第40話 銅貨三枚亭、開店の日
「――というわけで、この空き倉庫を改装して、賭場にしようと思うんだが」
街長から紹介された物件を前に、アキトは腕を組みながら建物を見上げていた。街の外れに位置する、かつて穀物を保管していたという石造りの倉庫は、外観こそ武骨だが、内部は驚くほど広々としていた。埃を被った木箱や道具が所々に残されてはいたが、天井まで届く採光窓からは、柔らかな陽光が差し込んでいる。
「悪くありませんね。天井も高く、卓をいくつも並べるスペースも十分にあります」
リーゼロッテが早速、内部を見回りながら評価を下す。かつてフォルトゥーナの運営を一手に担っていた彼女の目には、既にこの空間の完成予想図が、鮮明に描かれているようだった。歩きながら、彼女は指折り数えるように、卓の配置や動線について考えを巡らせていた。
「改装費用はどうする?」
「幸い、街長からの謝礼金と、正当に取り戻した報奨金があります。決して潤沢とは言えませんが、最低限の内装を整えるには十分でしょう」
「さすがだな、リーゼ。金の計算は任せた」
「当然です。あなたに任せたら、あっという間に散財してしまいますからね」
その手厳しい指摘に、アキトは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「もっとも」とリーゼロッテは続けた。「贅を凝らす必要はありません。私たちが目指すのは、フォルトゥーナのような豪奢な社交場ではなく、街の人々が気軽に立ち寄れる、温かみのある場所です」
「そいつは同感だな。あんまり気取った場所は、俺の性に合わねえ」
そう言いながら、アキトは倉庫の奥の暗がりへと歩を進めた。埃を被った古い木箱の山を眺めながら、彼はふと足を止める。
「なあ、リーゼ。ここに、ちょっとした舞台を作れねえか」
「舞台、ですか」
「ああ。時々、余興代わりに一発大きな勝負を見せる催しをやりたいんだよ。フォルトゥーナでやってたみたいにな」
リーゼロッテはしばし考え込んだ後、小さく頷いた。
「良い案だと思います。娯楽性を高めれば、客足もさらに伸びるでしょう。……ただし、あまり派手にやりすぎて、また騒動を招かないよう、注意は必要ですが」
「分かってるって。今度はちゃんと、身の丈に合った勝負を心がけるさ」
その言葉に、リーゼロッテは半信半疑な様子で苦笑した。
改装作業は、街の職人たちの協力もあり、驚くほどの速さで進んでいった。バロウの紹介で集まった大工たちは、皆、あの黄金杯商会の被害者だった者たちで、この新しい賭場の開業に、並々ならぬ熱意を注いでくれていた。
「あんたたちには、本当に世話になったからな。この程度の恩返し、当然のことだ」
大工の一人が、額の汗を拭いながらそう言った。その言葉に、アキトは深く頭を下げた。
「ありがてえ話だ。恩に着るぜ」
木材を運ぶ者、壁を塗り直す者、卓や椅子を組み立てる者――それぞれが持ち場で黙々と手を動かしながらも、その表情には、単なる仕事以上の、確かな誇りと喜びが滲んでいた。かつて商会に苦しめられた彼らにとって、この賭場の完成は、自分たちの手で新しい未来を切り開く、象徴的な作業でもあったのだろう。
こうして、街の人々の善意に支えられながら、『銅貨三枚亭』は着実にその姿を整えていった。
リーゼロッテは連日、内装の細部にまで気を配り、卓の配置から照明の明るさに至るまで、丁寧に指示を出していった。彼女の几帳面さは、アキトも舌を巻くほどだった。
「そこまで細かく気にする必要があるのか?」
「もちろんです。客の快適さは、店の評判に直結します。細部にまで手を抜けば、それはいずれ、必ず経営に響いてきます」
その真剣な眼差しに、アキトはただ感心するしかなかった。
開業を三日後に控えたある日、シルヴィアは警備体制の最終確認を行っていた。
「出入り口は二箇所。緊急時の避難経路も確保しました。もっとも、平和な賭場を目指す以上、大きな騒動は起きてほしくないものですが」
「まあ、俺たちがいる限り、多少の騒動は避けられねえだろうな」
「それは、否定できませんね」
シルヴィアは苦笑しながら、賭場内をぐるりと見回した。壁には、街の職人たちの手による、素朴だが温かみのある装飾が施されている。派手さはないものの、どこか居心地の良さを感じさせる空間だった。
「私も、こうして武器を持たずに人と接する仕事は初めてです。少々、緊張しますね」
「大丈夫だ。お前はただ、その辺に立ってるだけで十分様になってる。それに、もし本当に厄介な客が来たら、遠慮なくその聖剣の出番だ」
「そう言われると、少し安心します」
