第39話 新しい朝、新しい賭け
黒猫亭に戻った四人は、泥のように眠りについた。長い一夜の戦いの疲労は、決して浅いものではなかった。ベッドに横たわった瞬間、意識はあっという間に深い眠りの底へと沈んでいった。
目を覚ましたのは、既に日が高く昇った昼過ぎのことだった。
「……随分と、寝過ごしましたね」
リーゼロッテが欠伸を噛み殺しながら、宿の一階へと降りてくる。既に食堂には、シルヴィアとミミの姿があった。二人もまた、つい先ほど目を覚ましたばかりのようで、まだどこか眠たげな表情を浮かべている。
「おはようございます、リーゼロッテ殿。……もう昼ですが」
「面目ありません」
三人が顔を揃えると、女将が満面の笑みで駆け寄ってきた。
シルヴィアは剣を丁寧に手入れしながら、静かに呟いた。
「昨夜の疲れが、まだ抜けきりませんね。……ですが、心地よい疲労感です」
「シルヴィアお姉ちゃん、格好良かったのです! 剣がキラキラ光ってたのです!」
ミミが目を輝かせながら、興奮気味にシルヴィアの活躍を語る。
「お前が褒めてくれると、悪い気はしませんね」
シルヴィアは僅かに頬を緩めながら、そう応じた。かつての堅物な聖騎士団長としての彼女からは想像もつかないほど、その表情は柔らかく、自然なものになっていた。
「おや、ようやくお目覚めかい。昨夜の話、もう街中に広まってるよ。あんたたち、とんでもないことをやってのけたそうじゃないか」
「もう広まってるのか、随分と早いな」
アキトが苦笑しながら応じると、女将は興奮気味に続けた。
「そりゃそうさ! 黄金杯商会が正式に取り潰しになって、あの憎たらしいゴードンって男も、しっかり牢屋に入ったって話だからね。街のみんな、喜びに沸き返ってるよ! あんたたちのこと、もうこの街の恩人だって、そこら中で噂になってるんだから」
女将は嬉しそうにそう言いながら、朝食代わりの遅い昼食を、次々とテーブルに並べていった。焼きたてのパンと、具だくさんのシチュー、そして果物の盛り合わせ――昨日までの逃避行を思えば、贅沢すぎるほどの食事だった。
昼食を摂りながら、四人はこれからのことについて、改めて話し合った。
「さて、と。……これからどうするか、だな」
アキトが懐から取り出した銅貨を、卓の上に並べた。ガロとの勝負で得た元手に、昨夜の一件で商会から正当に受け取った僅かな報奨金が加わり、以前よりは幾分か懐が温かくなっていた。とはいえ、フォルトゥーナ時代の財産には、到底及ばない額だった。
「まずは、当面の生活基盤を整えることが先決でしょうね」
リーゼロッテが冷静に分析する。
「幸い、この街での評判は、随分と好転しました。あなたの名前も、既に街中で知られ始めています」
「悪名じゃなくて、良い意味での評判だといいけどな」
「もちろん、良い意味です。……ある意味では、皮肉な話ですが」
リーゼロッテはくすりと笑った。かつて指名手配された身から一転、今度は街の英雄として名を馳せることになるとは、彼女自身、想像もしていなかった。
「思えば、随分と目まぐるしい数日でしたね。夜逃げから始まって、国境を越え、賭場で大勝ちし、そして商会との対決……」
「振り返ってみりゃ、確かに濃い数日だったな」
アキトも同意しながら、シチューを口に運んだ。窓の外では、街の人々が普段通りの生活を営んでいる様子が窺える。昨夜の激しい騒動が嘘のように、街には平穏な日常が戻り始めていた。
その時、食堂の扉が開き、バロウとその妹が姿を現した。
「アキト殿! こちらにいらっしゃったのですね」
バロウは息を切らしながら、アキトたちの卓へと駆け寄ってきた。その傍らには、すっかり元気を取り戻した様子の妹の姿もある。
「おう、バロウか。妹さんも、もう大丈夫そうだな」
「はい、おかげさまで。……改めて、心よりお礼申し上げます。あなた方がいなければ、私たちは今頃、どうなっていたことか」
バロウは深々と頭を下げた。妹もまた、涙ぐみながら同じように頭を下げる。
「礼はもう十分聞いたよ。それより、これからどうするつもりだ」
「実は、私、この街で小さな商店を営んでおりまして。……もしよろしければ、何かお力になれることがあれば、いつでもお声がけください」
「そいつは頼もしいな。実は今度、この街で賭場を開くことになったんだ。何か必要な物資があったら、真っ先にあんたのところに相談させてもらうぜ」
「ぜひ、そうしてください!」
バロウは嬉しそうに何度も頷いた。こうして、思わぬところで新たな縁が結ばれていく様子に、アキトは静かな満足感を覚えていた。
その日の午後、街の代表者たちが黒猫亭を訪れた。街長を名乗る初老の男性が、深々と頭を下げる。その後ろには、数名の役人らしき人物も控えていた。
