第35話 運命の宴、開幕
三日後の夜。
黄金杯商会の賭場は、いつもとは明らかに違う装いを見せていた。入り口には赤い絨毯が敷かれ、正装に身を包んだ招待客たちが、次々と建物の中へと吸い込まれていく。篝火が焚かれた玄関先には、屈強な護衛たちが物々しく立ち並び、招待状を持たない者を一切通さないという、厳重な警備体制が敷かれていた。
「随分と、大層な催しになったもんだな」
アキトは懐から取り出した招待状を確認しながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。今日の彼は、女将から借り受けた小綺麗な上着に袖を通している。とはいえ、いつもの着崩し気味の着こなしは変わらず、正装というより「正装らしきもの」という表現の方がしっくりくる有様だった。
「アキト、せめてもう少しきちんとボタンを留めてください。招待客として恥ずかしくない格好をしてくださいと、あれほど申し上げたはずです」
リーゼロッテが呆れたように、アキトの襟元を軽く整える。彼女自身は、女将から借りた深緑のドレスに身を包み、いつもの凛とした美しさを一層引き立てていた。宿を出る前、女将は「これでもうちに眠ってた一張羅さ」と、随分と気前よくドレスを貸してくれたのだった。その裾を軽く整えながら、リーゼロッテは鏡の前で何度も自分の姿を確認していた。
「動きにくいんだよ、きっちり着込むのは」
「今日ばかりは我慢してください。相手に隙を見せないためにも、まずは見た目から気を抜かないことです」
「はいはい、分かったよ」
そう言いながらも、アキトはリーゼロッテの手つきに大人しく身を委ねていた。かつては、こうして誰かに世話を焼かれることなど、想像もしなかった前世の日々を思うと、この状況にどこか面映ゆい気持ちを覚えずにはいられなかった。
シルヴィアとミミは、今回は表立って会場には入らず、外で待機する手筈になっていた。万が一の事態に備え、いつでも動けるようにという配慮からだった。会場の裏手、人目につかない路地に身を潜めながら、二人は建物の様子を静かに窺っていた。
「アキト殿、リーゼロッテ殿。くれぐれもお気をつけて」
「私も、鼻を利かせて、危ない気配がないか見張ってるのです!」
「ああ、頼んだぞ、二人とも」
アキトは軽く手を上げると、リーゼロッテと共に、赤い絨毯の敷かれた入り口へと足を踏み入れた。その後ろ姿を見送りながら、シルヴィアは剣の柄に静かに手を添えた。
「ミミ、何か異変があれば、すぐに教えてください」
「はいなのです! ミミ、耳も鼻も、フル回転させておくのです!」
二人は建物の壁に沿って移動しながら、それぞれの持ち場で、静かにその時を待ち構えていた。
会場の中は、これまで見てきたどの賭場よりも豪華絢爛な様相を呈していた。天井からは巨大なシャンデリアが吊るされ、その光を反射する大理石の床には、招待客たちの正装の裾が優雅に揺れている。ワイングラスを片手に談笑する貴族や、腕に自信のある様子の商人風の男たち――どの顔にも、この夜への高揚と緊張が入り混じった表情が浮かんでいた。
壁際には、楽団による静かな演奏が響き、会場全体を上品な雰囲気で包み込んでいる。だが、その洗練された空気の裏側には、誰もが薄々感じ取っているであろう、剣呑な気配が確かに漂っていた。招待客たちの笑顔の奥に、時折覗く緊張の色。それは、単なる社交の場ではない、この催しの本質を物語っているようだった。
「まるで、上品な仮面を被った戦場ですね」
リーゼロッテが小声で呟いた言葉に、アキトも静かに頷いた。
「まさにその通りだな。……だが、戦場ってのは、俺の得意分野だ」
「ようこそ、アキト殿。よくぞお越しくださった」
会場の奥から、恰幅の良い姿が近づいてくる。商会幹部のゴードンだった。今夜は一段と豪奢な衣装に身を包み、その手には金の指輪がいくつも輝いている。
「招待、ありがたく受けさせてもらったぜ」
「それは重畳。……おや、そちらの美しいご婦人は?」
「俺の相棒だ。リーゼロッテという」
ゴードンの視線が、値踏みするようにリーゼロッテへと向けられる。彼女は毅然とした態度で、その視線を真っ向から受け止めた。
「初めまして。今宵は、素晴らしい催しを楽しみにしております」
「これはこれは、優雅なご挨拶、痛み入る。……元は、どこかのカジノでディーラーでもされていたのかな? その立ち居振る舞い、只者ではないとお見受けするが」
「さあ、どうでしょうか」
リーゼロッテは笑みを浮かべながらも、それ以上の詮索を巧みにはぐらかした。ゴードンはしばし興味深そうに彼女を見つめた後、小さく肩を竦めて話題を変えた。
