりと確認し、あえて何の表情も作らなかった。イザベラが自分の呼吸や視線の癖まで読んでいるというなら、いっそ何も読ませない静けさで応じてやればいい。
「……面白い。今日は、いつもと勝手が違いそうですわね」
イザベラの微笑みに、初めてわずかな緊張が滲んだ。会場のざわめきが遠のき、静寂が卓上を支配していく。六年間無敗の令嬢と、確率すら味方につける異世界の博徒――決着の行方は、まだ誰にも見えない。
最初のラウンド、表向きに配られたカードはアキトが九、イザベラが十一。数字の上では相手が優勢に見えるが、勝負はまだ始まったばかりだ。ベットの主導権はイザベラに移り、彼女は静かにチップを二枚滑らせた。
「様子見、というやつですわね」
「らしいな」
アキトはコールしつつ、伏せ札を指先でわずかに撫でた。中身はまだ確認していない。ここで見てしまえば、無意識の視線の動きすら情報として持っていかれる。イザベラの護衛が卓の脇に控え、まるで審判のように二人の一挙一動を記録している。
二枚目、三枚目と表札が積み重なっていく。アキトの手札は九、四、七。イザベラは十一、十一、六。ペアが揃った彼女の卓上を見て、観客席がどよめいた。
「ミミ、あの子ずるいのです。相手の手が強いってわかった上で賭けてる」
「情報戦とはそういうものだ、ミミ。……だが、アキトの表情を見ろ。あれは何かを企んでいる顔だ」
シルヴィアの言葉通り、アキトの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。伏せ札の中身を知らないまま、あえて強気にレイズをかける。イザベラの碧眼がわずかに揺れた。
「……面白い賭け方をなさいますね。手の内が読めない相手というのは、久しぶりです」
「そりゃそうだろ。俺自身、自分の伏せ札がまだ何なのか知らねえんだからな」
「え……?」
イザベラの余裕に、初めて明確な亀裂が入った。彼女の強みは、対戦相手の思考と癖を先読みすることにある。だが、自分自身の手すら把握せずに勝負を進める博徒など、想定の外にあった。アキトはあえて自分の情報を最小限にすることで、彼女の得意な土俵そのものを壊しにかかっていたのだ。
四枚目のカードが配られる。アキトに三、イザベラに十。ペアの片方が重なり、イザベラの手札はスリーカードの可能性を匂わせる強さになった。並みの相手なら降りるところだ。だが――
「乗った」
アキトはさらにチップを積み増した。
「アキト様、今のは無謀です。私の手札を見て、なお勝負を続けるおつもりですか」
「無謀じゃねえよ。お前さんが強気に張ってこないのが、逆に気になっただけだ」
実のところ、アキトが見ていたのはカードそのものよりも、イザベラの指先だった。チップを押し出す瞬間、彼女の親指がほんの一瞬だけ止まる。堅実を信条とする彼女が、確信の持てない場面でわずかに逡巡する癖――それは、事前にリーゼロッテが集めた情報にはなかった、卓上でしか見えない生の情報だった。
「……なるほど。手の内を隠して、私の癖を観察していたのですね」
「情報戦なら、こっちだって負けねえよ。ただし――」
アキトは伏せ札にちらりと視線を落とし、初めてその中身を確認した。刹那、口の端が大きく持ち上がる。
「――運が味方してくれてるなら、の話だがな」
最後の一枚、勝負を決めるカードが配られようとしていた。会場の熱気が最高潮に達し、実況の声が響き渡る。イザベラの護衛たちですら、記録の手を止めて卓上を凝視していた。六年間、一度も揺らいだことのなかった『常勝の令嬢』の表情に、初めて明確な焦りが浮かぶ。
「配ります。――最後の一枚」
ディーラーの声とともに、カードが静かに卓へと滑り出される。イザベラの表札に加わったのは八。スリーカードには届かず、ツーペア止まり。彼女の表情がわずかに硬くなった。