「此度の件、貴殿らの働きに、心より感謝申し上げる。街としても、何らかの形でお礼をさせていただきたいのだが」
「礼、ねえ」
アキトは腕を組みながら考え込んだ。
「そうだな……。それなら、この街で商売を始めるための、多少の便宜を図ってもらえると助かるんだが」
「商売、ですか」
「ああ。カジノとまではいかねえが、小さな賭場でも開ければ、この街の経済にも多少は貢献できるだろ」
その提案に、街長は少し驚いた様子を見せたが、やがて笑顔で頷いた。
「なるほど、それは面白い。……黄金杯商会が消えた今、この街には、公正な娯楽施設が必要とされているのも事実。ぜひ、前向きに検討させていただこう」
街長はそう言うと、隣の役人と何やら短く言葉を交わし、満足げに頷いた。街の再建にとっても、この提案は決して悪い話ではないと判断したようだった。
「話が早くて助かるぜ」
街長は隣に控えていた役人に何やら耳打ちすると、役人は素早く帳面に何かを書き記していった。
「土地の手配や、営業許可の申請については、こちらで優先的に取り計らわせていただこう。何しろ、貴殿らはこの街にとって、まさに恩人なのだからな」
「そいつはありがたい話だ」
アキトはニヤリと笑いながら、握手を求めるように手を差し出した。街長はその手を、力強く握り返した。
街長たちが帰った後、リーゼロッテが興味深そうにアキトを見つめた。
「賭場を開くおつもりですか」
「ああ。フォルトゥーナみたいな規模は無理でも、俺たちのやり方――正々堂々の勝負を楽しめる場所くらいは、作れるだろ」
「それは、あなたらしい選択ですね」
「褒め言葉として受け取っておくぜ」
リーゼロッテは早速、頭の中で経営計画を組み立て始めているようだった。かつてフォルトゥーナで培った経験が、こうして再び活かせる機会が訪れたことに、彼女自身、密かな喜びを感じているようだった。
「規模は小さくとも、公正で誠実な運営を心がければ、必ずこの街の人々にも受け入れられるはずです。黄金杯商会のような阿漕な商売とは、対極にある賭場を目指しましょう」
「そうだな。イカサマは俺の専売特許だが、客を騙すためのイカサマじゃなく、あくまで勝負を盛り上げるためのイカサマに限定するとしようや」
その微妙な線引きに、リーゼロッテは思わず苦笑した。
シルヴィアも興味深そうに会話に加わった。
「私も、微力ながら協力させていただきます。警備の面では、多少の心得がありますので」
「頼りにしてるぜ、シルヴィア」
「ミミも手伝うのです! お客さんを笑顔でお出迎えするのが得意なのです!」
ミミが元気よく手を挙げると、アキトはその頭を優しく撫でた。
「よろしく頼むぜ、ミミ」
それぞれの提案に、アキトは満足げに頷いた。
「よし、それじゃあ、また一からのスタートだ。……もっとも、今度は仲間全員揃っての再出発ってわけだな」
夕暮れ時、アキトは一人、宿の裏庭で夜空を見上げていた。国境を越えたこの見知らぬ街で、まさかこれほど早く、新たな居場所を見つけることになるとは、彼自身、思いもしなかった。橙色に染まる空を眺めながら、彼はこれまでの旅路を静かに思い返していた。
(フォルトゥーナでリーゼと出会って、ミミを拾って、シルヴィアに絡まれて……。バルザスとの死闘があって、天馬杯で全部失って、夜逃げして……。本当に、色々あったよな)
目まぐるしいまでの日々の連続が、アキトの脳裏に鮮明に蘇る。だが、そのどれもが、決して後悔するものではなかった。むしろ、その全てが、今この瞬間の自分を形作る、かけがえのない財産だった。
「アキト、こんなところにいたのですか」
リーゼロッテが静かに近づいてくる。
「ちょっと、これまでのことを振り返ってた」
「天馬杯での大失態から、随分と遠くまで来たものですね」
「ああ、本当にな。……全財産失って、追われる身になって、それでもこうしてまた、新しい一歩を踏み出せてる」
アキトは懐の銅貨を軽く弾きながら、静かに笑った。
「なあ、リーゼ。俺たちのギャンブルライフ、これからも続いていくんだろうな」
「ええ、きっと。……あなたが博打を打つ限り、私はその隣にいます」
リーゼロッテはそう言うと、静かにアキトの隣に腰を下ろした。
「思えば、あなたと出会ってから、私の人生は予想もしなかった方向へと転がり続けています。エルフとして生きてきた百二十年の中でも、これほど濃密な日々は、他にありませんでした」
「悪い意味でか、それとも良い意味でか」
「もちろん、良い意味でです。……もっとも、時々、寿命が縮む思いをすることもありますが」