ゴードンは大袈裟に一礼した後、周囲を手で示した。
「本日の催しについて、簡単にご説明させていただこう。今夜集まった招待客の中から、腕に覚えのある十数名を選抜し、トーナメント形式で最終的な一人を決める。競技は――」
ゴードンは意味深に笑いながら、続けた。
「ポーカーだ。ただし、通常の賭けとは少々趣向が異なる。今宵は、参加者それぞれが持ち寄った"価値あるもの"を賭け金とする、特別な勝負となる」
その説明に、会場のあちこちからどよめきの声が漏れた。招待客たちの多くは、既にこの催しの本質を把握しているらしく、緊張と興奮の入り混じった表情で、互いに視線を交わし合っている。優勝者には、この夜集まった全ての"価値あるもの"が渡されるという仕組みらしいことも、周囲の会話の断片から伝わってきた。
「価値あるもの、ねえ」
アキトの目が、僅かに険しさを帯びる。金銭ではなく、何か別の価値あるものを賭ける勝負――その言葉の裏に潜む不穏さを、アキトは瞬時に感じ取っていた。
「具体的には、どういったものを想定してるんだ」
「それは参加者次第だ。土地の権利証、貴重な宝飾品、あるいは……」
ゴードンは意味深に言葉を切ると、先ほどまで見ていた不安げな女性の方へと、ちらりと視線を投げた。
「奴隷契約書、というのも、この地方ではよくある話でね」
その一言に、リーゼロッテの表情が明確に硬くなった。アキトもまた、内心の怒りを抑え込みながら、努めて平静を装う。
「面白い趣向だな。……で、俺たちは何を賭けりゃいい?」
「あなた方の場合、その招待状自体が、既に一定の"信用"の証だ。今夜のところは、こちらで用意した最低限の元手から始めていただこう。もっとも、腕に自信があるのなら、勝ち進むにつれて、自らの持ち物を賭けに加えることも可能だ」
「そいつはありがたい話だ」
アキトは表面上、余裕の笑みを崩さなかったが、内心では静かに闘志を燃やしていた。この歪んだ勝負の仕組みそのものを、正々堂々の勝負でひっくり返してやる――その決意が、胸の奥で確かな熱を帯び始めていた。
「気になるかね? 詳細は、卓についてからのお楽しみだ」
ゴードンはそう言い残すと、他の招待客たちの元へと歩み去っていった。
「……嫌な予感がします」
リーゼロッテが小声で呟く。
「ああ、俺もだ。価値あるものを賭ける、ねえ。……まさか」
「まさか、人身売買のようなものが絡んでいる可能性も」
「否定はできねえな。だが、今更引き返すつもりもねえ」
アキトは会場を見回しながら、参加者たちの顔ぶれを観察していく。中には、明らかに堅気ではない雰囲気を纏った男や、逆に切羽詰まった様子で周囲を窺う商人風の男の姿もあった。それぞれが、何かしらの事情を抱えて、この危険な勝負に足を踏み入れているのだろう。
「アキト、一つ確認しておきたいのですが」
リーゼロッテが真剣な眼差しでアキトを見つめた。
「もし、あの女性が本当に賭けの対象にされているのだとしたら、あなたはどうするおつもりですか」
「決まってんだろ」
アキトは即座に答えた。
「勝負に勝って、そいつを取り返す。それだけの話だ」
「危険が伴います」
「危険じゃねえ勝負なんざ、俺の性に合わねえよ。それに――」
アキトはニヤリと笑いながら、懐で銅貨を軽く弾いた。
「弱者を賭けの道具にするような連中に、正々堂々の勝負で負けを認めさせてやる。それが、俺なりの意趣返しってやつだ」
その言葉に、リーゼロッテは僅かに目を細めた後、小さく頷いた。
「あちらをご覧ください」
リーゼロッテが視線で示した先、会場の隅に、一人の女性が寂しげな表情で佇んでいた。上等なドレスを着ているものの、その瞳には隠しきれない不安の色が滲んでいる。
「あの女性、恐らく招待客の連れでしょう。ですが、様子がおかしいですね。まるで、自分の意志でここにいるのではないような」
「……気になるな。後で話を聞いてみるか」
アキトはさりげなくその女性へと視線を向けた。歳の頃は二十代半ばほどだろうか。その傍らには、先ほど卓で見かけた恰幅の良い商人風の男が、時折彼女の様子を確認するような視線を送っていた。まるで、彼女が何か"商品"であるかのような、値踏みするような目つきだった。
(あの目つき、嫌な感じがするな)
アキトの脳裏に、かつて奴隷市場でミミを見た時の記憶が蘇る。あの時感じた憤りと似た感情が、静かに胸の奥で燃え始めていた。
やがて、会場の中央に設けられた壇上に、ゴードンが姿を現した。周囲の照明が一斉に絞られ、壇上にだけ、鮮やかな光が降り注ぐ。会場全体の視線が、一気にその一点へと集中した。
