第45話 少年の意地
『銅貨三枚亭』の朝は、いつも通りの穏やかさで始まっていた。開店準備を進めるアキトたちのもとに、一人の少年が、おずおずとした様子で訪ねてきた。
「あの……。ここが、銅貨三枚亭、ですよね」
「ああ、そうだが。開店はもう少し先だぞ」
アキトが振り返ると、そこには十四、五歳ほどの少年が、緊張した面持ちで立っていた。粗末な身なりだが、目には強い意志の光が宿っている。土で汚れた服と、擦り切れた靴が、彼の生活の厳しさを物語っていた。
「お願いがあって、来ました。……僕に、賭け事のやり方を、教えてもらえませんか」
その唐突な申し出に、アキトは思わず片眉を上げた。店内を掃除していたミミも、興味深そうにその様子を見守っている。
「賭け事のやり方、ねえ。……まあ、話くらいは聞いてやる。中に入れよ」
アキトは少年を店内へと招き入れると、椅子に座らせ、温かいスープを一杯出してやった。少年は最初、遠慮がちにそれを見つめていたが、やがて空腹に耐えかねたように、勢いよくすすり始めた。
少年の名は、トビアスといった。話を聞くと、彼の父親は、街外れで小さな農場を営んでいたが、昨年の不作で多額の借金を抱え、その返済のため、隣街の貴族が主催する賭け事に、なけなしの金を注ぎ込んでしまったのだという。
「父さんは、賭け事の才能なんて、全然ないんです。案の定、負け続けて……。今度また、同じ相手に挑もうとしてるんです。でも、このままじゃ、家も畑も、全部取られちまう」
トビアスは、悔しそうに拳を握りしめながら、そう語った。その声には、幼さの残る顔立ちに似合わない、切実な焦りが滲んでいた。
「父さんを止めようとしたんです。でも、聞いてもらえなくて。……このままじゃ、母さんも妹も、住む場所を失っちゃうんです」
「それで、俺に賭け事を教われば、その相手に勝てるとでも思ったのか?」
「はい。……街で噂を聞きました。あなたが、あの三百戦無敗のガレオンさんを打ち破ったって。だから、もしかしたらって……」
その真剣な眼差しに、アキトはしばし考え込んだ。目の前の少年の必死さは、決して演技などではなく、本物の切迫感に満ちていた。
「アキト、この子の話、どう思いますか」
リーゼロッテが小声で耳打ちする。
「ガキ相手に、賭け事のイロハを教えるのはどうかと思うが……」
「ですが、放っておけば、この子の家族が路頭に迷うことになるかもしれません」
その懸念は、アキトも同感だった。カウンターの向こうで、トビアスが不安げにこちらを見つめている。その視線に、アキトは苦笑しながら頭を掻いた。
「賭け事なんて、そう簡単に上達するもんじゃねえ。一朝一夕で、あの手の悪徳貴族に勝てるほど、甘いもんでもねえしな」
「では、どうするおつもりですか」
しばし考えた後、彼は静かに口を開いた。
「なあ、トビアス。お前に賭け事を教えるのは、正直、賛成できねえ」
その言葉に、トビアスの表情が、目に見えて曇った。
「で、でも……!」
「最後まで聞け。……お前に賭け事を教える代わりに、俺が直接、その相手と勝負してやる」
「え……?」
トビアスは、目を見開いて固まった。あまりに予想外の申し出に、しばらく言葉を発することもできない様子だった。
「本当に、いいんですか。僕の家族の問題なのに……」
「別に、お前のためだけじゃねえよ。金と権力を笠に着て、弱い者から搾り取ろうとする奴を見ると、無性に腹が立つんだよ、俺は」
アキトはそう言いながら、ニヤリと笑った。
「それに、正直、退屈してたところだったんでな。ちょうどいい暇つぶしだ」
その飄々とした態度に、トビアスは戸惑いながらも、確かな希望の光を、その目に宿し始めていた。
「ありがとう、ございます……!」
「礼はまだ早い。勝ってから言え」
翌日、アキトはトビアスと共に、隣街の貴族の屋敷へと向かった。豪奢な門構えの屋敷は、周囲の質素な農村の風景とは、あまりにも対照的だった。屋敷の主は、モーガンという名の、恰幅の良い中年貴族だった。
「ほう、あの少年の代わりに、お前が来たというわけか」
「ああ。文句あるか?」
「いや、構わんとも。……もっとも、この勝負に勝ったところで、大した儲けにはならんだろうがな」
モーガンは嘲笑うように、そう言い放った。その傲慢な態度には、これまで数多の農民たちを食い物にしてきた者特有の、傲りが色濃く滲んでいた。
「まあいい。とりあえず、勝負といこうや」
アキトは飄々とした態度で、屋敷の応接間へと足を踏み入れた。トビアスは緊張した面持ちで、その後ろに続いた。
勝負は、シンプルなサイコロの目当てゲームだった。だが、アキトはすぐに、卓の隅に仕込まれた、僅かな細工に気づいていた。
(イカサマ用のサイコロか。……随分と、姑息な真似をしてくれる)
