空間圧縮の魔導書
「……ああぁぁ、俺のツーパンツスーツが……」
ひび割れた祭壇の中心で、右袖が弾け飛んだジャケットを見つめながら、俺は膝から崩れ落ちていた。
『幻影書庫』の最深部を守護していたレベル3500の隠しボス、【忘却の霊神】は完全に消滅した。だが、空間ごと殴りつけるという荒業の代償として、俺の社会人としての防御力はゼロになってしまった。
「あ、朝倉さん、元気出してください……! ほら、クロちゃんが何か見つけてきましたよ!」
『キュッ!』
しずくに励まされながら顔を上げると、妖狐のクロが瓦礫の中から一冊の古い本を咥えて持ってきた。
漆黒の装丁に、禍々しい銀色の文字が刻印された分厚い書物。
「本……魔導書か?」
俺は破れた袖を気にしつつ、その本を受け取った。
システムウィンドウを呼び出し、【鑑定】のスキルを発動させる。
【アイテム:神代の魔導書(古代空間魔術理論)】
【魔法名:『絶対空間圧縮』】
【用途:超質量、または概念的危険物を絶対隔離するための防壁・保管魔法】
【習得条件:魔力量100,000以上(※人類の限界値を大幅に逸脱)】
「絶対空間圧縮……?」
俺がウィンドウの文字を読み上げると、しずくが目を丸くした。
「そ、それって、魔法の歴史の教科書に載ってた伝説の結界魔法ですよ! 大昔の賢者が、国を滅ぼすようなバケモノを『空間の箱』に閉じ込めて封印したっていう……」
「なんだ、攻撃魔法じゃないのか。ただの箱詰め魔法ね」
俺は少しがっかりした。
てっきり「炎の隕石を落とす」とか「光の剣を出す」みたいな、物理無効の敵をぶっ飛ばせる派手な攻撃魔法だと思ったのに。
「でも、すごいですよ! 習得条件の『魔力10万』なんて、日本のS級探索者全員の魔力を合わせても全然届かない数字です。完全に神話の――」
しずくが興奮気味に語る横で、俺は魔導書を見つめながら、ふとある事に気がついた。
「……待てよ」
俺は脳内で、サラリーマンとしての論理を組み立て始めた。
「雨宮さん。この『絶対空間圧縮』ってのは、要するに『対象と外界の間に、絶対に干渉できない空間の断層を作る』ってことだよな?」
「え? は、はい。空間を圧縮して壁にするので、内側からも外側からも物理・魔法を問わず絶対に触れられなくなりますが……」
「それだ」
俺はポンッと手を打った。
「その『絶対に触れられない空間の壁』を、極限まで圧縮して、厚さ数ミリの『手袋』や『靴』の形にして、俺の両手両足に纏わせたらどうなる?」
「……え?」
しずくがポカンと口を開ける。
「つまり、俺の拳の表面を『空間の断層』で薄くコーティングするんだ。そのまま敵を殴れば、俺の肉体じゃなく『圧縮された空間そのものの質量』がぶつかることになる。空間で殴るんだから、さっきの幽霊みたいな『物理無効』の敵にも確実に当たるだろ?」
「ええっ!? 結界魔法を、殴るためのメリケンサックみたいに使うってことですか!?」
「そうだ。しかも、俺の拳と敵の間には『絶対に干渉できない空間の壁』がある。ってことは……どんなに汚いモンスターを全力でぶん殴っても、返り血を一滴も浴びないし、服が擦れて破けることもない!」
俺は立ち上がり、大声で宣言した。
「これなら、スーツが絶対に汚れないし、クリーニング代も浮く! 究極の『手袋』だ!」
「発想がせこいのか規格外なのか全然わかりません!!」
しずくが頭を抱えてツッコミを入れたが、俺の耳には入っていなかった。
これこそ、俺が求めていた「スーツで戦うための最強のソリューション」だ。
俺は迷わず、漆黒の魔導書に向かって、体内で持て余している神竜の魔力を全開にして注ぎ込んだ。
『――条件クリア。マスターの魔力容量(測定不能)を確認』
『魔術理論【絶対空間圧縮】をインストールします』
その瞬間、分厚い魔導書が眩い光の粒子となって砕け散り、俺の両手へと吸い込まれていった。
知識と術式が、脳と体に直接刻み込まれていく。
「よし、インストール完了だ。早速試してみようぜ」
俺が両手を軽く握り込むと、シュゥゥゥンッ……という低い振動音と共に、俺の両手と両足の表面に『黒い靄』のようなものが薄く纏わりついた。
よく見ると、ただの靄ではない。光すらも歪曲して飲み込む、極限まで圧縮された「空間の断層」が、オーダーメイドの革手袋のようにピタリと俺の手足を覆っているのだ。
「おおっ、軽い! なのに、とんでもない密度を感じるぞ」
俺が黒い空間のグローブを嵌めた手でシャドーボクシングをすると、シュッ! と振るたびに、周囲の空気が悲鳴を上げて切り裂かれた。
「あ、朝倉さん……! 喜んでるところ申し訳ないんですが、アレ……!」
しずくの切羽詰まった声に顔を上げると、崩壊した祭壇の奥から、無数の青白いスライムのようなものが湧き出していた。
【エネミー:忘却の残滓】
【レベル:800】
【特性:物理攻撃無効、スライム(分裂・霊体系)】
どうやら、さっき俺が空間ごと砕いた『忘却の霊神』の残骸(魔力)が分裂し、大量のレッサーモンスターとなって復活したらしい。
その数、ざっと五十体。もちろん、全てが物理攻撃をすり抜ける厄介な特性を持っている。
『ピギィィィィッ!!』
スライムの群れが、津波のように俺たちに向かって押し寄せてきた。
「ちょうどいい。新しい『手袋』の感触を試すには、最高のサンドバッグだ」
俺は破れた右袖を気にすることなく、空間の断層を纏った拳を構え、ニヤリと笑ってスライムの津波へと飛び込んでいった。