シルヴィアは小さく微笑んだ。かつての堅物な聖騎士団長としての彼女からは想像もつかないほど、その表情は柔らかく、この新しい生活に確かな馴染みを見せ始めていた。
ミミもまた、看板娘としての準備に余念がなかった。女将の伝手で仕立ててもらった、フリフリの給仕服に身を包み、鏡の前で何度も自分の姿を確認している。
「ご主人様、これ、似合いますか?」
「ああ、よく似合ってる。お客さんも、きっとお前目当てで来るようになるぜ」
「えへへ、嬉しいのです!」
ミミは満面の笑みを浮かべながら、その場でくるりと一回転してみせた。給仕服の裾がふわりと広がり、その様子に、その場にいた大工たちからも、微笑ましそうな声が漏れた。
「ミミ、接客の練習もしておくか。お客さんが来たら、どう挨拶するつもりだ」
「はいなのです! ……えっと、『いらっしゃいませ、銅貨三枚亭へようこそ! ミミが精一杯おもてなしするのです!』……こんな感じでどうでしょうか?」
「完璧だ」
アキトはミミの頭を優しく撫でながら、満足げに頷いた。
そして迎えた開業当日。『銅貨三枚亭』の入り口には、既に多くの街の人々が列を作っていた。
「本当に来てくれるもんなんだな」
アキトが窓の隙間から外の様子を窺いながら呟くと、リーゼロッテが小さく笑った。
「当然です。あなたたちは、既にこの街の英雄として名を馳せています。それに、公正な運営を謳う賭場という触れ込みは、この街の人々にとって、大きな魅力に映っているはずです」
「そういうもんかね」
「ええ、そういうものです」
開店の時刻が近づくにつれ、アキトの胸にも、これまでにない種類の緊張感が込み上げてきていた。イカサマ勝負や命懸けの博打とは、また違う種類の緊張――自分たちの手で築き上げた場所を、初めて世に送り出す瞬間の高揚感だった。
窓の外に並ぶ客たちの中には、見覚えのある顔もちらほらと見えた。バロウとその妹、以前世話になったガロ、そして黒猫亭の常連客たち。皆、それぞれの生活の中で出会った人々が、この開業の日を心待ちにしてくれていたのだ。
「よし、時間だ。開けるぞ」
アキトの合図と共に、リーゼロッテが重厚な扉を、ゆっくりと開け放った。
「いらっしゃいませ! 『銅貨三枚亭』へ、ようこそ!」
ミミの元気な声が響き渡ると、待ちわびていた客たちが、次々と店内へとなだれ込んでくる。会場は瞬く間に、活気ある喧騒に包まれていった。
その日の営業は、予想以上の盛況ぶりを見せた。公正な勝負を売りにした卓には、多くの客が集まり、リーゼロッテの卓越したディーラー技術が、随所でその実力を発揮していた。
「見事なもんだな、お前の腕前は」
アキトが休憩の合間に声をかけると、リーゼロッテは僅かに息を弾ませながら微笑んだ。
「久しぶりの本格的な仕事です。腕が鳴ります」
彼女の華麗な手さばきに、卓を囲む客たちからも、感嘆の声が漏れていた。単なるカードの配布だけでなく、客との軽妙な会話や、場の空気を和ませる巧みな話術は、まさに熟練のディーラーの技だった。
アキト自身もまた、いくつかの卓に顔を出しては、持ち前のブラフと軽妙な話術で、客たちを大いに沸かせていた。もっとも、あくまで店側としての立場をわきまえ、あからさまなイカサマは慎んでいる。
「兄さん、随分と喋りが上手いじゃないか」
「そりゃそうだ。これでも前世じゃ、腐るほど場数を踏んできたからな」
軽口を叩きながらも、アキトの目は、常に卓上の流れを的確に読み取っていた。客が楽しめるよう、時に自ら負けを演出しながらも、決して店の利益を損なわない、絶妙な采配を見せていた。
夜が更ける頃、店内には、この街での新しい生活への確かな手応えが満ちていた。
「今日だけで、想定以上の売上だ。この調子なら、当分の生活には困らねえな」
アキトが帳簿を確認しながら呟くと、シルヴィアが小さく頷いた。
「順調な滑り出しですね」
「ミミも、たくさんお客さんとお話ししたのです! みんな、優しかったのです!」
ミミの弾んだ声に、四人は互いに顔を見合わせ、それぞれ満足げな笑みを浮かべた。
閉店後、後片付けを終えた四人は、静かな店内で、束の間の休息を取っていた。片付けが終わったばかりの卓には、まだ僅かにチップの匂いが残っている。
「これで、ようやく新しい生活の第一歩を踏み出せたわけだな」
「ええ。長い道のりでしたが」
リーゼロッテが感慨深げに呟くと、アキトは懐から、あの銅貨三枚を取り出した。今では単なる貨幣以上の、彼らの旅路そのものを象徴する、大切な品となっていた。指先でその感触を確かめながら、アキトはこれまでの日々を静かに思い返していた。
「この銅貨、店の一番目立つ場所に飾っておこうと思うんだが、どうだ?」