アキトは表情を変えずに、静かにその仕掛けを見極めていった。長年培ってきた観察眼が、この程度の細工を見逃すはずもなかった。サイコロの重心が僅かに片側に寄っており、特定の目が出やすいよう、巧妙に細工されている。素人目にはまず気づけないだろうが、数え切れないほどのイカサマを見てきたアキトにとっては、造作もないことだった。
(見え見えの仕掛けだな。……なら、こっちも遠慮なく、いつもの手筋で切り抜けさせてもらうぜ)
アキトは指先の器用さを活かし、モーガンが目を離した隙に、卓上のイカサマサイコロを、密かに懐に忍ばせていた正規のサイコロへとすり替えていた。長年培ってきた手品師顔負けの手先の技術が、こうした場面でも遺憾なく発揮されていた。
「さて、始めるとしようか」
モーガンの余裕に満ちた声に、アキトは不敵な笑みで応じた。
「望むところだ」
傍らでは、トビアスが緊張した面持ちで、この勝負の行方を見守っていた。彼にとって、家族の未来がかかった、まさに命懸けの一戦だった。
勝負は、意外な展開を見せた。イカサマのサイコロを使っているはずのモーガンが、なぜか次々と負けを重ねていったのだ。
「な、なぜだ……! このサイコロは、絶対に負けないはずが……!」
モーガンの額に、次第に脂汗が滲み始める。
「ほう、絶対に負けないサイコロ、ねえ。……随分と便利な代物を使ってるみてえだな」
アキトの指摘に、モーガンの顔色が変わった。
「な、何のことか……」
「とぼけんなよ。このサイコロ、重心が僅かにずらしてあるだろ。分かる奴には分かる仕掛けだ」
アキトはそう言うと、モーガンが使っていたサイコロを手に取り、慣れた手つきでその仕掛けを暴いて見せた。周囲で見守っていた使用人たちからも、動揺の声が漏れる。実際にサイコロを分解してみせると、内部に仕込まれた、僅かな重りが露わになった。
「証拠は十分だな。……お前がそのイカサマサイコロで勝ってきた金、全部返してもらおうか。トビアスの父親から巻き上げた金も、含めてな」
その毅然とした要求に、モーガンは顔面蒼白になりながら、後退りした。
モーガンはしばらく往生際悪く抵抗を続けたが、証拠を突きつけられては、もはや言い逃れのしようもなかった。屋敷の使用人たちも、次第に主人への信頼を失っていく様子が、その表情から窺えた。
「こ、これは何かの間違いだ……! 私は、ただ正当な勝負を……!」
「正当な勝負に、仕込みのサイコロを使うのか? 随分と便利な言葉の使い方だな」
アキトの冷ややかな指摘に、モーガンは言葉を失った。
最終的には、トビアスの父親から巻き上げた金、そしてこれまでの不正な利益の全てを、正式に返還することとなった。屋敷の執事が、震える手で金貨の詰まった袋を差し出す。
「た、確かに、これで全てです……」
「よし。……それと、二度とこんな阿漕な真似はするなよ。次に噂を聞いたら、今度は容赦しねえからな」
アキトの一言に、モーガンは青ざめた顔で、何度も頷くしかなかった。
「ありがとう、ございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
トビアスは、涙ながらに何度も頭を下げた。その目には、安堵と感謝の涙が、止めどなく溢れていた。
「礼はいらねえよ。それより、お前は賭け事なんかに頼らず、真っ当に生きろ。お前の父ちゃんの畑、しっかり守ってやれよ」
「はい……! 必ず……!」
その誓いの言葉に、アキトは満足げに頷いた。
街への帰り道、アキトはトビアスと並んで歩きながら、静かに語りかけた。夕日に照らされた街道を、二人はゆっくりとした足取りで進んでいく。
「なあ、トビアス。賭け事ってのは、確かに一発逆転の魅力がある。だが、それに頼りすぎると、いずれ足元を掬われる。……地道な努力の方が、結局は一番の近道なんだよ」
「はい、肝に銘じます」
トビアスの真剣な返事に、アキトは満足げに笑った。
「お前の父ちゃんにも、しっかり伝えとけよ。もう二度と、ああいう阿漕な連中の口車に乗るなってな」
「はい。父さんにも、しっかり言い聞かせます」
「それと、これからも困ったことがあったら、いつでも店に来い。話くらいは聞いてやる」
その言葉に、トビアスは驚いたように顔を上げた。
「本当に、いいんですか」
「ああ。困ってる奴を放っておくほど、俺も薄情じゃねえからな」
トビアスは、涙を堪えるように唇を噛みしめながら、深く頭を下げた。
「アキトさん……。僕、いつか必ず、この恩をお返しします」
「そんな大層なことは考えなくていい。ただ、真っ当に、しっかり生きろ。それが一番の恩返しだ」
夕暮れの街道を、二人は肩を並べて歩いていった。