一方のアキトの表札に配られたのは三。手札は九、四、七、三、そして伏せ札一枚。数字の並びだけを見れば、凡庸極まりない手にしか見えない。
「最終のベットラウンドです。どうぞ」
イザベラは自分の手札――十一、十一、十、八のツーペアを見つめ、そして静かにチップの山を押し出した。
「オールイン、というやつですわね。……正直に申し上げます。あなたの伏せ札が読めません。表情も、呼吸も、視線も、これまで積み上げてきた私のやり方が、一切通用しない」
「そりゃそうだろ。俺自身、俺の手が読めてねえんだからよ」
アキトは自分の伏せ札に指をかけたまま、しばし黙り込んだ。会場が水を打ったように静まり返る。ミミが両手を握りしめ、シルヴィアが息を止め、リーゼロッテだけが冷静な目でアキトの横顔を見つめていた。
(ここで【絶対因果】を使えば、確実に勝てる。だが――)
脳裏をよぎるのは、リーゼロッテの忠告だった。魔力はもう半分を切っている。ここで大きく使えば、次の準決勝、そして決勝を戦い抜く余力がなくなる。純粋な技術と読み合いで挑むと決めたのは、他ならぬ自分自身だ。
「乗った。オールインだ」
アキトはスキルに頼らず、あえてチップの全てを卓の中央へ押し出した。イザベラの碧眼が大きく見開かれる。
「本気ですか。私の手はツーペア、十一のペアが軸です。あなたの手札に、それを上回る組み合わせがあるとは到底思えません」
「あるかどうかは、めくってみりゃわかることだろ」
アキトはニヤリと笑い、伏せ札に手をかけた。会場中の視線が、その一枚に集中する。実況の声すら止まり、静寂の中でカードがゆっくりと表を向いていく――その瞬間、会場の奥、貴賓席の方角から甲高い悲鳴じみた声が響き渡った。
「――そこの博徒を捕らえよ! そいつは指名手配中の詐欺師だ!」
突然の乱入者に、会場中がどよめきに包まれる。声の主は、見覚えのない紋章をつけた男たちを引き連れた壮年の貴族だった。アキトの手が、めくりかけていたカードの上で止まる。
「……はぁ? どこの誰だお前」
答える間もなく、貴族の私兵らしき男たちが会場の入口から雪崩れ込んでくる。勝負の決着を告げるはずだったカードは、まだ半分だけ表を向いた状態で卓の上に取り残されていた。イザベラも、アキトも、そして観客たちも、誰一人としてこの乱入の意味を理解できないまま、大陸博打大会三回戦は最も緊迫した瞬間で中断を余儀なくされたのだった。
「ご主人様!」
ミミが真っ先に卓へと駆け寄り、アキトの袖を掴んだ。シルヴィアはすでに腰の剣に手をかけ、私兵たちとアキトの間に体を割り込ませている。
「下がっていろ、アキト。何者かは知らないが、まともな連中には見えない」
「妙な言いがかりだな……俺が詐欺師だぁ?」
アキトが低く呟く。乱入してきた貴族は、遠目にも上等な仕立ての服を着ているが、その顔には見覚えがない。少なくとも、この大陸で悪事を働いた記憶はいくつもあるが、この男に関しては本当に心当たりがなかった。
会場の警備を統括する大会本部の役人たちが慌てて駆けつけ、私兵たちとの間に割って入る。怒号と怒号がぶつかり合い、観客席は騒然となった。リーゼロッテだけが冷静に周囲を観察し、貴族の紋章を目に焼き付けている。
「アキト、あの紋章――見覚えがあります。あれは、たしか隣国の貴族院に籍を置く……」
その名を口にしかけたリーゼロッテの言葉は、周囲の喧騒にかき消されて最後まで届かなかった。伏せられたままの一枚のカードだけが、卓の上でひらひらと揺れている。アキトの勝敗も、乱入者の正体も、すべてが宙に浮いたまま、三回戦の舞台は混乱の渦へと呑み込まれていくのだった。
卓の向こうでは、イザベラもまた立ち上がり、こちらを鋭く見据えていた。六年間無敗を誇ってきた令嬢の瞳に浮かぶのは、勝負を汚されたことへの静かな怒りだ。その視線の強さに、アキトはふと悟る――この乱入劇、単なる偶然ではないのかもしれない、と。