「良い考えですね。私たちの原点を、忘れないためにも」
その提案に、シルヴィアもミミも、揃って賛同の意を示した。
「賛成です。この銅貨には、私たちの絆の始まりが刻まれていますから」
「ミミも賛成なのです! きらきら光る銅貨、見てるとほっとするのです」
四人は早速、カウンターの奥、店の誰もが目にする場所に、小さな飾り棚を設けることにした。そこに、あの三枚の銅貨を、大切に並べていく。
「これで、いつ見てもあの日のことを思い出せるな」
「ええ。……初心を忘れないためにも、大切な儀式です」
リーゼロッテはそう言いながら、静かに微笑んだ。
その時、店の扉が控えめにノックされた。こんな時間に誰だろうと、四人は顔を見合わせる。
「こんな時間に、誰でしょうか」
リーゼロッテが訝しげに扉へと向かう。シルヴィアも念のため、剣の柄にそっと手を添えた。
扉を開けると、そこに立っていたのは、旅装束に身を包んだ、見知らぬ男だった。長旅の疲労を感じさせる、埃まみれの外套を纏っている。
「夜分に失礼する。……こちらに、アキト殿という方はいらっしゃるだろうか」
「俺だが、何の用だ」
アキトが前に進み出ると、男は懐から、一通の手紙を取り出した。封蝋には、見覚えのある紋章が刻まれている。
「隣国からの言伝を、預かってまいりました」
その言葉に、アキトたちの表情が、一様に緊張の色を帯びた。隣国――かつて全財産を失い、逃げ出してきた、あの国からの言伝だった。
「……随分と、遠くまで追ってきたもんだな」
アキトは手紙を受け取りながら、乾いた笑いを漏らした。封蝋に刻まれた紋章を見て、リーゼロッテの顔にも、僅かな緊張が走る。
「開けてみないことには、何とも言えませんね」
「そうだな……」
アキトは静かに封を切ると、中の便箋を取り出した。ランプの明かりの下、四人はその文面に、じっと目を凝らした。
果たしてそこに記されていたのは、かつての逃避行の続きを予感させる、思いもよらない内容だった。
しばしの沈黙の後、アキトが小さく口笛を吹いた。
「……こいつは、また面白いことになってきたな」
「アキト、何と書かれているのですか」
リーゼロッテが身を乗り出して尋ねると、アキトは便箋を卓の上に置き、皆に見えるようにした。
「指名手配は正式に解除された、ってさ。……どうやら、あの国の役人連中の間で、俺たちの評判が思いのほか広まってたらしい。逃げた後の顛末まで、しっかり噂になってたみてえだ」
「まあ……。それは、良い知らせなのでしょうか」
「良い知らせだろうよ。少なくとも、これで大手を振ってあの国にも戻れるってわけだ」
シルヴィアが興味深そうに手紙を覗き込んだ。
「戻るおつもりですか」
「いや、今はまだいいさ。せっかくここで新しい店を始めたばかりだ。……だが、いつかまた、あの街に顔を出す機会もあるかもしれねえな」
アキトはそう言いながら、懐の銅貨三枚を、指先で軽く弾いた。旅の終わりなど、まだ見えない。むしろ、これからも続いていくであろう新たな物語の予感に、彼の胸は静かな高揚感で満たされていた。
窓の外には、穏やかな夜空が広がっている。この小さな街で始まった新しい生活は、これからも、様々な出会いと出来事を紡ぎながら、続いていくのだろう。四人は互いに顔を見合わせ、それぞれ確かな笑みを浮かべた。
ミミが大きな欠伸をしながら、アキトの袖を引っ張った。
「ご主人様、今日は疲れたのです。もう眠いのです……」
「はは、そうだな。今日はもう休むとするか。明日からも、店の仕事が待ってる」
四人は連れ立って、二階の住居スペースへと向かった。開業初日の喧騒と興奮の余韻を残しながら、『銅貨三枚亭』の灯りが、静かに消えていく。
新しい街での新しい生活、そしてこれから訪れるであろう新たな出会いと冒険。クズで軽薄な博徒アキトと、彼を支える仲間たちの物語は、この小さな賭場を舞台に、これからも静かに、しかし確かに紡がれ続けていくのだった。
銅貨三枚から始まった旅は、こうしてまた一つ、新しい節目を迎えていた。
夜が更けていく中、店内の灯りが一つ、また一つと落とされていった。長い一日の終わりに、四人はそれぞれの部屋へと戻り、静かな眠りについた。
明日もまた、新しい一日が始まる。四人の旅路は、まだ、これからも続いていく。
開業初日という記念すべき一日は、こうして静かに幕を閉じた。だが、この物語はまだ、終わりには程遠い。
彼らの物語は、まだこれからも続いていく。
街の灯りが、静かに夜を照らしていた。
銅貨三枚亭の看板が、月明かりの下で静かに輝いていた。
穏やかな夜だった。