その夜、店に戻ったアキトを、仲間たちが温かく迎えた。
「お帰りなさい。首尾はどうでしたか」
「上々だ。トビアスの家族も、これで一安心だろう」
「あなたの、そういうお節介なところ、本当に嫌いではありません」
リーゼロッテの言葉に、アキトは苦笑しながら肩を竦めた。
「お節介で悪かったな」
ミミもまた、興味深そうに話に耳を傾けていた。
「ご主人様、また困ってる人を助けたのですね! さすがなのです!」
「大したことじゃねえよ。ただ、目の前で困ってる奴を、見過ごせなかっただけだ」
シルヴィアも、静かに頷きながら言葉を添えた。
「その姿勢こそが、あなたの美徳だと思います。金と権力を笠に着る者への怒り、そして弱き者への優しさ。……あなたは、口では軽薄なことばかり言いますが、根本にある信念は、誰よりも真っ直ぐですね」
「褒めすぎだろ、それ」
アキトは照れくさそうに頭を掻きながら、そう答えた。
窓の外には、穏やかな夜空が広がっていた。銅貨三枚から始まったこの旅は、また一つ、小さな優しさを積み重ねていくのだった。
数日後、トビアスが再び店を訪れた。今度は父親と一緒だった。畑仕事で日焼けした、実直そうな中年男性が、深々と頭を下げる。
「この度は、息子と私のために、本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げればよいか……」
「礼はいらねえよ。それより、もう二度と、あんな連中の口車に乗るんじゃねえぞ」
「はい、肝に銘じます。……これは、ささやかですが、うちの畑で採れた野菜です。どうか、受け取ってください」
差し出された籠には、瑞々しい野菜がたっぷりと詰まっていた。その心のこもった贈り物に、アキトは思わず相好を崩した。
「おお、こいつは助かる。ありがたく頂戴するぜ」
トビアスもまた、以前とは見違えるほど、晴れやかな表情を浮かべていた。
「アキトさん、僕、これからも畑仕事を手伝いながら、しっかり勉強もするつもりです。いつか、父さんの畑を、もっと立派にしてみせます」
「その意気だ。頑張れよ」
アキトはトビアスの頭を、優しく撫でてやった。
その日の夕食は、トビアスの父親が持ってきてくれた野菜をふんだんに使った、いつもより一層豪華なものとなった。四人は食卓を囲みながら、この日の出来事を、改めて振り返っていた。
「こうして、街の人々との繋がりが少しずつ増えていくのは、良いことですね」
リーゼロッテがしみじみと呟く。
「ああ、本当にな。……最初は銅貨三枚から始まった俺たちだが、今じゃこうして、色んな人に頼られるようになった。不思議なもんだよな」
「それだけ、あなたが積み重ねてきたものが、確かな信頼として実を結んでいるということでしょう」
シルヴィアの言葉に、アキトは照れくさそうに頭を掻いた。
「ミミも、みんなが幸せそうなの見ると、嬉しいのです!」
ミミの無邪気な言葉に、四人はそれぞれ、温かな笑みを浮かべた。
窓の外には、穏やかな夜空が広がっていた。銅貨三枚から始まったこの旅は、また一つ、小さな優しさを積み重ねていくのだった。
カウンターの奥に飾られた、あの三枚の銅貨が、ランプの明かりを受けて、静かに輝いている。この街に流れ着いてから積み重ねてきた、数え切れないほどの出会いと絆――それら全てが、この小さな銅貨に、確かな重みを加えているようだった。
「さて、明日からも、また頑張らねえとな」
アキトはそう言いながら、大きく伸びをした。仲間たちもまた、それぞれ頷きながら、明日への活力を静かに蓄えていくのだった。
トビアス親子の帰り際、母親と幼い妹も、街まで出向いて改めて礼を伝えに来た。家族全員の笑顔を目にして、アキトは静かな達成感を胸に噛み締めていた。
「本当に、良い一家ですね」
リーゼロッテがぽつりと呟く。
「ああ。ああいう真っ当な連中が、報われる世界であってほしいもんだよな」
アキトの言葉には、これまでの旅で見てきた、数々の理不尽への静かな怒りと、それに立ち向かってきた確かな矜持が滲んでいた。
こうして、少年トビアスとその家族を巡る一件は、確かな絆と共に、幕を閉じた。銅貨三枚亭が街の人々にとって、単なる娯楽の場ではなく、困った時に頼れる場所として、その存在感を静かに、しかし確実に強めていく一幕となった。
夜が更けていく中、四人はそれぞれの部屋へと戻っていった。明日もまた、新しい一日が、この小さな店から始まっていく。
穏やかな夜が、静かに更けていった。
街の灯りが、一つ、また一つと落ちていく。
銅貨三枚亭の看板が、月明かりの下で静かに輝いていた。
彼らの物語は、明日もまた続いていく。
星空の下、街は静かに眠りについた。
そして、また新しい一日が訪れる。
旅は、まだまだ続く。