リーゼロッテはくすりと笑いながら、そう付け加えた。夜風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
「これから開く賭場のことなんだが、名前はもう決めてるのか」
「まだです。何か案はありますか」
「そうだな……。『銅貨三枚亭』ってのはどうだ」
「随分と、安っぽい名前ですね」
「安っぽくねえよ。俺たちの原点を表す、大事な名前だ」
その言葉に、リーゼロッテは僅かに目を細めた後、小さく頷いた。
「悪くない案ですね。……ええ、それでいきましょう」
二人はしばし、言葉を交わすことなく、静かな夜の時間を共有していた。やがてリーゼロッテが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、シルヴィアとミミにも、この名前の話をしておかなければなりませんね」
「ああ、そうだな。……あの二人も、きっと気に入ってくれるはずだ」
アキトは立ち上がると、リーゼロッテに手を差し伸べた。
「さて、そろそろ戻るか。明日から、賭場開業に向けての準備が本格的に始まる。忙しくなるぞ」
「ええ、覚悟しております」
リーゼロッテはその手を取り、静かに立ち上がった。二人は連れ立って、宿の中へと戻っていく。
食堂に戻ると、シルヴィアとミミが、賭場の内装について、あれこれと話し合っているところだった。
「アキト殿、リーゼロッテ殿、お帰りなさい。ちょうど、賭場の警備配置について考えていたところです」
「ミミは、看板娘の衣装を考えてたのです! フリフリで可愛いのがいいのです!」
その様子に、アキトは思わず笑みをこぼした。
「随分と乗り気だな、二人とも」
「当然です。この街での新しい生活、私も楽しみにしておりますので」
シルヴィアの言葉に、ミミも大きく頷いた。
「ミミも、みんなと一緒にいられるなら、どこでも楽しいのです!」
その無邪気な言葉に、四人は互いに顔を見合わせ、それぞれ小さく笑い合った。全財産を失い、追われる身となったあの夜逃げの日から、まだそれほど時間は経っていない。だが、こうして仲間たちと共に、新しい街で新しい生活を築き上げていく道筋が、確かに見え始めていた。
窓の外には、既に星々が瞬き始めていた。長い一日の終わりを告げるように、街全体が、静かな夜の帳に包まれていく。
「明日から、また忙しくなりそうですね」
「ああ。だが、悪くねえ忙しさだ」
アキトはそう言いながら、懐の銅貨を軽く弾いた。かつて全てを失った日から、幾度となく繰り返してきたその仕草は、今や彼にとって、再出発の象徴のようなものになっていた。
「さあ、明日からまた、新しい賭けの始まりだ」
その言葉に、三人の仲間たちは、それぞれの表情で頷いた。クズで軽薄な博徒と、彼を支える仲間たちの物語は、この小さな街で、新たな一章を刻み始めようとしていた。
その力強いやり取りに、アキトは満足げに頷いた。夜空には、変わらぬ星々が静かに瞬いている。全てを失った旅の果てに見つけた、この新しい街での再出発。それは、決して終わりなどではなく、新たな物語の始まりに過ぎなかった。
クズで軽薄な博徒と、彼を支える仲間たちの、まだ見ぬ賭けの日々が、この街から、静かに、しかし確かに動き出そうとしていた。
女将もまた、この一連の出来事を、まるで我が事のように喜んでいた。
「あんたたちがこの店に来た時から、ただ者じゃないと思ってたんだよ! これからこの街で商売を始めるってんなら、あたしもできる限り力になるからね」
「そいつは心強いな、女将さん」
アキトはそう言って、女将に軽く頭を下げた。この見知らぬ街で出会った人々との、温かい繋がりの数々が、これからの新生活を、より確かなものにしてくれるはずだった。
こうして、黄金杯商会との激動の一件を乗り越えたアキトたちは、この見知らぬ街に、確かな新しい居場所を見出しつつあった。三日前の夜逃げから始まったこの旅路は、決して平坦なものではなかったが、その先に待っていたのは、絶望ではなく、確かな希望の光だった。
『銅貨三枚亭』という名の新しい賭場が、この街にどのような彩りをもたらすのか。それはまだ、誰にも分からない未来だった。だが少なくとも、そこに集う四人の顔には、確かな希望と、これからの日々への期待が満ちていた。
クズで軽薄な博徒アキトと、彼を支える三人の仲間たち。異世界に転生してから始まったこの型破りな旅は、これからも、思いもよらない方向へと転がり続けていくのだろう。だが、その先にどんな困難が待ち受けていようとも、彼らは決して笑うことをやめないはずだった。
新しい朝が、静かに、確かに訪れようとしていた。
それぞれの想いを胸に、四人は静かに、新たな一日を迎えた。