「皆様、お待たせいたしました。それでは、本日の催し――『黄金の宴』を開幕いたします!」
その号令と共に、会場のあちこちに設置された数々の卓へと、招待客たちが誘導されていく。それぞれの卓には、既に見張りらしき従業員が控え、勝負の公正さ――少なくとも表向きの公正さを保証するための立会人として、その場に佇んでいた。アキトとリーゼロッテもまた、割り当てられた一つの卓へと案内された。
卓についたのは、アキトを含めて四人。向かいには、これまで見たことのない顔ぶれが並んでいる。一人は、鋭い眼光を持つ壮年の男。もう一人は、やけに落ち着いた様子の若い女性。そして最後の一人は、先ほど会場の隅で見かけた、不安げな表情をしていたあの女性の連れだと思われる、恰幅の良い商人風の男だった。
「よろしく頼むよ、諸君」
壮年の男が、低い声でそう言うと、周囲の空気が一気に張り詰めた。彼の名はガレスといい、この地方一帯で名を馳せる名うての賭博師らしいと、周囲の招待客たちの噂話から漏れ聞こえてきた。その隣に座る若い女性は、名をエリシアといい、涼しい顔つきの奥に、油断ならない鋭さを秘めているのが見て取れた。
そして、恰幅の良い商人風の男――名をバロウという――は、しきりに額の汗を拭いながら、落ち着かない様子で自分のカードを覗き込んでいた。その挙動不審な様子から、アキトは彼が抱えている事情を、おおよそ察することができた。
(金に困ってる、って感じじゃねえな。……何か、別の理由がありそうだ)
ディーラーが厳かな手つきでカードを配り始める。会場全体を包む緊張感が、一気に高まっていくのが感じられた。
「アキト」
リーゼロッテが小さく囁く。
「何があっても、冷静に。……あなたなら、大丈夫です」
「言われなくても分かってるよ」
アキトは不敵に笑いながら、配られたカードを手に取った。手の中に感じるカードの感触、周囲の緊張した空気、そして卓を囲む対戦相手たちの息遣い――そのどれもが、これまで幾度となく経験してきた勝負の記憶と重なり合う。
壮年の男、ガレスが最初に口を開いた。
「さて、賭け金の確認といこうか。私は、この街に持つ小さな別荘の権利証を賭けよう」
その言葉に、若い女性エリシアが涼しい顔で応じる。
「私は、亡き父から受け継いだ宝飾品の一式を」
二人の視線が、次に恰幅の良い商人風の男――バロウへと向けられる。彼は一瞬言い淀んだ後、震える声で告げた。
「わ、私は……あちらの、契約書を」
その言葉と共に、バロウが取り出したのは、確かに一枚の契約書だった。そこに記された名前を見て、リーゼロッテが息を呑む。それは、会場の隅で不安げにしていたあの女性の名だった。
(やはり、そういうことか)
アキトの内側で、静かな、しかし確かな怒りが燃え上がる。だが、それを表情には出さず、あくまで平静を装いながら、自らの賭け金を提示する番となった。
「俺は……」
アキトは懐から、僅かに残った銅貨を取り出した。
「これしか持ち合わせがねえ。だが、勝ち進んだ暁には、俺自身の全てを賭けると誓おう」
その言葉に、周囲の対戦相手たちが一様に驚きの表情を浮かべる。だが、アキトの瞳には、これまでの旅で培われた、揺るぎない自信が宿っていた。
ディーラーが最後のカードを配り終えると、卓上に重苦しい沈黙が降りた。会場全体を包む緊張感が、一気に高まっていくのが感じられた。
運命の勝負が、今まさに幕を開けようとしていた。
会場の熱気と緊張が入り混じる中、アキトはこれから始まる勝負への期待を、静かに、しかし確かに胸の内に燃やしていた。かつて幾多の勝負を潜り抜けてきた男の勘が、今夜もまた、何か大きな運命の分岐点になることを告げているようだった。
リーゼロッテもまた、卓の向こうに座る三人の対戦相手を、鋭い観察眼で見つめていた。ガレスの落ち着き払った所作、エリシアの隙のない佇まい、そしてバロウの隠しきれない動揺――それぞれの性質を読み取りながら、彼女は静かに次の一手を思案していた。
会場を見守るシルヴィアとミミもまた、遠く離れた場所から、この夜の行方を静かに見守り続けていた。何が起ころうとも、すぐに動けるように。仲間たちの帰りを、二人はじっと待ち続けていた。
三日間の準備を経て迎えたこの夜、四人がそれぞれの場所で背負う想いは、決して軽いものではなかった。
運命の勝負が、今、静かに幕を開けようとしていた。
卓を囲む面々の視線が交錯する中、開幕を告げる緊迫の空気だけが、静かに会場全体を包み込んでいった。
この一夜が、四人の運命をどこへ導くのか、まだ誰にも分からなかった。




